コリン・パウエルと共に「大きな合意」を喪くす分断のアメリカ

執筆者:中山俊宏 2021年11月11日
エリア: 北米
パウエル元国務長官の死去によってアメリカは何を失ったのか(Official portrait of Colin L. Powell as the Secretary of State of the United States of America)
 
イラク武力介入への責めを 不当に負わされつつ政権を去り、後に共和党員でありながらオバマを支持、最晩年には「いかなる党派にも属さない」と表明するに至ったパウエル元国務長官の遍歴は、あたかもアメリカの分断の軌跡をなぞって行くかのようだった。党派を超えて尊敬を集める「グレイト・アメリカン」はもう現れないのだろうか。

 さる11月5日、歴代の大統領が参列するなか、コリン・パウエル将軍の葬儀がワシントンの大聖堂で執り行われた。10月18日、パウエル将軍(享年84)が亡くなり、アメリカは国民的英雄を失った。COVID-19による合併症だった。

 生涯にわたって盟友だったリチャード・アーミテージ元国務副長官が別れの言葉を送った。大聖堂は稀代の英雄を失った悲しみに満ちつつも、その一生を讃える賞賛の思いも充満していた。しかし、それはまた、「失われたアメリカ」に思いを馳せる場でもあった。

 パウエル将軍は、同時代の人でありながらも神話的存在で、いつまでも生きているような気がしていた。

 ただ、10月上旬にアップロードされた長女リンダとの対話の動画を見ると、死期を予感していたように見えなくもない。自らの少年期を振り返りつつ、母校ニューヨーク市立大学のコリン・パウエル・スクールに通う学生たちの姿に自分の姿を重ね涙ぐむ英雄の姿は、時の残酷さではなく、むしろこの人が「良き人生(グッド・ライフ)」を歩んできたことを静かに物語っていた。

 ちなみに、多くの人はパウエルのことをウェストポイント(陸軍士官学校)出身のエリート軍人だと思い込んでいるが、彼は予備役将校訓練団(ROTC)を介して陸軍に入った叩き上げだ。

黒人の地位を押し上げたトレイルブレイザー

 パウエルと言えば、黒人初の国家安全保障担当大統領補佐官、黒人初の統合参謀本部議長、そして黒人初の国務長官という輝かしい経歴が常に取り上げられる。バラク・オバマ大統領以前に、黒人でここまでの高みにたどり着いた人はいない。まさに「トレイルブレイザー(先駆者)」だ。

 1996年大統領選挙への出馬も期待され、最終的に取りやめるも、もし仮に出馬していれば、ビル・クリントン大統領の再選を阻んだだろうとも言われている。歴史に「if」はないが、もし彼が出馬していれば、歴史は大きく変わっていただろう。おそらく、パウエルがいなければ、12年後にオバマが大統領を目指すにあたって越えなければならないハードルははるかに高かっただろう。

 パウエル将軍は、本人はそうは意図していなかったであろうが、公民権に関し、マルティン・ルーサー・キング牧師に比肩する役割を担った。この二人の年齢はそう大きくは違わない。キング牧師は1929年生まれ、一方パウエルは1937年生まれだ。軍人パウエルは、一度も公民権運動に活動家として合流したことはなかった。キング牧師が公民権運動の先頭に立っていた頃、パウエルは南ベトナム軍のアドバイザーとしてベトナムに滞在し、戦線の真っ只中にいた。彼は一貫して「プロフェッショナル・ソルジャー」だった。

 パウエルが軍に入った頃は、ちょうど黒人兵士の地位や権利につき軍の中で意識が変わり始めていた頃でもあった。軍は、実社会と比べてはるかに人種的にフラットな組織ではあったが、それでも多くの「区別」があった。パウエルは、その「区別」に正面から抗議するのではなく、目の前にあるタスクを誰よりも確実にこなし、着実に自分の評判を上げ、最終的に軍の最高位まで上り詰めた。

 あるエピソードがある。これは加藤良三元駐米大使からうかがった話だ(加藤元大使はこのエピソードを、11月3日に放送されたBS日テレ深層ニュースでも語っている)。

 加藤元大使は、王貞治とパウエル国務長官がワシントンで会った時に立ち会っている。野球好きのパウエルは王選手と会うにあたって、ハンク・アーロンの世界記録を抜いた756号のホームランの動画を事前に見ていたという。二人が会うと、パウエルは王選手の美しい打法を称えつつも、その後のダイヤモンドを一周する姿が「優雅(graceful)」だったと伝えた。過剰に騒ぎ立てるわけではなく、淡々とベースランニングをする王選手に、自分の姿を重ねたのではないか。

