「認知症は人格が壊れるわけではないのです」

【特別対談】映画『長いお別れ』中野量太監督×「アルツクリニック東京」新井平伊院長

執筆者:フォーサイト編集部 2019年5月31日
エリア: アジア
映画館の雰囲気の中で(C)筒口直弘

 

 5月16日、認知症対策を強化するために開かれた政府の有識者会議で、2025(令和7)年までの6年間で、70代人口に占める認知症患者の割合を6%低下させる数値目標を盛り込んだ新たな「大綱」の素案が明らかになった。さらに、「70代での発症を10年間で1歳遅らせる」という目標も明記。実現すれば、70代での患者を約1割減らせるという。そのための「予防策」をより一層推進させるというこの大綱は、6月にも閣議で決定される。

 この認知症「予防」に取り組んでいる専門クリニック「アルツクリニック東京」新井平伊院長については、『「認知症」を「予防」する世界初「健脳ドック」の可能性』(2019年5月11日)でご紹介したが、折しも5月31日(金)、認知症をテーマにした映画『長いお別れ』が全国でロードショー公開される。

 そこで新井院長と、映画の脚本もつとめた中野量太監督に語り合ってもらった。

 

新井平伊 映画、拝見しました。とても感激しました。私は長年、認知症のなかでも6割を占めているアルツハイマー病の研究と臨床をやっているため、認知症を扱った映画やドラマなどの医学監修の依頼を受けることがよくあるのです。ところが、だいたい途中でケンカになってやめます(笑)。

中野量太 それはどういうことですか。

新井 なぜかと言うと、どうしても医学的に正しくない描き方が多いのです。とくに、症状の進行を早くしている。もうね、次から次へと症状がどんどん悪化していって、あっという間に仕事もできなくなって、2、3年で施設に入ってしまうような描き方が多い。何と言いますか、それこそ『ジョーズ』のような恐怖映画みたいで、観ている人は、ああやっぱり認知症にはなりたくないな、怖いな、本当にかわいそうに、と思ってしまう映画、ドラマになっている。そんなふうに描かれると、実際に発症してしまった患者さんやご家族にとって、とてもいたたまれないと思うのです。そんなに早く進んで、あっという間に施設に入って、どんどん人間が「壊れて」しまう、というような描き方。そこが僕は一番嫌でして、それで監修を依頼され、現実はそうじゃありませんからと言っても、製作側が聞き入れてくれないのでケンカになってしまうのです。

中野 なるほど。

新井 認知症を発症することで人間の機能として低下してくるのは、ほんのごく一部です。それ以外のほとんどは正常なので、そういう状況の中で苦労して頑張って生きていこうとしている姿を描いてほしい。でも、やはり映画やテレビドラマだと、興行収入とか視聴率のことを意識してか、どうしても展開が早すぎますね。

中野 ドラマチックにしなきゃいけないところを、そういうふうにやっちゃうってことですね。

新井 そうですね。だから、病状を極端化して、どんどん進行していくように描いている。そういうところが一番受け入れがたい点なのです。

中野 僕は今回、本作の監督を引き受けるにあたって、認知症の人が、いったい何を忘れて、どういう思いでいるのかという点を、こちらが想像で勝手に描くべきではないと思いました。だから、山﨑努さんが演じてくださった認知症を発症したお父さん自身の主観は入れないようにしました。だって、それは本人にしか分からないことだと思ったからです。

新井 そのとおり、そのとおりです。

中野 それを勝手に、こんなに苦しいことだとか、本当はこういうふうに考えているのだとか描くのは、僕は絶対にやってはいけないことだと思った。だから本作では、お父さんがどう思っているかという主観は描かないことにしたのです。でも、そのかわりにというか、本作は7年間の話です。お父さんが認知症を患ってからの7年間って、実は家族にも同じ7年間が流れているわけです。ですから、そちらをきちんと描いてあげれば、お父さんの主観を描かなくても、お父さんという人物は描けると思ったのです。

