中国の情報機関は、米中央情報局(CIA)にも匹敵するほどの「国家安全部」と、公安警察組織である「公安部」、人民解放軍の「参謀第2部」を中心に構成されている、とみられてきた。
だが今、世界の情報機関が最も注目しているのは、中国共産党中央委員会傘下の情報機関、「中共中央統一戦線工作部(UFWD)」である。
今年7月には、米連邦捜査局(FBI)のクリストファー・レイ長官と英防諜機関MI5のケン・マッカラム長官がロンドンで、史上初めての合同記者会見を行い、統一戦線工作部に対し警戒を、と世界に向けて発信した。
「中国共産党は、かつてのように外交官を偽装する工作員を使わない。『千粒の砂』と呼ぶ戦略で、さまざまなチャンネルを通じて情報を集める」
とマッカラム長官は指摘した。
彼らの非伝統的かつ非対称的な情報活動に、米英情報機関のトップは手を焼いているのだ。
統一戦線工作部は決して新しい情報機関ではない。発足は日中戦争開始後の1942年。後の首相、周恩来がトップの初代部長に就任した。ただ戦後の1949年に中華人民共和国が成立した後、国家の情報機関が優先され、重要性が低下したとみられていた。東西冷戦終結後には「廃止された」と筆者に言う日本政府の公安関係者もいた。
しかし、10年前の習近平政権発足後、状況は一変した。習近平中国共産党総書記の肝いりで、この組織は大きく発展し、米英などに脅威を与えるほど強力になったのだ。
総書記が自ら強大化させた情報機関
10月の第20回中国共産党大会での習総書記の政治報告は、新味を欠いた。台湾問題で「決して武力行使の放棄を約束せず」と強硬な態度を示したが、インテリジェンス関係については何らの方向性も示さなかった。
前回2017年の第19回党大会で、習総書記は、「愛国統一戦線を強化し、発展させる。統一戦線は党の事業が勝利を収めるための重要な切り札」だと強調した。この発言は日本ではそれほど重視されなかったが、敏感な欧米の情報機関は、統一戦線工作部を強化する意図を示したと受け止めた。
それに先立つ2014年9月、習総書記は統一戦線工作部に関する演説で、この組織は中国共産党の「魔法の武器(中国語で「法宝」、英語で“magic weapon”)」だと述べていた。なぜそんな恐ろしい言葉を使ったのか。後述するが、重層的で結果を出す工作を展開するのが狙いだったとみられる。
米議会が設置した「米中経済安保見直し委員会」の報告書によると、習総書記は猛烈な勢いで強大化させていった。習氏は2012年に総書記、2013年に国家主席に就任して権力を掌握。それ以後2~3年のうちに統一戦線工作部を4万人以上の大組織に発展させ、自らの直接的な指示で権限も強化した。2015年には、統一戦線工作部に「領導小組」を設置し、自らその委員長を務めている。これにより、「共産党政治局の指令が統一戦線工作部に直接伝えられるライン」ができた。
孔子学院も統一戦線の傘下
統一戦線工作部の任務は主として、中国批判の言説を抑え込み、逆にポジティブな中国観を広めるプロパガンダ工作が役割だとされている。そのために、中国共産党を称賛する歴史解釈を広める。プロパガンダ工作では、統一戦線工作部傘下の非政府組織(NGO)なども使っている。
実際、2005年にオーストラリアに亡命した元中国人外交官が2018年に米「自由アジア放送(RFA)」で、中国政府が在外中国人学生を使って、反政府的な中国人の動向を報告させている実態などを明らかにした。
中国人学生らを監視する組織として知られているものに、「中国学生学者協会(CSSA)」がある。米国では、CSSAは142の支部があり、表向きには在米中国人研究者らの間で親睦を図る組織とされている。だが、実際には中国大使館・領事館の支援を得て、留学生らを監視したり、自由な発言を抑えたりしているという。
日本では、「孔子学院」が一部の大学で閉鎖される、といった問題が表面化した。しかし、現在でも、現在十数カ所の大学で運営が続けられている。
孔子学院は、外形的には「国家漢語国際推広領導小組弁公室(漢弁)」の傘下に置かれている。
しかし実際には、2004年に劉延東元副首相(女性)が統一戦線工作部長だった時にスタートした。統一戦線工作部のプロジェクトなのだ。中国語や文化、歴史を教えているが、当然中国政府の主張に沿った内容となっているようだ。孔子学院が統一戦線工作部の工作として進められていることは、日本ではあまり知られていない。
孔子学院は、世界全体で年間約100億ドルと、1兆円以上の資金が充てられた事業なのだ。
外交安保コミュニティも侵食
