ドイツの大手電力・ガス企業ユニパーが6月29日午後8時22分に投資家向けに公表した臨時情報(アドホック情報)は、欧州の経済界全体に強い衝撃を与えた。ウラジーミル・プーチン大統領の欧州向けガス削減政策が、最初の「犠牲者」を生んだからだ。
ユニパーは、「ロシアの国営ガス企業ガスプロムが今年6月16日以来、NS1を通じた1日のガス供給量を通常よりも60%減らしたため、我が社の経済的負担が大きくなっている。このため我が社はドイツ政府との間で、経営を安定化するための措置について協議を始めた。政府から緊急融資や保証、さらに政府の我が社への資本参加(部分的国有化)が行われる可能性もある」と発表した。ウクライナ戦争との関連で、ドイツの大手エネ企業が業績悪化のために政府支援を要請したのは、初めてだ。同社の株価は、6月30日に一時約22%下落した。
ユニパーは、ロシアからのガス輸入量がドイツで最も多い企業だ。同社が2021年に輸入した天然ガス3700億キロワット時(kWh)の内、54%にあたる2000億kWhがロシアからの輸入だった。
しかし同社はガスプロムがガス供給量を60%減らしたために、スポット市場と呼ばれる卸売市場で短期的にガスを調達せざるを得なかった。だがガスのスポット価格は、ウクライナ戦争が起きて以降高騰している。
欧州のガス卸売市場Dutch TTFの統計によると、ガス1メガワット時(MWh)の価格は、ほぼ1年前の2021年7月5日には36.8ユーロだったが、今年7月1日には147.8ユーロに達した。約1年間で価格が約4倍に増えたのだ。調達価格の急騰のために、ユニパーの業績が刻々と悪化しつつある。
ドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)は2022年7月1日付の紙面で「ユニパーはNS1からの天然ガス供給量の不足分を補うために、スポット市場でのガス調達などに毎月5億ユーロ(約700億円・1ユーロ=140円換算)の追加的な支出を迫られるだろう」という投資銀行ゴールドマン・サックスのアナリストのコメントを引用している。
ユニパーは、ガスプロムがNS1に並行して建設していたパイプライン、ノルドストリーム2(NS2)に関するプロジェクトにも融資していた。しかしドイツ政府は、プーチン大統領が2月21日にウクライナ東部の「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」の独立を承認したため、NS2建設プロジェクトを凍結した。ユニパーはNS2への融資額約10億ユーロ(1400億円)を今年3月に全額損失として処理せざるを得ず、第1四半期の業績は赤字に転落していた。
ドイツ政府は、ユニパーをどのようにして救済するかについては、まだ公表していない。しかしユニパーは、ドイツ国内の中小の地域エネルギー販売会社約100社にガスを供給している。そのような企業の倒産は、エネルギーの安定供給を脅かすため、政府が公金を投入してユニパーを救うことは確実だ。しかもユニパーの経営難はまだガス危機の「序曲」にすぎず、ドイツの約1000社の中小のガス販売企業も、同様の事態に追い込まれる可能性がある。
近くNS1が完全停止か
ガスプロムは、「NS1の供給量を減らしたのは、ガス圧縮装置の故障をドイツ企業が修理しないためだ」と主張している。ドイツ企業はEUの対ロシア経済制裁のために、パイプラインの修理を行うことができない。
だがドイツのロベルト・ハーベック連邦気候保護大臣は、「技術的な理由は、口実にすぎない。供給量の削減はプーチン大統領のドイツ経済に対する攻撃だ。我々に強い不安を与えるのが狙いだ」と述べ、ロシアが政治的な理由でガス供給量を大幅に減らしているという見方を示した。
ドイツ政府は、ロシアがNS1を通じたガスの供給を7月11日に完全に止めると見ている。NS1では毎年夏にガスの輸送を止めて、定期点検を行われることになっている。今年の定期点検は、7月11日から約10日間行われる予定だ。ドイツ政府はガスプロムが「技術的な理由」を口実にして、定期点検が終わってもガス供給を再開しない可能性が強いとしている。
