医療崩壊 (90)

エビデンス未確立な治療法を議論しよう――わたしがGLP-1受容体作動薬のがん予防効果について話す理由

執筆者:上昌広 2024年10月6日
タグ: 日本 健康
主治医以外からの情報も重要だ。メディアの果たすべき役割も大きい (C)KK Stock/shutterstock.com
肥満症治療薬「ウゴービ」などの商品名で知られるGLP-1受容体作動薬は、しばしば「いかがわしいダイエット薬」だと誤解される。だが糖尿病治療をはじめ心臓病や脳卒中など多くの病気でも有効性が示されており、医学会では「万能薬」的な期待を集める薬だと言える。最近ではがんの予防効果が報告され、その有望性を患者に伝える選択肢もあり得るはずだが、エビデンスが未確立な治療を薦める以上は大事なポイントがいくつかある。

 9月19日、米国でラスカー賞の選考結果が発表された。ノーベル賞の前哨戦とも言われる権威ある賞だ。

 臨床医学部門で受賞したのは、肥満症治療薬GLP-1(グルカゴン様ペプチド―1)受容体作動薬の開発に従事した3人だ。米国のマサチューセッツ総合病院、ハーバード大学のジョエル・ハベナー教授、米国のロックフェラー大学のスベトラナ・モイソフ准教授、デンマークの製薬企業ノボノルディスク社のロッテ・ビエレ・クヌーセン氏である。

 GLP-1とは、食事の際に小腸のL細胞(Large Granule細胞)から分泌されるホルモンで、血糖値の調整や食欲の抑制において、重要な役割を果たしている。ノボノルディスク社や米国のイーライリリー社などの製薬企業が製剤化し、世界中で販売されている。

 GLP-1受容体作動薬は、糖尿病治療薬としての適応に加え、近年は肥満症の治療薬としても注目が集まっている。昨年3月、我が国でもノボノルディスク社が販売するセマグルチド(商品名ウゴービ)が承認された。週に一回皮下注射するだけで、約10%の減量が期待できる。

アルツハイマー病やHIV感染合併症にも研究が進む

 GLP-1受容体作動薬の効能は、これだけではない。9月25日、英国の『ネイチャー』誌は「なぜ、肥満症治療薬は、多くの他の病気を治療できるのか」という論文を掲載した。この中で、脳卒中、心疾患、腎疾患、パーキンソン病などへの有効性が幾つかの研究で示され、近年はアルツハイマー病やHIV感染合併症に対しても研究が進んでいることが紹介されている。

 GLP-1受容体作動薬は、「万能薬」のような様相を呈している。米国フロリダ州の脳神経外科医ブレット・オズボーン博士はFOXニュースの取材に答え、「GLP-1受容体作動薬は現代医学の『聖杯』で、抗生物質発見と同じようなインパクトを世界の健康に与えることが証明されるでしょう」とコメントしているくらいだ。

 世界の医学研究をリードするのは米国だ。日本では想像できないくらい多くの人が、GLP-1受容体作動薬を使っている。今年5月、米国のカイザーファミリー財団が発表した米国成人1479人を対象とした調査によれば、12%が何らかのGLP-1受容体作動薬を使った経験があり、6%は現在も使用中だという。

 日本では、GLP-1受容体作動薬というと、「いかがわしいダイエット薬」というイメージがあるが、米国の状況は全く違う。このあたり日本には伝わっていない。

 米国で、GLP-1受容体作動薬が関心を集める理由は、心臓病や脳卒中を予防するからだけではない。このような疾患と比べて、十分に研究が進んでいるとは言い難いが、がんに対する予防効果への期待も大きい。

肥満と関連するがんにも期待

 最近、医学界に衝撃を与えた研究が発表された。7月5日、米国のケースウェスタンリザーブ大学の研究チームが、『米国医師会誌(JAMA)ネットワークオープン』誌に発表したものだ。

 彼らは、GLP-1受容体作動薬が処方された約160万人の15年間にわたる経過を解析した。

 この研究では、以前から肥満との関連が指摘されていた13種のがんを対象としたが、10種のがんの発症が大幅に減少していた。例えば、GLP-1受容体作動薬以外の治療を受けたコントロール群と比較して、胆嚢がん、髄膜腫、膵臓がん、肝細胞がん、卵巣がんは、それぞれ65%、63%、59%、53%、48%発症するリスクが低下していた。これ以外にも、大腸がん、多発性骨髄腫、食道がん、子宮内膜がん、腎臓がんでは発症リスクの低下を確認した。

 同様の研究結果は、別のグループからも報告されている。昨年11月、デンマークの研究グループが、欧州糖尿病学会が発行する『糖尿病学誌』に発表した研究では、GLP-1受容体作動薬を用いた患者で、前立腺がんのリスクが9%低下したことが確認されている。前立腺がんは加齢と共に急増する。つまり、高齢者ほどリスクが高い。70歳以上に限定して解析した場合、リスクは44%低下していたという。