 パウエルと彼の成し遂げた功績との関係も同様だった。決して騒ぎ立てることはしないが、誰よりも高みにいく。そして、それが結果として、確実な痕跡となり、人々がその上を歩いていく道となっていく。まさに「トレイルブレイザー」だ。

 この言葉を、パウエルが亡くなってから、何度聞いたことだろう。

アメリカのあるべき姿を投射できる数少ない人物

 多くの人がパウエルに対して尊敬の念を抱いていたのは、彼の役職や、在任中に成し遂げた仕事ゆえではない。むしろ、それを含むパウエルの生き様そのものに人々は惹きつけられ、アメリカのよき可能性をパウエルに見出していた。パウエルの存在は、アメリカのよき可能性を躊躇なく肯定する。若干、大袈裟ではあるが、パウエルの存在はアメリカの存在そのものを肯定していた。

 いま、アメリカを見渡して、党派を超えて人々の尊敬を集められる人はそうは見当たらない。党派や人種、さらに世代やジェンダーによって深く分断されたアメリカは、アメリカのあるべき姿を投射できる人についてなかなか合意することができなくなっている。特定のグループの中で尊敬を集める人ならいくらでもいる。しかし、分断を超えて「この人ならば」という人物がなかなかいないことは、アメリカにおいて「大きな合意」が揺らいでいる状況を象徴している。

 そうしたなか、パウエル将軍は、多くの人が「偉大なアメリカ人」だと合意できる人物だった。いまのアメリカが直面する出口が見えない分断状況を考えると、パウエルを「ラスト・グレイト・アメリカン」と呼んでもあながち誇張とも言えないかもしれない。

グッド・ソルジャーゆえの人生の汚点

 こんなパウエル将軍にも「汚点」がないわけではない。それは自らも認めていたところだ。

 2003年2月、ジョージ・W・ブッシュ政権の国務長官として、パウエルは国連安全保障理事会公式協議の場でイラクへの武力介入の正当性を訴えるスピーチを行った。武力介入の是非につき世界は真っ二つに割れていた。いや、むしろ反対の声の方が大きかった。それは、ディック・チェイニー副大統領やドナルド・ラムズフェルド国防長官などの保守ナショナリストと国防総省内のネオコン勢力が結託し、イラクへの武力介入自体を政治目的化しているのではないかとの不信感の方が広く行き渡っていたからだ。

 退役していたとはいえ、安全保障政策の中枢でキャリアを築いてきたパウエルは、まちがっても平和主義者ではなかった。しかし、ベトナム戦争の混乱を間近で体験していたパウエル長官は、アメリカが力を行使する際には、その目的がはっきりとしていなければいけないとの強い信念を持っていた。パウエルから見て、イラクへの武力介入はその基準に合致していなかった。

 しかし、パウエルは政権内の路線闘争で敗退し、しぶしぶではあるが、アメリカ国民に対して、そして世界に対して、イラクへの武力介入の必要性を訴えるメッセンジャーの役割を引き受けさせられた。安保理演説は、キューバ危機の際にアドレー・スティーブンソン国連大使が行ったスピーチのような”スラムダンク”になるはずだったが、武力介入後のイラクは混乱を極め、パウエルが介入の根拠として提示した大量破壊兵器は見つからなかった。

 この時、パウエルはブッシュ大統領の決断に対しては、明示的には反対しなかったと言われている。それは彼が「グッド・ソルジャー」だったからだ。

 政権内で、パウエルが慎重派だったことは周知の事実だった。しかし、パウエルは、大統領にことの難しさを伝えることはしても、決断そのものに対して反対はしなかった。大統領の決断に対して物申すべきではないという「グッド・ソルジャー」の体質が、理性的な判断を上回った。抗議して辞任すべきだとの声もあったが、彼は政権内に留まった。介入派は政策論争に勝利し、政権内で最も信頼を集めていたパウエルを利用し、武力介入を世界に売り込んだ。

 こうして、2001年に大物国務長官として就任したパウエルは、2004年に再選したブッシュ政権には合流せず、失意のうちに政権を去っていくことになる。

 パウエルは、自分が亡くなった時の追悼文の最初の文章で、この安保理演説への言及があるだろうと述べていたという。現に多くの追悼文で、安保理における演説への言及があった。それは、パウエル自身が一番よくわかっていた自分のキャリアの汚点であった。

