苅部直×伊藤亜紗「学」と「芸」のあいだ──サントリー学芸賞の世界 Vo.2

執筆者:論壇チャンネルことのは 2023年1月2日
エリア: その他

 

「広く社会と文化を考える、独創的で優れた研究・評論を行う個人」を顕彰するサントリー学芸賞の受賞者は、今年で371人を数えている。思想・歴史部門の選考委員を務める苅部直・東京大学教授と、美学から障害や体の問題へと研究を発展させてきた伊藤亜紗・東京工業大学教授が、相互に影響を受けながら組み替わる“学”と“芸”の動的な姿を捉えていく。

*インターネット放送局「論壇チャンネル ことのは」(https://www.kotonoha-rondan.com/)での対談内容をもとに編集・再構成を加えてあります。

苅部 この「『学』と『芸』のあいだ――サントリー学芸賞の世界」という番組は、サントリー学芸賞の受賞者の方々とともに、「学」と「芸」の繋がりについて考えていこうというものです。今回は第2回、ゲストに東京工業大学教授の伊藤亜紗さんをお迎えしました。

 伊藤さんは2020年度に、ご著書『記憶する体』を中心とする業績で第42回サントリー学芸賞〈社会・風俗部門〉を受賞されました。ご専門は美学ですが、伊藤さんはそこから障害者の問題、体の問題へと進み、理論を社会の実践へと開くお仕事を展開されています。

 この番組のテーマに関して言えば、アカデミックな研究が“学”ならば、“芸”は広い意味で社会一般の人に向けた活動と読み替えることができるでしょう。両者の関係について、どのように考えておられますか。

言葉にできないものを言葉にする

伊藤 学と芸――たいへん大きなテーマですが、これについて私は二つのことを考えています。

 一つは、言葉になっていないものを言葉にしていくということです。アカデミックな世界、特に人文社会系は、言語を使って「言葉」を作っていく場所です。しかし一方で、現実の社会には、言葉になっていないものがたくさんあります。学と芸の間で仕事をするためには、この視点が重要になってくると思います。

 私の専門の美学という学問は日本ではあまりメジャーではありません。哲学の兄弟みたいな学問といえば理解していただけるでしょうか。哲学と違う点があるとすれば、哲学は言葉を使って問いを立て、言葉を使って分析します。つまり「時間とは何か」とか、「存在とは何か」というものです。

 これに対して、美学という学問は言葉にできないものを対象にします。例えば身体感覚とか感性とか芸術作品を鑑賞したときの印象とか、言葉にしにくいものを、言葉の全能に警戒しつつ、言葉にしていくような学問です。そういう意味では、たいへんアンビバレントな学問ですね。

 私は学生時代に出産を経験しているのですが、出産というのは、これまで哲学、美学の中でほとんど語られてきませんでした。哲学も美学も西洋の白人男性中心に作られてきたものなので当然といえば当然なのですが、やはり排除された人たちの経験というのは語られない。

 これは障害を持っている人たちの身体感覚についても同様です。哲学も美学も、五感に障害のない人を前提に作られています。しかし、みんながそうではありません。視覚障害者について言えば、視覚がなくても成立する世界の見方というものが当然あるわけです。

 あちこちに言葉にされないものがあり、それを言葉にすること、それが学と芸のあいだで仕事をすることではないかと思っています。

動詞によるとらえかた

伊藤 もう一つは、これとは全く逆のことです。つまりは言葉にすると消えてしまうものがあるということです。

 例えば、「多様性」という言葉です。この言葉には、言われれば言われるほど現実の多様性が消えていく側面があります。もちろん多様性の考え方自体は大事ですが、ここでもう少し踏み込んで考えなければならないのが、言葉によって多様性自体が固定化されてしまうということです。

 世間の人たちの視覚障害者に対するサポート知識が増えれば増えるほど、視覚障害者は、視覚障害者として生活しやすくなります。しかし一方で、その人は視覚障害者であると同時に、お母さんであり、会社員であり、地域で活動をする人でもあります。でも多様性という言葉のもと「視覚障害者」という役割に固定されてしまうと、どこに行っても「視覚障害者役」になってしまうんですね。

 本来は障害から自由になることが多様性に求められますが、言葉が先行して道徳的な命令やコンプライアンス、「多様性に配慮しましょう」というような言葉の力に囚われると、結果として肝心の当事者が固定的なキャラクターに押し込められてしまう。

 言葉を発明することが人文社会系の研究者の仕事であると思いつつも、それがもたらす毒や副作用、ジレンマがあることを意識しなければなりません。

 ですから私はなるべく“動詞的”に物事を伝えていくことを心がけています。名詞で「多様性」というと、「守らなければ」という緊張が走ってしまうんですね。でも「人と人の違いを面白がりましょう」と、動詞的に自分の考えをまとめて発表すると、皆さんも柔軟に考えてくださる。なるべく名詞を使わないで動詞を使うというのは、アカデミックな言葉の毒を出さないようにするための、ひとつの工夫です。

苅部 伊藤さんのご著書のタイトルも動詞が多いですね。『どもる体』とか『記憶する体』とか。『手の倫理』は題名は名詞ですが、内容では“さわる”と“ふれる”の意味あいの違いについて強調されていて、やはり動詞を意識して書かれている。

 先ほどの女性の出産の問題については、ご著書でも触れられていましたが、僕たちが学生時代に読んだような身体論の本、市川浩(1931-2002、哲学者)、中村雄二郎(1925−2017、哲学者)、モーリス・メルロ=ポンティ(1908−1961、仏の哲学者)といった男性哲学者の著作には、たしかに出産の問題が出てこないんですね。強固な男性性・視覚中心・論理中心のバイアスを伴いながら、これまで身体の理論が語られてきたという問題が、伊藤さんのご指摘でよくわかりました。