 いずれの研究も、蓄積されたデータを後から解析したものだ。様々なバイアスが影響しているだろう。

 ただ、そのことを考慮しても、GLP-1受容体作動薬のがん予防効果を肯定的に捉える研究者が多い。それは、動物実験や細胞レベルの研究では、GLP-1受容体作動薬ががん細胞の増殖を抑制し、アポトーシス(細胞死)を促す可能性が示されているし、肥満ががんの危険因子であることは、医学的コンセンサスだからだ。

 肥満症患者では、インスリンの効き目(感受性)が低下するため、インスリンやインスリン様成長因子―1(IGF-1)を過剰に作るようになる。このような物質は細胞増殖を促進し、がんのリスクを高める。また、肥満は、それ自体が、体内で炎症や酸化ストレスを生じさせ、これらが発がんリスクを高めることも知られている。GLP-1受容体作動薬による減量が、インスリンや関連物質、炎症などを抑制することで、発がんリスクを低下させてもおかしくはない。

 もちろん、GLP-1受容体作動薬による減量は、通常の方法での減量とは違うため、GLP-1受容体作動薬を用いた減量が発がんリスクに影響しない可能性もある。この問題の解決は、臨床試験の積み重ねが必要だ。それには時間がかかるだろう。

糖尿病患者は保険でカバーも

 では、現時点で、我々はどうすればいいのか。私は、正確な状況を社会でシェアすべきだと思う。中高年になると誰もが健康が気になる。特に親が患った病気は心配だ。体質が遺伝しているし、親が闘病する姿を見ている。彼らは、この問題に医学的コンセンサスが確立するまで待っている時間的余裕はない。

 私が外来でフォローする患者さんの中には、がん家系で、がんを心配している人が少なくない。胃カメラなど定期的な検診はもちろん、ピロリ菌の除菌や子宮頸がんや中咽頭がんなどの原因となるヒトパピローマウイルス(HPV)のワクチンの接種を希望する人もいる。彼らにとって、GLP-1受容体作動薬のがん予防の研究成果はありがたい。

 幸い、GLP-1受容体作動薬は糖尿病治療薬としては古い薬だ。2005年に米国で初めて承認されて以降、約20年の使用経験があり、高い安全性が証明されている。

 私は、このような患者さんには、GLP-1受容体作動薬のがん予防効果の話をすることにしている。もちろん、現時点では、十分に研究されておらず、医学的コンセンサスではないことは強調する。それでも、「試してみたい」という患者が少なくない。

 彼らに対しては、何とかして期待に応えたいと思う。その際、課題となるのは薬剤費だ。ただ、GLP-1受容体作動薬は、糖尿病を患っている場合には、健康保険がカバーする。糖尿病の診断基準は近年厳しくなっており、空腹時血糖値126mg/dL以上やHbA1c6.5%以上などを2回確認すれば診断される。従来、この程度の血糖値の場合、食事や運動療法を勧め、治療薬を処方しなかったが、最近、私は方針を変えている。がん家系などの理由で、がんのことを心配している人には、GLP-1受容体作動薬も治療選択肢に挙げる。多くの患者さんが、処方を希望する。

主治医以外からの情報も重要

 問題は、糖尿病の診断基準を満たさない場合だ。軽度~中等度の肥満症があれば(BMI 35kg/m2以上、あるいは27kg/m2以上で二つ以上の肥満関連合併症がある肥満症患者の場合は健康保険で支払われる)、自費診療で処方できることを紹介する。製剤により差があるが、一カ月の薬剤費は約1万円だ。これと診察費を自費で支払うことになる。大きな出費だが、私の外来では約半数の患者が処方を希望する。

 その際、患者さんが心配するのが注射の痛みだ。GLP-1受容体作動薬は経口剤があるものの、使用経験が多く、有効性が確立しているのは注射剤だ。自宅で自ら注射する(自己注射)。

 注射というと、採血やインフルエンザやコロナワクチン接種を想像する人が多い。このような注射は、それなりの痛みを伴う。だが、自己注射の針は32ゲージ程度の極細だ。「ほとんど痛みを感じません」という人が大部分だ。そして、「今後、どうなるかわかりませんが、やってみて良かったです」という人が多い。

 これが、私の診療スタイルだ。エビデンスが確立していない治療を患者さんに薦めることに違和感を抱く医師もいらっしゃるだろう。それも一つの考え方だ。一方で、現時点での医学的エビデンスを考慮すれば、私のような対応は十分にあり得ると思う。最終的には患者が決めればよい。

 その際には、大切なことは患者に十分な情報が提供されることだ。主治医以外からの情報も重要だ。そうでなければ、簡単に主治医に「説得」されてしまう。

 我が国で残念なのは、GLP-1受容体作動薬に対する正確な情報がシェアされていないことだ。冒頭にご紹介したラスカー賞のニュースを全国紙5紙は報じなかった。世界の医学研究の成果が、日本国民に伝えられていないことになる。医学は専門性が高い。往々にして全国紙5紙は、厚労省記者クラブで発信される厚生労働省からの情報を記事にしている。心疾患や脳卒中への使用は米FDAで承認されているが、日本ではまだだ。厚生労働省が承認していない薬剤の使用を報道することに躊躇するのだろう。割を食うのは国民だ。メディアの方々の奮起を期待したい。

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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