素晴らしい発想です(新井院長)

新井 それはすばらしい発想です。医学用語とか病状というのは、我々のような専門医でなくても脚本家の方でも作家でも勉強できるのですが、それを自己流に勝手に解釈して、そのまま映像にしちゃうケースが多い。そういう意味では、ドキュメンタリーのほうがずっといい。描くというより、そのままを映し出しているわけですから。ですから僕は、認知症に関しては、今までフィクションよりは絶対ドキュメンタリーがすばらしいと思い、そういう作品を推薦してきたのです。患者でも家族でもない他人が、短絡的に解釈して症状を勝手につくっちゃうなんて、絶対駄目です。

 もう1つ、監督がおっしゃるように、患者ご本人の苦悩もそうですが、ご家族にも大変な苦悩が伴うわけです。本作は、そのご家族の人生も含めて捉えて、お父さんのことやそれぞれの人生をきちんと描いている。これが今までのどの映画ともまったく違っていて、そこがすばらしいと思い、一番感動しました。

中野 ありがとうございます。もちろん、認知症の患者さんと一緒にいる家族というのはものすごく大変な苦労をするわけですし、そこは僕らも観客の方もよくわかっていること。それをあえて、大変だよ、大変だよと描くのって、僕は映画の役割ではないと思っているのです。

新井 どうしてそういうふうに思いついたのですか。

中野 実は、僕の祖母も認知症でした。ですから、何をどう描くかについてはすごく考えました。先ほど先生がおっしゃいましたが、認知症の方は、壊れてしまっているのはその人のごく一部だけなわけですよね。

新井 そうです。

中野 だから、その一部以外は絶対に変わらないわけです。たとえば本作の場合、この家族だったら、お父さんの「尊厳」「威厳」という面は絶対に変わらないわけですし、変えるべきではないし、変えたくなかった。だからあの家族は、最後までみんなお父さんを尊敬している。一部が壊れていたとしてもね。そういう部分を大切に丁寧に描かなきゃいけないと思いました。

 そして、看護とか介護ってただ大変だという一方的なイメージがあると思いますが、本当はそれだけではなくて、実は認知症になったお父さんから受け取っているものがあるのではないかと思って、そこも描き出せればいいなと。

新井 僕らの日々の臨床、外来でも、僕らが医療サービスを提供しているようで、実は認知症の方とご家族から僕らの方が人生を教わっているのですよ。重い病気を背負っていながら、人生を必死に生きて、自分たちの絆も確認し合い、知り合いや職場も含めて応援を受けながら、みんな必死で生きている。そういう姿から、治療をしながらこちらが人生を教わって、自分を成長させてくれる。この映画は、そういうところまで含めて描いているので、今までにない映画だと思いました。

実話から取り入れたエピソード

新井 本作には原作がありますが、脚本にする際にはだいぶ苦労されましたか。

中野 実は原作からはけっこう変わっています。原作は8編の短編集ですから、それを1本の物語にするために、いろいろなオリジナルストーリーを入れました。

 たとえば、傘のエピソードは、実は原作にはありません。準備段階で認知症の専門医の方にお話を伺った際、あるおじいさんが、必ず外に行くときに傘を持って出かける。晴れていてもね。それは昔、子供たちを、雨が降ったときにいつも迎えに行っていた記憶があるからで、その思い出は壊れていなかった、というエピソードを聞いたのです。それで、このエピソードは絶対に使わなきゃと思って。

実話からのエピソードもあります(中野監督)

