日本経済を「推し」が救う!?

執筆者:矢嶋康次 2022年6月22日
タグ: 日本
エリア: アジア
発言を撤回した黒田総裁(C)時事
「家計が値上げを受け入れている」という日銀・黒田総裁の発言が批判を浴びた。マクロの消費はデフレ下で冷めたままだが、ミクロには熱量バリバリの消費がたくさんある。マクロとミクロのこの乖離はどこから来るのか。ニッセイ基礎研究所の矢嶋康次チーフエコノミストがさまざまな統計から「リアル経済」を語る連載第1弾。

批判を浴びた黒田発言

 日銀の黒田東彦総裁は6月8日の衆院財務金融委員会で、批判を招いた「家計が値上げを受け入れている」という6日の講演での発言について「表現は全く適切でなかった」と述べ、撤回に追い込まれた。

 この発言の元になったのは、東京大学大学院の渡辺努教授などが行っている「5カ国の家計を対象としたインフレ予想調査」だ。

 今年5月の調査で、「あなたがいつも行っているスーパーでいつも買っている商品の値段が10%上がったとします。あなたはどうしますか?」という質問に「他店に移る」と回答した人が、昨年8月の57%から44%まで減少したことなどを受けて、黒田総裁は「家計の値上げ許容度も高まってきている」と発言した。実際、調査自体も「日本の家計の値上げ耐性が高まった」と結論付けている。

 しかし、この質問で最も多かった回答は「その商品をその店で買い続ける。ただし、買う量を減らしたり、買う頻度を落としたりして節約する」であり、要するに何とか値上げに対応しているのであって受け入れているわけではないという多くの人の実感からすると、黒田発言は不適切だった。

リベンジ消費が盛り上がらない日本

 そりゃ、値上げを受け入れる人などそういるわけがない。

 世界は2年以上コロナと戦っている。コロナ禍で行動が制限された人々は外に出て、今までのようなレジャーや外食をしたくてたまらない。それはどこの国でも同じだ。いつまで耐えればいいんだと多くの国で時の政権に怒りが向けられ、政権の支持率が低下した。そして今、多くの先進国でリベンジ消費が起こり、コロナ前の経済活動水準を超えてきている。

 

 しかし、日本ではリベンジ消費が盛り上がらない。経済活動水準は依然、コロナ前を超えてこない。同じ「消費」という言葉が、世界と日本とでは何か違う意味を帯びている。世界では「消費は喜び」、日本では「貯蓄が美徳」で、消費は貯蓄の次にくる概念であるかのようである。

 

 日本全体でみると、20年以上、給与が伸びず、その中で住宅は値上がりし続けている。東京一極集中が進み、私もそうだが地方出身者は、高額な住宅を買うか借りるかしないといけない。当然、食料や衣服などの日常品はケチるしかない。家計は値上げを受け入れてはいないので、企業は消費者に購入してもらうために安売りを仕掛け、そのために人件費を削る。こうしてデフレのがんじがらめのループが生まれた。

 

我が家の「推し消費」

 このように消費の冷めたマクロの状況をミクロの視点から見ると、高い料金を払ってでもやりたいこと、欲しいモノが少ないという解釈も成り立つ。アツいミクロの消費が欠乏しているとの解釈である。

 

 いや、でも、アツいミクロの消費は確実に存在する。

 筆者の場合、それが向けられるのはトラベルミステリーの第一人者、西村京太郎氏の作品である。出張に出るときは必ず新作を買って鞄に入れた。新幹線で読んでいると、通路を挟んだ向こうにも同じ本を読んでいる人がいる。中年の「あるある」だ。西村作品原作の2時間サスペンスも、家族に「こんな展開ありえない」と文句を言われながら、再放送を観まくっている。西村氏が亡くなり、この先「新作買い!」と自分の熱で買うものが1つなくなってしまったことは、残念でたまらない。

 一方、家族(妻と娘)の「推し」は、韓国の俳優やアーティスト。寝る間を惜しんでは、映画やドラマや動画コンテンツを見まくっている。聞くところによると、BTS(防弾少年団)だけで100万人以上の日本人がファンクラブに加入しているという。すごい数だ。

 私が韓流のファンになることはないだろうし、家族も西村ミステリーに興味を示すことはないだろうが、我が家の「推し消費」は決して小さくない。ファンはちょっとやそっとの値上げでは動じないからだ。

マクロの不振とミクロの活況の差

 いろいろなメディアで「沼」特集がされている。さまざまな「沼」にはまってしまった人達があちらこちらにいる。コロナ禍で人との付き合いが減る中、同じ「推し」同士がSNSなどで繋がり、「推し」を共有することで心を豊かにしている。彼らがグッズや動画などに消費するお金は莫大だ。

 消費市場の中には、特定コンテンツが消費者の心を強くとらえ、提供者と需要者の距離を非常に近くする構造が存在する。マーケティングに関わる人は、どうすれば自社製品を消費者に届けられるか、どうすれば消費者に訴求できるか、常日ごろ距離感を縮める努力をしているだろう。消費者の熱量が高い「推し」市場は、マーケターにとって理想形に近いはずだ。

 つまり、マクロの消費はデフレ下で冷めたままだが、ミクロには熱量バリバリの消費がたくさんある。マクロとミクロのこの乖離は、きっと「推し」がいない一部の富裕層の巨額の貯蓄によって生まれているに違いない。そうでないと、マクロ消費の不振とミクロの「推し」消費の活況の差は説明できない。

 日本の消費を伸ばし、経済を広げるチャンスは、「一億総『推し』社会」にある!?

 

カテゴリ: 経済・ビジネス 社会
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
矢嶋康次(やじまやすひで) ニッセイ基礎研究所チーフエコノミスト。1968年生まれ。東京工業大学卒業後、日本生命保険入社。1995年にニッセイ基礎研究所入社へ。2012年よりチーフエコノミスト、2017年より研究理事、2021年より常務理事を兼務。主な著書に『 非伝統的金融政策の経済分析──資産価格からみた効果の検証』(共著・日本経済新聞出版社)、『記憶の居場所(ときのすみか):エコノミストがみた日常』(慶應義塾大学出版会)などがある。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top