「母親になった人」と「ならなかった人」の間に横たわる溝を埋める

執筆者:村井理子 2024年1月23日
タグ: ジェンダー
「正反対の人生を生きた私」を想像し互いを思いやることが、「溝」を埋める第一歩だ(写真はイメージです)(C)PeopleImages.com - Yuri A / Shutterstock.com

  「子どものいない女性」はいつから「解決すべき問題」になったのか。女性たちは、社会情勢や文化などに翻弄されて、その都度厳しい選択を迫られてきた。彼女たちの人生を見つめ直し、秘められた想いをすくい上げる話題の書『それでも母親になるべきですか』(ペギー・オドネル・ヘフィントン、〔鹿田昌美訳〕)を、翻訳家でエッセイストの村井理子氏が読んだ。

* * *

 私自身は17歳の双子の息子の母親だが、二人を出産し、育てはじめた頃の自分にもし会えるとしたら、聞いてみたいことがある。

 育児は楽しいですか?

 女性に生まれたのなら、子どもを産むべきだと思いますか?

 母親になることは幸せだと思いますか? 

 産んで良かったですか? それとも?

 17年間におよぶ育児を経験した今現在の私に、誰かが同じ質問をしたとしたら、私はこう答えるだろう。

 「育児は重労働です。それも終わりが見えません。母親であることは幸せだと思う反面、母親でなかった人生を想像することもあります。もちろん、子どもに出会えたことは私の人生で最大の喜びではありましたし、その気持ちが変わることはありませんが、産んでよかったのか、それとも産まないほうがよかったのか、それはわかりません。女性に生まれたのだから、子どもを産むべきかどうかも、簡単に判断できるものではありません」。

 昭和40年代生まれの私にとって、そして同年代の女性たちにとって、結婚したのなら、子どもを産むことは、何か特別な事情がない限り「絶対」というイメージが強かっただろう。

 実際に、結婚直後は、義理の両親や親戚から、矢のような(遠慮なしの)「子どもを産みなさい」という催促が続き、辟易したものだった。周りの友人たちは、20代後半になると結婚をして、30代の前半には最初の子どもを産んだ。「若いお母さん」であることがよしとされる風潮があった。結婚してから8年間も子どもを作る選択をしなかった私は、当然、その枠組みからは外れる存在だった。親戚からは遠回しに受診するよう勧められるようになった。不妊を疑われたのだ。

 そんな、女性にとっては厳しい時代を乗り越えてきた私の同級生のソーシャル・メディアの投稿には、この数年で孫が産まれたという報告が増えている。その脈々と続く「産めよ、増やせよ」との強いメッセージが、私には重い十字架のように感じられる(ただし、50代にして祖母になった同級生たちは、誰もが孫に夢中なようだ)。

 翻訳家でエッセイストという職業柄、出版社に勤める編集者とのつきあいが多く、女性編集者のなかにはキャリアを追求し、次々とヒット作を手がけるような目覚ましい活躍をしているノンマザー(母親にならなかった人)も多い。古い友人のなかにも、ノンマザーは何人もいる。そういったノンマザーとのつきあいと、息子たちの同級生の母親たちとのつきあいは、私のなかではまったく別のものとなっている。ノンマザーの女性たちとは、子どもの話はほとんどしないし、いわゆるママ友と呼ばれる女性たちとは、仕事の話はほとんどしない。

 誰かにそう求められたとか、「母親か、それともノンマザーか」という属性で対応を変えることが必要だからそうしたというわけでもなく、ただ自然にそうなったのだ。それが最も波風を立てず、すべてが丸く収まるやり方だと、私は知らず知らずのうちに気づいたのかもしれない。もしかしたら、大人の女性であれば誰もがそれとなく理解しているのかもしれない。居心地の悪い空気を極力避けるために、私たちは互いを十分思いやり、そのようにして付き合いを続けている。大人の女性同士の付き合いには、それが必要な場面が多々あるように感じられる。

 本書は、母親になった人と、ノンマザーの間にははっきりとした溝があり、それはある目的を持って作られたものだと指摘する。女性が社会的に受け入れられる選択肢を母親業と家庭内の領域に限定し、それ以外のことをする勇気のある人を逸脱者としてマークするためだと言う。

 そして、母親になった人の選択肢とアイデンティティも同時に、この枠組みによって制約を受けているとする。私たち女性を分断しているのは社会であり、子育てを不幸な仕事にしている国家の子育て支援政策の不備にあるとの指摘は鋭い。また、現代社会のプレッシャー、世界的な環境の変化など、親にならないという決断は、「完全に合理的であると言えなくもない」との記述も十分納得できる。

 そんな分断を解消するために、私たちがすべきことは、相互依存だと本書は書いている。社会をより良くするために、「親族」を作る、つまり、自分が産んでいない子どもたち、未来を担う若者、他者、そして家族に寄り添い、心を開き、手を差し伸べていくことだとしている。

 義理の両親に出産をせっつかれてしばらく経過した頃、実母に聞いたことがある。

 「子どもって産むべき? 絶対に産まなくちゃだめ?」

 しばらく考えた母は、ため息をつきながらこう応えた。

 「この国じゃあ、産んでも地獄、産まなくても地獄だからねえ……」

 実の娘を前にしてよくぞ言ったものだなと感心したが、今頃になって実母のこの言葉がボディブローのようにじわじわと効いてきている。

 私たち女性は、産んでも、産まなくても、「正反対の人生を生きた私」を想像し、生涯、その疑問を抱え続ける運命なのかもしれない。

ペギー・オドネル・ヘフィントン(鹿田昌美訳)『それでも母親になるべきですか』(新潮社)
カテゴリ: カルチャー
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
村井理子(むらいりこ) 翻訳家・エッセイスト。1970年静岡県生まれ。訳書に『ヘンテコピープルUSA―彼らが信じる奇妙な世界』(中央公論新社)、『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』(ともに新潮文庫)、『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(きこ書房)、 『黄金州の殺人鬼―凶悪犯を追いつめた執念の捜査録』(亜紀書房)、『エデュケーション―大学は私の人生を変えた』(早川書房)など。著書に『ブッシュ妄言録 ―ブッシュとおかしな仲間たち』(二見文庫)、『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き―おいしい簡単オーブン料理』(KADOKAWA)、『犬がいるから』『犬ニモマケズ』『ハリー、大きな幸せ』(ともに亜紀書房)、『兄の終い』『全員悪人』(ともにCCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top