13年目の避難指示解除、飯舘村長泥 「帰還困難」からの古里変容と希望

執筆者:寺島英弥 2023年3月11日
タグ: 原発
エリア: アジア
農地再生工事中の現場と鴫原さん=2023年2月20日、飯舘村長泥(写真すべて筆者撮影)

  2011年の福島第一原発事故で帰還困難区域とされ、四方をバリケードで閉ざされた福島県飯舘村長泥地区。13年目を迎える今年、ようやく避難指示が解除されるが、その面積は長泥全体の17%に過ぎない。環境省が除染とともに農地の再生事業を進め、除染の排出土をかさ上げに用いる全国初の手法によって水田用地も生まれているが、帰還可能となった住民の思いはどうか。3月11日を前に現地を訪ねた。

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 長泥地区の取材は、ほぼ3年ぶりだ。以前に二度、現地取材をさせてもらった元区長の鴫原良友さん(72)に同行し、現在暮らす福島市内から、車で約1時間の長泥に向かった。長年の避難先だった同市飯野町の村営復興住宅に家族と住んでいたが、その狭さから1年前、紹介してもらった中古の一軒家に引っ越したという。

 福島と浜通りの相馬市を結ぶ復興支援道路(自動車専用道)を経て飯舘村に入ったが、通過する各集落に住む人の姿は見えない。村に住むのは3月1日現在で1503人(うち帰還者1224人)で、原発事故前の約4分の1にとどまる。道路わきの田んぼの多くには収穫後の切り株があり、稲作再開は200ヘクタールほどに復活しているというが、それでも原発事故前の3割弱。大半は飯米用でなく、飼料用の生産と聞いた。

 山あいの田んぼが続く一角に、突然、真っ黒い山が現れる。除染後の排土を詰めた大きなフレコンバッグの仮置き場だ。5段積みで延々と連なり、かなり広い面積を占めている。唯一の帰還困難区域となった長泥地区を除き、村は2017年春に避難指示を解除されたが、仮置き場は地区ごとに居座り、復興がいまだ遠いと感じる。

帰還困難区域指定された翌年の飯舘村長泥のバリケード=2013年2月10日

 長泥へ続く国道399号はやがて山道になる。凍結が心配された路面の雪はなく、路肩で固まっており、車は無事、地区の入り口のバリケードを通過した。

〈この先 帰還困難区域につき通行止め〉と掲示された緑色の鉄製バリケードは、高い放射線量で帰還困難区域に指定された2012年7月17日以来、人の往来を閉ざし、長泥の住民ら許可証を持つ人に開門されるのみだ。復興を拒むような原子力災害の実相を象徴する場所であり続けてきた。

原野は消え、大規模造成現場に

 峠道を下った長泥集落は、記憶の風景から一変していた。全住民避難で人の営みが失われ雑木雑草の原野に戻った田畑や無人の家々が消え、今は見渡す限り土色の大規模造成地だ。世界にも例がないという「環境再生事業」が行われている。

 復興庁の復興拠点づくりの計画によれば、対象区域は長泥地区の山間地などを除いた主に平地部分の186ヘクタール。まず、その全域で環境省による除染工事が行われた。

 集落の小さな商店街があった通称・長泥十字路周辺は、現在は更地だが、過去の形見のように古い掲示板が残っている。そこには原発事故当時、鴫原さんらが毎日計測した放射線量の記録紙が今も貼られたままで、恐ろしい数字が並んでいる。

〈(2011年)3月16日 7.5 3月17日 95.1 3月18日 52 3月19日 59.2 3月20日 60 3月21日 45 3月22日40 3月23日 35〉(マイクロシーベルト/時)。

 前回2020年2月の長泥取材時 、同じ掲示板には村の定期測定で「1月29日 2.16」と記録され、放射線量の自然減と思われた。そして今回、掲示板の近くに立つ村の自動測定装置が表示する数値は「0.23」と、ほぼ平常の値に。明らかに除染の効果だった。

