本稿を執筆中の5月9日、日本経済新聞は「三菱重工は逆風下で5兆円の連結売上高目標を掲げた」と報じた。いっぽうで同記事は「達成を不安視する声は少なくない」と警鐘を鳴らすことを忘れない。さらに、成長が停滞する三菱重工の時価総額は1兆3800億円であり、日立の4兆1400億円と比べても見劣りし、海外のライバル各社の10分の1でしかないことを付記した。
実際、三菱重工は2017年度に1000億円のフリーキャッシュフローを見込んでいたが、ジェット旅客機を開発する子会社が1000億円の債務超過であることも露呈した。記者が懸念しているように売上高目標が達成できなかった場合、時価総額はさらに縮小する可能性がある。膨大な資金を必要とする重工業において資金調達を窮屈にさせる要因となろう。三菱重工はどこから来て、どこに向かっているのか。
2011年8月4日、日本経済新聞は「日立・三菱重工 統合へ」と1面トップで報じていた。衝撃度において新日本製鉄誕生にも劣らない企業合併だったはずだ。この経営統合は結果的に失敗した。もしこれが実現していたら、日本の産業構造の転換が進み、政府の原子力政策も変わっていただろうと、本書の著者である永野健二は嘆く。
そして、この統合失敗の原因は「もはや取締役でもない経営者OBが、長老として絶大な拒否権をもっている三菱重工の非常識で不健全なガバナンスにあった」と断じ、この事件こそ日本の近代資本主義の転機だったと結論付けるのだ。
この明治以来続く日本の近代資本主義を、「渋沢資本主義」と名付け、それを体現していた経営者たちを描き出すことで、新しい未来へとつなごうと著者は試みる。本書は専門記者の目で見た経営現場のファクトと現代史を縦横に紡ぐことで、個別経営論から経済思想史に昇華した稀有な1冊だ。
目次に沿ってふたつの章を覗いてみよう。
第1節で取り上げる会社は1887年創業のカネボウである。1930年代から戦前のある時期まで日本一の企業だったが、粉飾決算を繰り返し2007年に消滅した。
タイトルは「武藤山治とカネボウの『滅びの遺伝子』」である。「滅びの遺伝子」とは、日経証券部時代から日経ビジネス編集長時代まで著者の上司だった鈴木隆へのオマージュだろう。鈴木隆は日銀特融の時代から山一證券を見つづけ、『滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史』を上梓している。
この項ではカネボウの経営だけでなく帝人事件についても触れている。日本が戦時体制へとひた走るきっかけとなった疑獄事件である。武藤は現在価値に換算して100億円もの退職金を受け取ってカネボウを退社、時事新報に入社して帝人事件という虚構を生み出した。これが引き金となって大衆の政治経済に対する不満が蓄積し、翼賛体制時代が到来するのだ。「滅びの遺伝子」は経営にだけではなく、社会にも受け継がれているかもしれない。本書がたんなる経営のケーススタディではないことの証である。
本書では多くの章で批判的に経営者を取り上げているのだが、第8節の小倉昌男について著者は好意を隠さない。たしかに宅急便という仕組みをこしらえた小倉昌男なかりせば、いまの日本の高度な消費社会はなかったであろう。しかし、著者はそれ以上に小倉のすべてを受け入れている。彼の著作『経営学』について「一流の経営者というのは、一流の哲学者であり、ライターでもあることがわかる名著」だと感心し、亡くなった時には「風のように逝ったな」と感慨を記す。
この項では三越の岡田茂も登場する。小倉は岡田の倫理観の欠如を理由に、50年以上も続いた三越との取引を中止した。小倉は相手の品性を見て、付き合う人を決めた。それは資本主義における経営と公益との関係にもつながってくる。著者が本書を通じて考えるもう1つのテーマでもある。本書がたんなる経営者列伝でもないことの証である。
それでは、経営学者が作成するケーススタディでも、ノンフィクション作家が書く経営者列伝でもない本とはなんなのだろうか。それは記者にしか書けない今を語るニュースであり、未来を見つめる論説記事なのだ。
「伝説の記者」と呼ばれていた著者は4半世紀にわたり永野塾という早朝勉強会を主宰していた。参加者の多くは若い記者や編集者たちだった。のちに高名なジャーナリスト、敏腕の編集長、大学教授などを輩出することになるその勉強会では、もっぱら主宰者である著者が現場のファクトと資本主義を結びつける作業をつづけていた。本書はそれゆえに「伝説の記者」の思い出話ではなく、永年に築かれた思索の結実である。(なるけ・まこと HONZ代表)
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