ドイツのガス備蓄設備の備蓄率は、6月30日の時点で約61%。政府はこの備蓄率を11月1日までに90%に引き上げることを目指しているが、そのためには夏の間にガスを備蓄設備に充填しなくてはならない。NS1を通じたガス供給が止まった場合、備蓄作業は大幅に遅れ、秋から冬にかけて深刻なガス不足が発生する危険がある。
ドイツがロシアからのガスを完全に代替する道は、少なくとも2年間にわたり閉ざされている。ドイツはこれまでパイプラインで運ばれるロシアのガスに依存してきたため、液化天然ガス(LNG)の陸揚げターミナルを持っていなかった。LNGはロシアからのガスに比べると割高なので、エネ企業にとってもターミナルの建設は経済的に引き合わなかった。
政府とエネ業界はウクライナ戦争が勃発してから、急遽北海に面した地域の3カ所にLNG陸揚げターミナルを建設し始めたが、完成は早くても2024年の夏になる。
このためドイツ政府は、ガス逼迫の危険が高まったとして、6月23日に「ガス供給緊急事態計画(NPG)」の第二段階である警報を発令した(ドイツ政府は3月30日に、第一段階の「早期警戒」を発令していた。これは、3月26日にロシア政府の広報官が「我々の要求通り、ルーブル建てのガス代金支払い方式に従わない国には、ガスを送らない」と発言したからだ)。
政府はこの国で最もガスを多く消費している産業界に対し、節約を要請。自発的にガス消費量を減らすメーカーに対して報奨金を支払う制度を導入する。報奨金の額は、政府が実施する入札で決める。
さらに「代替発電所確保法」という新法を近く施行して、電力会社に対してガス火力発電所の運転を禁止する方針だ。近く廃止するはずだった褐炭・火力発電所を一時的に温存して、ガス火力を代替する。ハーベック大臣は、「ドイツは2038年までに脱石炭を断行する方針だったが、ウクライナ戦争によるガス危機という緊急事態なので、一時的にCO2排出量が多い発電所に頼るのもやむを得ない」と説明している。
ロシアからドイツにガスを送る主要パイプラインは、NS1、ヤマル・パイプライン、ソユーズ・トランスガス・パイプラインの3本だ。ロシアが将来NS1だけではなく他の2本の供給量も減らした場合、政府はガス企業に対し、ガス調達費用の増加分を、需要家に転嫁することを許可する方針だ。しかしガス料金が3~4倍に増えた場合、料金を払えない市民が続出する可能性が高いことから、政府は低所得層に属する市民への救済措置も準備している。
コロナより深刻なガス・ロックダウン
ガス需給の逼迫が深刻化した場合、政府はNPGの第三段階として緊急事態を宣言する。この段階では、政府がガスを企業に配給する。国民経済への重要度、ガス停止時の損害額などを基準に、政府が配給の優先順位を決める。化学企業や製鉄所、製紙メーカーなどガスの使用量が多い企業は、操業中止に追い込まれ、失業者が急増する可能性もある。ドイツのifo経済研究所は、「ロシアからのガスが完全に止まった場合の経済損害は、今年と来年で2200億ユーロ(30兆8000億円)にのぼる」という悲観的な予測を発表している。家庭や病院、消費量が少ない事業所などはガス供給の制限を受けない。
ハーベック大臣が6月23日に公表したシミュレーション結果は、衝撃的だった。ガスの配給を担当する連邦系統規制庁(BNetzA)は、NS1のガス供給量の減少率、産業界のガス節約の度合い、ロシアからのガスを代替するための液化天然ガス(LNG)の輸入状況などに応じて6つのシナリオを作成した。
その内、「7月11日以降NS1のガスが完全に止まり、国内のガス消費量の節約も進まない」という最悪のシナリオによると、ドイツのガス備蓄設備は、2023年1月27日から同年4月23日まで、約3カ月にわたって空になる。BNetzAのクラウス・ミュラー長官は、「ドイツの産業界は、化学業界からの製品や原材料に大きく依存し、サプライチェーンが複雑に絡み合っている。このためガス・ロックダウンによって化学産業の生産活動が滞った場合、経済全体に与える打撃は、コロナ・パンデミックをはるかに上回る」と見ている。
「マフィアが経営するガソリンスタンド」