飯舘村の各地区に今も残る除染排土の仮置き場=2023年2月20日

 周囲には、環境再生事業が目指す農地再生の現場が広がる。主管する環境省の計画は1~4工区で計34ヘクタール。村内の仮置き場から除染排土を運んで長泥に集め、プラント資設で分別、5000ベクレル以下(1キロ当たり)の土を再生資源化し、原野化した農地のかさ上げに活用。さらに未汚染の厚さ50センチ以上の覆土をし、安全性の実証実験を重ねた上で、最終的に作物の栽培実験行うという。同省の資料によると、再生資源化した土は昨年8月末までに34万6000トン、トラック4万3942台分に上った。

 工区の一つで覆土がほぼ完了し、暗渠(あんきょ)設置や試験栽培を始める予定というが、他の工区は盛り土に数年を要する見通し。前例のない工事ゆえか、飯舘村のスケジュールでも、地権者の農家への農地引き渡しは「令和9年度」という先の長さだ。

 福島県浜通りの同じ帰還困難区域でも復興拠点整備は行われ、双葉町、大熊町、浪江町、富岡町、葛尾村では、除染と居住可能な「まち」機能の再生の上、避難指示解除が順次進められている。その中で、長泥の大規模な農地再生は異例だ。

 72戸の集落だった長泥は、区長時代の鴫原さんら住民の強い要望も空しく、国から除染と復興拠点の対象とみなされなかった。が、2017年10月になって、にわかに「環境再生事業」が環境省から提案された。膨大な除染排土の処分見通しに苦慮した同省にとっては、公共事業向けに資源化する実証事業の意味合いもあった。

 それを受け入れなければ復興拠点も古里再生の可能性もなく、「俺たちからすれば苦渋の選択だった」と当時の鴫原さんは語った。(2018年5月19日の『帰還困難区域「飯舘村長泥」区長の希望と現実(上)動き出した「復興拠点」計画』参照)

栽培試験と生業再開への現実

 旧長泥十字路の一画に水田の試験栽培エリアがある。広さ5アールという圃場が6枚(通常の水田3枚分)並び、稲わらや緑肥作物のすき込み、深耕など生育の条件、また透水性、地耐力、排水など水田機能の比較をする。そのデータを、造成後の農地再生に生かしていくのが目的だという。傍らにビニールハウスが立ち、鴫原さんに案内されて入ると、花のよい香りが満ちていた。ストックやカンパニュラが栽培され、担当スタッフとともに長泥の住民が交代で花作りに通っている。

 エリアの放射線量は除染で大幅に減衰し、避難指示解除の後はバリケードが撤去され、復興拠点内のみという条件ながら、長泥への往来や、12年間も避難状態にあった住民の居住が自由になる。「他のふつうの地域と同じになるということですから」と復興省、飯舘村の担当者は口をそろえる。

 ただし長泥で農家が稲作を再開できるには、再生農地の引き渡しまでなお5年以上を要し、住民がかつてのように自宅の畑で野菜作りを望んでも、原子力災害対策特別措置法の厳しい出荷制限が地域指定で課せられ、個人での解除は不可能。畑作もまた今後の農地再生の行方に掛かる。避難指示解除と生業の再開は別物なのだ。

 試験中の花栽培には可能性がありそうだが、毎日の管理や出荷に手間を要し、施設や居住場所の確保も必要になる。「補助金があれば作ることはできるかもしれないが、それも続かないのが農業の現実。安心して買ってくれる人もいないと。住民の多くは避難生活の間、70代以上になった年配者だ。新たに長泥に来て農業をやりたいという人、企業経営を目指そうという人にも開かれた地域にしないと」と鴫原さん。

守った住民の絆と神社再建

住民が再建した白鳥神社と鴫原さん=2023年2月20日、飯舘村長泥

 鴫原さんの自宅も復興拠点のエリアにある。田畑などは農地再生の対象から外れたが、現在も行政区の役員を務めて、長泥の行く末を考える立場にある。集落の入り口にある自宅は除染と同時に解体され、その跡が屋敷林の中にぽっかりと空いている。敷地の一角には、除染排土を運んだ使用済みフレコンバッグが大量に積まれている。「燃やすこともできないのだろう」と鴫原さんは渋い顔をした。