 それともう1つ、お父さんが電車の中でお母さんにプロポーズをするシーンがあります。あれも、実話です。あるドキュメンタリーですが、認知症を発症した大工さんが、夜になると、もう仕事をやっていないのに、必ず道具の手入れをする。毎晩です。でも、やっぱり壊れてしまっているところがあるから、奥さんと言い合いになったりする。奥さんとしては、もうあまりにも大変で施設に入れなきゃみたいな感じになっていたのですが、ふとその大工さんが、そろそろおまえを両親に紹介したいんだって言う。そうしたら奥さん、もうものすごく恥ずかしそうな顔になって、何言っているんですかお父さんは、って言いながら、それでもすごくうれしそうな顔をしたんです。その時のあの夫婦の姿がずっと頭の片隅に残っていて、あれは本当にいいなあと思って、いつか認知症をテーマに映画を撮るなら絶対に使おうと思っていたのです。そんなふうに、ほかにもオリジナルの要素をたくさん入れています。

新井 傘のシーンは、僕も観ていて涙を流しました。

中野 本当ですか。

新井 ええ。しかも、最初に傘のシーンを持ってきて、途中でその答えが出るというのはすばらしいですよね。

中野 それは本当の話だったので、やはりそういうリアリティーがあるのかなと思いますね。

新井 それと、人工呼吸器の話もありましたが、あれも、本当の長いステージの中で最後のところ、まさに終末期のところで、現実にもあれを聞かれるのです、家族は。ああいう場面を描いたのも、とてもすばらしいと思います。しかも、答えを出すよりも、みんなで考えさせている。孫の意見までね。

中野 はい、あそこはあえて、大人の考えだけではなく、孫の、子供の純粋な思いというのも家族の1人なわけですから大事なのではないかと思いました。

新井 あれも、描き方としてよかったと思います。僕はあそこにも涙しました。

 そして、お父さんの尊厳が、家族を通して表現されているところがとてもよい。娘が2人とも、お父さんに対して、素直に自分の今の悩みを話せている。

中野 はい。結局、お父さんが少しずつ認知症になっていっても、彼女たちにとってのお父さんは変わっていないのです。

新井 関係性はね。

中野 お母さんもまた、まったく変わらずにお父さんに接する。それを見ている娘たちも、そこは変わらない。そこはちゃんと、変わらないところは絶対変わっていないお父さんとの関係性というのは、きちんと描きたかったのです。

新井 そうですね、そこは見事に表現されておられるなと思って、私も感動しました。

父親役を予期していた山﨑努

新井 一番苦労されたのは?

中野 それは僕じゃなくて、山﨑さんだと思います。映画の撮影ではよくあることですが、これ、物語の順番どおりに撮っているわけではないのです。映画って、そういうわけにはいかないわけです。同じロケ地だったら、その日のうちにすべてのシーンを全部撮らなきゃいけない。ですから、たとえば山﨑さんの撮影初日は、すでに認知症がかなり進んでいて、娘が漢字ドリルを教えてって言っても書けない、という芝居を演じてくださっている。

新井 えー、そうですか。

不思議なご縁でした

中野 はい、ばらばらなんです。認知症が進んだ状態のシーンを撮った後に、まだ発症して間もないところを撮りますし。その芝居の組み立ては、すべて山﨑さんがご自身で計算されておられた。撮影が始まる前に大丈夫でしょうかってお聞きしたら、大丈夫だと。俺はもう計算してあるからと仰って、実際に撮影の順番がバラバラでも、ちゃんとつながる芝居を演じてくださいました。

新井 そこは全然想像しませんでした。

中野 わからないですよね。ちゃんと順番に撮っているように感じると思います。言葉で言うと簡単ですが、実際にそう計算してやれる山﨑さんって、やっぱりすごいです。

新井 そういう意味では、役者さんのキャスティングも大事なのですね。

中野 はい、ものすごく大事です。でも今回、キャスティングも不思議なご縁なのです。実は、お父さん役の候補の中から山﨑さんに決めてオファーを出したら、山﨑さんはすでに原作を大分前に読まれていたそうです。そして読んだとき、もしこれが映画化されるとしたら俺の所に来るな、と思っていらしたそうです。

新井 本当ですか!