このほか、中国側がスポンサーになって、多数の米国人高校生らを中国に招くプロジェクトや、米中研究者の交流も進めている。
しかし、外交安保やハイテク分野などでの交流は危険を伴う。情報や技術が流出する恐れがあるのだ。
問題は、統一戦線工作部の工作は本当に、「プロパガンダ」や「交流」の範囲内で収められているのかどうかだ。そこに「魔法の武器」の秘密が潜んでいる可能性がありそうだ。
例えば、米ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院(SAIS)やシンクタンク「ブルッキングズ研究所」「戦略国際問題研究所(CSIS)」などとの交流に資金を提供している香港の非営利組織「中米交流財団(CUSEF)」はなぜか、米司法省に「外国代理人登録法(FARA)」に基づく登録をしている。
FARAは通常、ロビイストが登録するものだ。しかし、CUSEFの活動は共同研究などにとどまらず、ワシントンの「外交安保コミュニティ」に入り込んで、情報収集をしようとする意図がうかがえる。
重層的な工作で情報漏洩
2007年の第17回中国共産党大会で打ち出された「超大国タレント戦略」を基に、統一戦線工作部が多くの研究者らを米国に派遣した「千人計画」というプロジェクトがある。この計画では、まさに企業秘密やハイテク情報の入手を謀る事件が続発している。
2020年中には、「千人計画」が関わったさまざまな事件が表面化した。テキサス在住の中国系研究者シャン・シーは、中国国営企業のために、米企業が持つ「シンタクティック・フォーム」という技術を盗んだ。この技術は多数の微細な中空球をプラスチックなどに埋め込んだ浮遊性のある物質の製造に関わるもので、潜水艦などで使用される。機微な軍事技術だ。
また、千人計画で中国人研究者を受け入れる側のハーバード大学化学・生化学学部長、チャールズ・リーバー教授は、大学に無断で自ら中国の大学の「戦略科学者」の立場を引き受け、月5万ドル(約750万円)の研究費、15万ドル以上の生活費と中国で研究所を設置するための150万ドル以上の支払いを受けたことを隠していたことから、2020年1月逮捕され、2021年12月有罪判決を受けた。
こうした事件に関連して、レイFBI長官は2020年7月7日、ハドソン研究所での講演で驚くべき統計を明らかにした。FBIは10時間に1件の割合で中国関係の新しい防諜事件捜査を開始し、捜査中の防諜事件の総数5000件のうち半分が中国関係だというのだ。
またMI5は2022年7月現在、防諜事件捜査総数が2018年比で7倍に膨れあがったという。
明らかに、習近平政権下で統一戦線工作部によるさまざまな米中交流プロジェクトが増えた結果、重層的に多種の事件が急増しているのだ。
それと同時に、中国側が得た企業秘密やハイテク情報、外交安保情報は大量に上るとみられるが、実際の被害状況は明らかではない。
CIA工作員を追尾する中国
中共中央統一戦線工作部の本部は、首都北京府右街の共産党本部に隣接しており、街路で見ると幅200メートルにも達する巨大なビルのようだ。
共産党の情報機関がまさに「魔法の武器」として成果を挙げた理由の1つは、中国政府のエリートがすべて共産党員だから、と言えるかもしれない。米国など他国の状況から見ると、CIAのような文民の情報機関と法執行機関のFBI、あるいは軍の情報機関の間の関係はあまりスムースではない。それに比較すると中国共産党の情報機関は、他の情報機関との共同作業が円滑のようだ。
他方、中国情報機関とCIAの間では、不穏な空気が漂っているようだ。
CIAに詳しいジャーナリスト、ザック・ドーフマン氏が外交誌『フォーリン・ポリシー』で報じたところによると、CIAの工作員が世界各地に出張すると、中国の情報機関員に追尾されるケースが2013年頃から表面化するようになったという。
アフリカやヨーロッパで、空港の入国手続きを終えて出ると、中国工作員の追尾が始まる。あえて姿を隠さず、CIA要員だから追跡するという態度を示す者もいるという。
問題は、中国側がいかにして、CIA要員の顔写真などを入手し、どんな工作を展開しようとしているか、だ。
恐らく公安部や国家安全部、さらにサイバースパイ活動を展開する軍の情報機関、参謀第2部などが協力して多くのCIA要員のIDを入手し、彼らの動向を綿密に調査している可能性がある。
各国に駐在する統一戦線工作部の要員も、CIA工作員が訪問する当該国のどんな人物がCIAと接触するのか見張っているのであろう。「魔法の武器」の使用法は多々あるに違いない。