 家の跡に戻るたびに思うことを問うと、「以前のような愛しさはだんだんと薄れてきた。諦めのような気持ち。さみしいのと悔しいのがある。今だって夢に見て、2時3時になると目が覚める。でも、百姓をして苦労したことしか思い出さない」。

 避難指示解除は近いが、原発事故の後、家族はもう帰らない気持ちだという。「俺は寝泊まりできる小屋を建て、井戸を掘って、いろんな作業をできたら」と話す。

 かつての家は大きな平屋で、父親が70年近く前に分家して建てた。以前、入れてもらった母屋に、もう家具類はなかったが、神棚はそのままに飾られ、地元の白鳥神社の「家内安全、身体堅固、交通安全」の大きなお札が家族の数だけ並んでいた。

 農地再生の現場の西はずれのあたりに、白鳥神社は鎮座する。明治の初代区長、高野熊吉が地元に白鳥神社を勧進し、全戸の住民が代々氏子になって春夏に例祭を催してきた。避難後も、春の例祭には仲間が集まる。昨年春には、住民が社殿を建て直して寄進し、魂入れの儀式を行った。鴫原さんの名も鈴緒の六角胴枠に彫られている。「ばらばらに離れても、俺たちはそうやって絆をつないできたんだ」。

 避難先の仲間とは、毎年3回ほどの集落の草刈りにもトラクター6、7台を連ねて集まり、鴫原さんの区長時代には年一度、飯坂温泉で盛大な交流会を催した。そうして守った住民たちの絆は、「避難」から解かれた後、どう変わるのだろうか。

新しい拠り所、これからの長泥

「住民の交流活動の中心に」と飯舘村も期待する長泥のコミュニティーセンター=2023年2月20日

 最後に立ち寄ったのが、4月に地元に引き渡される新築のコミュニティーセンター。以前、小学校跡にあった旧集会所を取材し、歴代区長の写真や原発事故前の住民の地域づくり活動の写真を眺めた。そうした地区の歴史を伝える資料は後継のセンターに受け継がれないそうだが、代わりに、避難指示解除後に住民たちが寄合を開き、あるいは共同作業の後に集まり、会食し、宿泊もできる施設になるという。センターの前には大きな広場と、バーベキューなどができる野外施設も整備された。それは、長泥の人々が長年、実現を要望した古里の「拠り所」だったという。

 「避難指示解除の後、住民が帰還されるかどうかは、それぞれの自由な選択です」と飯舘村役場。12年もの避難生活は、一家が分かれて暮らし、年配者が一人で復興住宅に住み、あるいは避難先に家を持つなど、それぞれの家族にも変容をもたらした。現実に帰還して生活を始められる基盤は地元になく、帰還を希望してきた住民にも歳月の加齢がのしかかる。鴫原さんが希望を見出すのは、離れた絆をつなぎ直す場、そして、長泥をこれから訪れる人々との楽しみの場づくりだという。

 昨年10月、長泥復興組合の呼び掛けで約100人のボランティアが訪れ、シダレザクラなどを植樹した。住民が半世紀以上も手塩に掛けた桜並木が、避難中に病気で枯れた。新たな名所づくりに「全国から集まった人たちが汗を流してくれた」。

 コミュニティーセンターを会場に、また短期の宿泊場所にし、これから長泥を知りたい人、新たな可能性を求めたい人、被災者の思いを聴きたい人に来てもらう。あるいは外部のさまざまな団体などと一緒に交流のイベントを企画する――。

 長泥で実施する環境再生事業の、他地域での公共事業への活用計画案には批判や反対の声が上がる。「それも、全国の人たちに長泥のことを知ってもらい、思いを馳せてもらえる機会だ、と思っている。俺も、前に進みたいんだ」。

カテゴリ: 社会
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執筆者プロフィール
寺島英弥(てらしまひでや) ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)、『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて――青年将校・対馬勝雄と妹たま 単行本 – 2021/10/12』(ヘウレーカ)、『東日本大震災 遺族たちの終わらぬ旅 亡きわが子よ 悲傷もまた愛』(荒蝦夷)、3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/
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