中野 はい、本当にそうなのです。ですから、それってもう、自信があってやりたいし、俺ならこう演じると考えているわけですよ、山﨑さんは。そういう方にオファーを出せたというのはまさにご縁としか言いようがなく、その時点でもうこの映画は半分成功だと思いました。

「帰りたい」場所

中野 先生にお聞きしたいのですが、本作で、お父さんが「帰りたい、帰りたい」というシーンがありまして、実は僕の祖母がそうでした。それで、先ほど言いましたように、この映画では僕は主観を描くべきではないと思ったのですが、1カ所だけ、お父さんの主観を描いた。それは、帰りたい、帰りたいと言って、どこに行ったかというと、遊園地に行く。そしてお父さんはメリーゴーランドに乗って、そこで、お父さんが帰りたい先にいったい何を見たか……。あそこだけ、主観を1カ所だけ入れたのです。

新井 はい、ありましたね。

中野 あそこだけが、お父さんの目線です。主観です。僕としては、帰る帰ると言って帰りたかった場所は、きっと……作家としての思いを込めて、そこはどうしても描きたかったのです。ただ、帰りたい、という思いは本当に認知症になった人しかわからないと思うのですが、どこに帰りたいと思うのでしょうか。

新井 それはね、多くの場合、生まれ育ったところですよ。自分が生まれ育った家。というのは、記憶って幼いころからずっと連続しているわけですが、リボの法則といって、失われていく順番は逆に最近のものからで、古い記憶は残っている。ですからたとえば、子供を見ても、自分の子供はこんな歳とっていない、もっと小さい子供だって言うわけです。その頃の記憶しか残っていないものだから。

中野 なるほど、生まれたところですか。何か分かる気がします。

5月31日(金)より全国公開(C)2019『長いお別れ』製作委員会

新井 先ほども言いましたが、本作でも描かれていたように、お父さんの凛とした尊厳みたいなところと、その人の本質は、認知症を発症したとしてもそこは変わらない。真面目なところとかやさしさとかは残っていく。認知症で影響されるのは、本当にその人の脳機能の5%ぐらいの部分で、95%は正常だと私は解釈しています。もちろん、発症して10年、15年になってくると、老化とともに脳がどうしても萎縮してしまいますが、本人のそれまでの歴史の中でつくってきた本質的な人格というのは変わらない。認知症になると全部人格が駄目になる、なんてことでは決してないわけです。そういう部分が本作ではきちんと描かれているから、そこが本当にすばらしいと思いました。そこが本当に大事なのです。認知症になるともう全部駄目になって、人間的にもめちゃくちゃになるという、そればっかり強調しちゃう映画が多いですからね。

中野 これまでも僕は、家族の中に深刻な病気の人がいて、本人もしんどいだろうけど、まわりの家族も右往左往して、でもそういう姿が愛おしくて滑稽で、というような物語を描くことが多かったのです。ですから、本作の企画のお話をいただいたとき、もし物語として、ああ認知症がどんどん進んじゃって大変、というだけの内容だったらお断りしていたと思います。

新井 認知症を発症したご本人がつらいと思うのは、記憶とか時間の感覚とか場所とかが分からなくなり、判断することや道具を使うことができなくなるという症状が出てくることで、自分で思うように生活できなくなる。そして、家族や他人に迷惑をかけることになる。その時の気持ちは正常なのです。だから、迷惑をかけたくないとか、うまくいかないから、自分にイライラする。そこは正常な反応なのです。それも含めて怒りっぽいとか、どこかへ飛び出しちゃうという行動を、みんな認知症の症状として解釈しがちなのですが、実はそこは正常心理なわけですよ。そこを理解するのが一番大事なことなのです。

中野 はい、僕も認知症の専門医の先生から、記憶の一部は消えていくのだけれど、決して心を失うわけではない、という話を聞いて、まさにそういうことを描くべきだなと思いました。

新井 本当に、その一番大切なところがきちんと描かれていると思いました。

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