さてロシアがエネルギーを武器として使っているのは、欧州だけではない。極東地域でも事態がエスカレートしている。7月1日にプーチン大統領は、石油・天然ガスの開発プロジェクト「サハリン2」について事業主体をロシア企業に変更するよう命じる大統領令に署名した。このプロジェクトに参加している日本企業は、権益をロシア政府に譲渡するよう迫られる可能性もある。
この動きに日本政府や企業は当惑しているが、こうした事態は2月24日のウクライナ侵攻開始直後から見えていたことだ。ロシアは、第二次世界大戦後最大規模の侵略戦争を始めた時点で、外交、貿易の常識が通用しない国になった。西欧諸国の間では、ロシア軍の民間人に対する無差別な攻撃や虐殺、強姦、略奪などを理由に、「ロシアは文明世界を自らの選択で去った」という見方が有力になっている。21世紀に、国連の安保理の常任理事国の一国である国が、まるで19世紀の帝国主義の時代のような侵略戦争を始めると誰が想像できただろうか。
米国の故ジョン・マケイン上院議員は、2014年にロシアを「国家の仮面をかぶっているが、実はマフィアが経営するガソリンスタンドだ」と呼んだことがある。けだし至言であり、マケイン氏は今日の状況を鋭く見通していたと言わざるを得ない。
日本政府はロシアのウクライナ侵攻開始後も、「プーチン大統領はエネルギーを武器として使わない、サハリン2の継続は許してくれる」と考えたのだろうか。他G7加盟国と肩を並べてロシアに対する経済制裁に参加しながら、ロシアとの経済プロジェクトをそれまで同様に継続できると考えるのは、現実離れしている。マフィアは、「良いとこ取り」は許してくれない。
欧州では、エネルギー戦争はとっくに始まっている。ロシアはポーランド、ブルガリア、デンマーク、フィンランドなどへのガス供給をすでに止めている。プーチン大統領の、「ガス代金はルーブルで支払え。もしくは、ガスプロム銀行にルーブル建て口座とユーロまたはドル建て口座を開設し、ユーロかドルで支払え」という要求をこれらの国々が拒否したからだ。
西側企業とガスプロムの契約書は、ガス代金をユーロかドルで払うことを明記している。「ルーブル建てで払え」というロシアの要求はすでに契約違反だ。いわんや、NS1の供給量を一方的に60%も減らす行為も、貿易の常識に反する。
日本政府・経済界がこういう欧州の厳しい状況を正確に把握していたら、「ロシアのエネルギーに依存することは、極めて危険だ。ロシアからの輸入量を一刻も早く自分からゼロにし、共同事業からは撤退するべきだ」ということに気づいていたはずだ。
「マフィアが経営するガソリンスタンド」とは、なるべく早く手を切るべきだ。「日本がサハリン2から撤退すれば権益を中国やインドに奪われる」という危惧は、プロジェクトを継続することを正当化できない。重要なのは誰がサハリン2を引き継ぐかではない。民間人をミサイルで殺傷し続けるロシアに対して、旗幟を鮮明にすることだ。
真剣にロシアを改革して民主主義社会を作ろうとする政治家、言論や思想の自由、三権分立を重んじる政治家、隣国を侵略せず国際法を守る政治家が大統領になるまでは、ロシアとは貿易をするべきではない。すぐにストップできなくても、貿易をやめる方針を明確に打ち出すべきだ。ドイツはLNG調達の目途がつけば、ロシアからのガス輸入を2024年にやめる方針を打ち出している。
2月24日以降の世界は、それ以前の世界とは全く異なる。ドイツは安全保障を軽視し、非民主主義国家が国際法違反や人権侵害を行っても見て見ぬふりをして、貿易拡大に努めたために、2021年にはガス輸入量の約55%をロシアに依存するという異常な状態に陥った。そのために、ロシアに製造業界の生殺与奪の権を握られてしまった。安いエネルギーに目がくらんで、「ガソリンスタンドを経営するマフィア」に母屋を取られたのである。
政経分離主義がもはや機能しないことは、ドイツの失敗がはっきりと示している。ドイツ人たちは過去のビジネスモデルの破綻を教訓に、非民主主義国家と対峙するための新戦略をいま策定しつつある。
我々日本人も、「政経分離主義」の幻想から脱却し、夢から醒めるべき時が来たのではないだろうか。