排外主義的傾向への懸念

 国務長官退任後、しばらく目立った活動がなかったパウエルだが、2008年の大統領選挙において、決定的な役割を果たした。ブッシュ政権に国務長官として政権入りする段になって初めてパウエルは自らが共和党員であることを明らかにしたが、そのパウエルが初の本格的な黒人大統領候補に関し、どういう姿勢を取るかに全米が注目していた。

 選挙の2週間前にNBCの政治討論番組「ミート・ザ・プレス」に出演したパウエルは、力強く自分がなぜ盟友で共和党のジョン・マケイン候補ではなく、オバマ候補を支持するかを語り出した。これは、自分が所属する共和党の中で排外主義的傾向が増大していくことに対する懸念の表明だった。

 マケイン自身は、選挙キャンペーン中、さまざまな場面で、排外主義的な傾向を押しとどめようとはしていた。したがって、パウエルによるオバマへの支持表明はマケイン批判ではなかった。しかし、マケインがサラ・ペイリン候補を副大統領候補として指名したこと、そして異質なものに対する彼女の攻撃的な違和感の表明に、パウエルは否定しなければならないものを感じとったのだろう。ペイリンをめぐる熱気は、時にマケインのそれを凌駕した。

 パウエルがオバマへの支持表明をしたことは、リーダーとしての経験を欠いた「やせっぽちの奇妙な名前の青年」(オバマ自身の言)への不安を和らげる効果を持ったのは明らかだった。

 ペイリン自身はその後、後景に退いていくが、その熱気はティーパーティー運動、そしてトランプ現象に引き継がれていく。それは異質なものへの違和感に突き動かされる運動であり、パウエルが生涯、自らの行動を通じて静かに退けようとしてきたものでもあった。

 2016年の大統領選挙ではヒラリー・クリントン候補への支持を表明、2020年はジョー・バイデン候補を支持、そして2021年1月6日の「MAGA反乱(連邦議会襲撃事件)」を受けて、もはや自分は共和党員ではなく、いかなる党派にも属さないと表明した。

もう一歩踏み込んで欲しかった

 パウエルの死去が伝えられると、トランプ前大統領は翌日にいやみたっぷりの声明を発表した。「イラク戦争で大きな過ちを犯した(中略)コリン・パウエルが、フェイク・ニュース・メディアによって美しく追悼されているのを見るのは素晴らしいことだ。自分もいつかそう扱ってもらいたい。彼は典型的なRINO[名前だけの共和党員]だった。(中略)彼はたっぷり間違いを犯した。まあそれはともかく、安らかに眠って欲しい」という辛辣な文章だ。黙っていさえすればいいものを、それができないトランプらしい。本稿冒頭では書きそびれたが、トランプは当然、葬儀には出席していない。

 共和党内にはさまざまな動きがあるが、エネルギーがあるのはトランプ派だ。一部には共和党自身が「トランプ党」になってしまったとの見方さえある。そういう共和党にパウエル将軍の居場所はない。しかし、左傾化の度合いを強める民主党も、イラク戦争を止めることができなかったパウエル将軍を受け入れる余裕があるかどうかは疑問だ。民主党内の「ジャスティス派(左派)」にとって、イラク戦争は米外交史上、最大の汚点の1つである。

 数ある追悼文の中でも強く印象に残った一本がある。それは、ニューヨークタイムズ紙の保守派のコラムニスト、ブレット・スティーブンスによる一本だ。スティーブンスはコラムを、「パウエル将軍、あなたは96年に出馬すべきだった。安らかに眠って欲しい」という言葉で締めくくっている。

 パウエル将軍は、どこまでいっても「グッド・ソルジャー」だった。それがあらゆる限界を突破したソルジャーの限界でもあった。パウエルの一生を振り返りながら、そしていまアメリカが直面する問題の根深さに思いを馳せながら、パウエル将軍にもう一歩踏み込んで欲しかったという思いを抱かずにはいられない人は少なからずいるだろう。アメリカをまとめることができた最後の人物がパウエル将軍だったというようなことにならないといいと願わずにはいられない。

若き日のパウエル将軍(C)mark reinstein/shutterstock.com

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
中山俊宏(なかやまとしひろ) 1967年生れ。慶應義塾大学総合政策学部教授、日本国際問題研究所上席客員研究員。専門はアメリカ政治・外交、国際政治。日本政府国連代表部専門調査員、津田塾大学国際関係学科准教授、青山学院大学国際政治学科教授を経て、2014年より現職。著書に『アメリカン・イデオロギー――保守主義運動と政治的分断』(勁草書房、2013年)、『介入するアメリカ――理念国家の世界観』(勁草書房、2013年)、共著に『アメリカ現代政治の構図』(東京大学出版会)、『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店)などがある。
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