與那覇潤×勅使川原真衣「能力主義はなぜ生きづらいのか」:「それってあなたの感想ですよね?」への対処法

【関西大学東京センター×論壇チャンネル「ことのは」】

執筆者:論壇チャンネルことのは 2024年2月17日
タグ: 日本
エリア: アジア その他
「能力主義」は本当に公平・公正なのか
近代社会の前提とされてきた「能力主義」が、実は格差を正当化しているのではないか。客観的なデータは常に「あなたの感想」=主観より正しいのだろうか。外資コンサルティングファームでの勤務経験から能力主義を批判する勅使川原真衣氏と、評論家の與那覇潤氏が、人間の「能力」の本質に迫った。(構成・名古屋剛)

※両氏の対談をもとに編集・再構成を加えてあります。

 

與那覇潤(以下、與那覇) 勅使川原さんの著書『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)は、2022年の年末に刊行され、翌23年のあいだを通じて評判だった話題作です。

「能力主義」を抜きにして近代社会は維持できません。身分や血縁で物事が決まる社会よりは、能力で決まる社会のほうがいいですよね、というのが近代社会の大前提ですが、それが「おかしな方向に行っていませんか?」と訴える問題提起の書でもあります。

 15年後の息子に向けて、すでに亡くなっている母親がアドバイスを送る、というユニークな形式で書かれていますが、なぜこういうスタイルで書かれたのでしょうか?

勅使川原真衣(以下、勅使川原) 私は結構重い乳がんを患っていまして、あと数年で死ぬんじゃないかと。その前に、子どもに何か残さなきゃと思ったんです。

 社会に出ると誰もが能力を厳しく評価される。私も「使えない」と言われて育ってきましたが、それって辛すぎるじゃないですか。

與那覇 僕は昔歴史学者をしていましたが、最近では歴史学にすっかり興味を失いました。歴史学では、事実だけを書くのがいわゆる「学問的アプローチ」。書き手の評価を入れると「それはあなたの主観ですよね」と、まるでひろゆきさん(西村博之氏)のようなツッコミが飛んでくる。なので、歴史学者の書くものはしばしば「書き手の顔が見えない本」になり、フェティシストみたいな史実収集マニアにしか影響を与えません。

 その点、この本はいい意味で、勅使川原さん自身の体験に基づく主観が前面に出ている。だからユニークだし、幅広い人の心に響いたのだと思います。

「能力は個人に帰属する」という幻想

與那覇 勅使川原さんの本の中で、特に慶應義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)の話が興味深かったんです。僕も『平成史』(文藝春秋)を書く際に、SFCについては調べて一節を割きましたが、まだまだ調査が浅かったと反省しました。

勅使川原 慶應SFCは平成の初頭に開学し、徹底したリベラルアーツ教育で注目されました。学生の自主性や創造性を重んじ、何年生で何を履修してもいい、卒論すら不要という個性重視のカリキュラムに2007年のカリキュラム改革まではなっていました。

 企業の側も平成初期にはそうした教育を評価していました。国が企業に対して、新卒に求める能力を問うた厚生労働省の「雇用管理調査」で、「創造性」が「協調性」を初めて上回ったのが1995年のことでした。またこの年から選択肢の中に「ユニークな個性」が入っている。

 しかし、その後事情は一変。わずか3年後には同じ調査で「協調性」が逆転し、さらに2001年には「ユニークな個性」という選択肢すらも消えてしまった。こうした変化に、慶應SFCは方針変更を迫られたのです。卒論も必須となり、徐々に「普通の大学」になっていった。

與那覇 平成の初期には「周りの顔色を見ず、クリエイティブに意識高くいこうぜ」という雰囲気があって、それが個人主義的な風潮を支えていました。今では考えられないことですが、援助交際(令和の呼称ではパパ活)さえポジティブに語られていた。本人が売春したいなら別にいい、自己決定でしょ、と。

勅使川原 個人主義の権化とも言える「個性」ってそもそも、何なのでしょうか。もっと言えば、「自立」した個人というのも、眉唾です。朝日新聞の連載でも書いているんですが、私はそもそも“自立した個人”などというものは幻想だと思います。

 私はがんを発症して自分の無力さを悟りました。がん患者として治療を受ける時に、「私は東大の修士課程を出ていて……」などと言ってもしょうがない。むしろ自分の無力さを認めて人に依存しまくることを覚えたんです。Facebookに「助けてください」と書きこんだりもしました。

 なので、個人が自分の力で生きているということ自体を疑っています。みんなが思っているほど個人の裁量なんてないんじゃないかと。

與那覇 よりよい生のあり方を考えるには、むしろ個人ではなく、組織に注目したほうがいい。ただし勅使川原さんは、「組織」を「〇〇大学」や「株式会社××」のようなフォーマルな存在だけでなく、人間同士の関係性全般を指すものとして定義しますよね。

勅使川原 ええ。2人以上の人がなんらかの目的を持ってそこにいれば、それは「組織」。「夫婦」や「親子」、「医者と患者」も「組織」です。その上で、私は「能力」のことを、「組織が求める機能」と言い換えるべきだと思っています。

 人材開発業界の根底には、「個人の能力」がある前提で、それを伸ばせばいい社会になる、という考え方がある。でも、能力が個人に帰属するというのは幻想だし、そんなマッチョな社会はうまく行かないと思います。

 例えば自動車の場合、エンジンだけ高出力にしても、車は速くならない。タイヤやブレーキも速度に対応したものが必要になる。組織も同じで、1人のスペックだけ上げてもうまくいかない。

與那覇 組織の「歯車」というとネガティブな響きがありますが、他の人と嚙みあうからこそ歯車は回るわけで、特定の1つだけが「優秀」だなんて考えても意味がない。そう再解釈するのであれば、実は悪い比喩でもなかったのかなとも思います(苦笑)。

 そうした「噛みあわせ」を指す表現として、文芸批評家の浜崎洋介さんに「カップリング」という語彙を教わったことがあります。ナチズムの精神分析で有名なエーリッヒ・フロムの用語で、誰とどうカップリングするかが、人生で一番大事なのだと。それに失敗すると、やさぐれて「偉大なる総統」とカップリングしようとしたナチ党員のように、ヤバい方向に進んでしまう。

勅使川原 スピノザも『エチカ』の中で人の善悪について、「人間は他人との組み合わせによって善いものにもなるし、悪いものにもなる」という趣旨のことを言っています。

能力主義が格差を正当化している

與那覇 しかし、なぜ「能力」は個人単位になってしまったのでしょうか。

カテゴリ: 社会
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
論壇チャンネルことのは(ろんだんちゃんねることのは) 文明・人間・日本を語る「動画の論壇誌」として、2021年11月より有料放送を開始致しました。現代日本を代表する論客の番組を多数配信し、新たな時代の思想の地平を切り開いていきます。YouTubeメンバーシップ月額1190円で、ライブ放送やアーカイブ動画等がご利用になれます。詳細はホームページをご覧ください。https://www.kotonoha-rondan.com/
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top