「おすすめプレイリスト」を聴いていては、真の「音楽の民主化」は達成できない

猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)

執筆者:木村元 2021年6月20日
カテゴリ: カルチャー
エリア: アジア
猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)

  リモートワーク中心の巣ごもり生活が続き、自宅で音楽を聴く時間が増えた。CDを買いに出かける機会も減ったので、もっぱらApple Music、Spotifyといった音楽配信サービスを利用している。数年前にくらべて、クラシックの音源も驚異的なペースで増え、毎月リリースされる新譜はもちろん、ショップではもう手に入らない古い音源も、検索すればたちどころに見つかる。ユーザーの好みの曲を次々に自動再生してくれる機能もあるので、長時間集中して仕事をするときなどは、BGMとしてかけっぱなしにすることが多い。たまに、聴いたことのない曲が耳にとまり、そこから未知の作曲家や演奏家との出会いがもたらされることもあるが、たいていはAI(人工知能)が選曲する「あなた好みのクラシック」を漫然と聴き流すだけである。

 音楽家たちを召し抱えていた王侯貴族や教会の力が弱まり、代わりに市民が台頭するにつれて公開演奏会が盛んになり、その後録音技術が登場しレコードやCDが普及して、ついには現在のような配信サービスの隆盛にいたる流れを、「音楽の民主化」と表現することもある。ただ、コンピュータのアルゴリズムがレコメンドする音源を、受動的に聴いている現在の状況が、はたして真に民主的といえるのだろうか。

 本書の著者・猪木武徳氏は日本経済学会会長もつとめた高名な経済学者。本書を「とくにアダム・スミス、トクヴィル、オルテガなどの自由思想の視点からクラシック音楽の歴史を振り返ったもの」(290頁)と位置づける。自分は音楽の専門家ではないとたびたび断りつつも、個々の作品の形式や内容について、かなり踏み込んだ議論を展開するが、その記述に説得力をあたえているのは、つねに主体的な聴き手たらんとする探究の姿勢と、「音楽のデモクラシー」を見据える確固たる視座である。

 いまだ絶対君主に雇用されていたハイドンが、4人の弦楽器奏者が対等に奏でる弦楽四重奏というきわめて民主主義的なフォーマットを確立しえたことにみるように、音楽はしばしば時代に先行して社会の向かう先を指し示す。20世紀のピアニスト、グレン・グールドの目には、録音・再生技術の急速な進歩の結果、作曲家・演奏家・聴き手の三者がそれぞれ自律的に芸術活動に参与する世界が、もはや手の届くところに見えていた。しかし、だとしたら、音楽配信サービスの恩恵を最大限に享受している21世紀のわれわれが、真に民主化された音楽の国の市民たる自覚をいまひとつもてないでいるのはなぜか。

 「複製技術は音楽を楽しむ人々の数と機会を増やした。技術は芸術世界にも民主化をもたらした。しかし同時に、逆説的なことだが、その民主化が極めて強い「隷属の精神」を生み出すかもしれない。それは政治の世界において無制約な平等化の進展が、強力な独裁権力と、その権力に追随する隷属の精神を生み出す現象と軌を一にしていることは言うまでもない」(173頁)

 デモクラシーの実現と維持は、その社会の成員たるわれわれが、いかに「隷属の精神」から決別し、自覚的・主体的にその社会を守り抜いていくかにかかっている。そして、その闘いのなかで、芸術に思いをはせることの大切さを、著者はこう説く。

 「芸術がわれわれの生活にとって、その精神的な渇きを癒す力を持ち続けるために、そして人々が個人主義の堕落した形の利己主義に退化しないためにも、「いま、わたし」への関心だけでなく、「未来、他者」についての想像力の根を枯らしてはならない。その根を護ることによってはじめて、デモクラシーは全体主義や悪しきポピュリズムへと堕する道を避けることができるのではないか」(285頁)

 AIの提供する「あなた好みのクラシック」は、なるほど「いま、わたし」への関心しか満たしてくれない。そこから脱却し、「未来、他者」についての想像力を賦活し羽ばたかせるために必要なのは、作曲家たちが数百年にわたって、音楽という言語をもちいて示してきた社会思想を、彼らの遺した作品から読みとり、大いに語ることではないか。著者が本書をつうじ、身をもって示してくれているように。

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執筆者プロフィール
木村元(きむらげん) 書籍編集者。株式会社アルテスパブリッシング代表。 1964年京都生まれ。上智大学文学部哲学科を卒業後、株式会社音楽之友社に入社。2007年独立して株式会社アルテスパブリッシングを創業。音楽書を中心に旺盛な出版活動を展開。「音楽書と人文書を融合。独自ジャンル創出」(『新文化』2017年6月15日号)と評される。 著書に『音楽が本になるとき──聴くこと・読むこと・語らうこと』(木立の文庫、2020)、『音楽のような本がつくりたい』(木立の文庫、2022年)。 桜美林大学リベラルアーツ学群非常勤講師。国立音楽大学評議員。「北とぴあ国際音楽祭」アドバイザー。 Twitter @kimuragen
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