 演劇の分野では、かつて状況劇場の唐十郎も「特権的肉体」と言って俳優の身体性を論じました。それが中村雄二郎、市川浩に対する刺戟にもなったのでしょうが、唐もそこで取り上げていたのは、たとえば麿赤兒であって、自分の女性パートナーの李麗仙ではなかったように思います。

演劇・舞踏における身体とジェンダー

伊藤 1960年代に登場した様々な芸術運動が注目した身体というのも、たしかに男性的だったかもしれません。ただ、非西洋ではあったので、その部分での貢献は大きかったと思います。

 西洋のバレエは、妖精のように体重を消す、軽く見せるという、いわば幻想を示すためのツールで体を使いました。しかし状況劇場や暗黒舞踏といった60年代の日本の演劇は、“立てない”ところから出発しています。体には重さがあり、地球にも重力があるという、東洋的な“地面”を強く意識したものです。私はこういった先輩方が考えてきた日本的身体というものの先に自分の研究があり、その外側を開拓したいと思っています。

苅部 暗黒舞踏では身体をまっすぐに伸ばさず、かがんだような姿勢をとるのも、地面からの力を受けているという意識の表現と言えますね。

 また同時に、男性・女性の区別を消す方向も示していた。舞踏家の大野一雄はしばしば西洋風の女装で踊っていましたが、その姿は女性のセクシュアリティを演じるというよりも、むしろこの身体は男性の身体でも女性の身体でもない、ということを示す装置だったと思います。バレエの衣装は身体の女性的な特徴を引き立てるものと言えるでしょうが、大野の女装には、女性性、男性性に拘ることから人間を解放する側面があった。

伊藤 少し前まで渋谷の松濤美術館で「装いの力―異性装の日本史」(編集部註:2022年9月3日−2022年10月30日)という展覧会が開かれていました。そこでは古典文学における異性装から、大野一雄さん、さらにはドラァグクイーンなども出てきて、たいへん面白く見させていただいたのですが、異性装的なものというのは、すごく矛盾をはらんでいることも示されていました。

 男性が女装すると一見、ジェンダーを超越しているように見えますが、そこで演じられているのは、ステレオタイプの女性像なんですね。ですから異性装にはステレオタイプを強化するという側面もあって、ジェンダーを超えつつも、実はジェンダーを固定化してしまう怖さもある。こうしたことも、もしかしたら60年代の身体表現の中にはあったのかもしれません。

「見えること」は「分かっている」ことではない

苅部 伊藤さんはご著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』の中でソーシャル・ビューのことをお書きになっています。目の見える人がその絵について語り、それを目の見えない人が聞くことで鑑賞する試みですが、そうした鑑賞によって生まれた言葉が、さらにひるがえってアート制作に反映されていくと、また面白いかなと思いました。

伊藤 ソーシャル・ビューは視覚障害者と目が見える人がグループになって美術鑑賞をしますが、そのポイントは健常者が失敗できることです。

 作品を見てすぐに言葉にできるかというと、普通はできません。最初は「すごい」とか「綺麗」とか「やばい」といった言葉しか出てこないんですね。つまり、簡単に言語化できるようなものだったら言葉で表現すればいいし、できないから絵や彫刻になっているんです。

 だから健常者はできるつもりで視覚障害者をサポートしようとするのですが、実はできない。そうすると使っていない言葉を必死で探るようになり、結果的に慣れない言葉も使えるようになるんです。

 さらには鑑賞者によって全く違う解釈が生まれてくるのもポイントです。芸術作品の面白さは、合意形成をしなくてもいいことにあります。言葉としても、解釈としても全く違うものが出てきても、「なんか、それも分かる」という場が生まれて受け入れられる。

 これはある意味、18世紀の人たちが芸術に期待した「無関心性」にもつながります。考えの違う人が、利害関係を超えたところで結ばれる。そういう芸術の持つ社会的機能が簡単に体験できるのがソーシャル・ビューというプログラムです。

苅部 目の見えない人一人に対して、語る人が複数いるという形ですか。

伊藤 見える人も見えない人も複数が望ましいと思います。とくに見えない人は見える人が正解を知っていると思い込まされてきたのですから、「あれ、みんな言っていることが違うぞ」となると、「見えること」が「分かっている」ことではないと気づくようになります。ですから見える人は複数いた方がいいですね。

苅部 たとえば葛飾北斎の浮世絵について、「富士山があります」と説明するだけでは意味がないということですね。富士山という山がどのように描かれているのか、自分にとってはどういうふうに感じられるのかを、その場で言葉を使って表現する。

伊藤 もちろん正確な情報も必要ですが、ただ富士山の上に大波がザブンと来ている、と言っても、見えない人には全く意味が伝わりません。ですから、「布団をかぶっているようだ」とか、いろんな比喩を使って伝えようとするんです。

 そうした時に、表現をした人のバックグラウンドも見えてきますよね。どうしてこの人は布団という比喩を使ったんだろう、とか。言葉だけが独り歩きをする解釈ではなく、そこに参加した人たちの背景込みで解釈が作られていくというのが重要です。

苅部 以前、新居にテレビがまだなかったとき、ラジオでサッカーの試合中継を聞いたことがありますが、アナウンサーが実に巧みに、選手たちの動作のようすについて語るんですね。まさに訓練を受けた人の技術だと感心したのですが、これはソーシャル・ビューの対極にあるものですね。ソーシャル・ビューは見えているものごとを、その場で的確に表現するというのではなく、その意味を伝えるという別の能力。

伊藤 いまは、どうしてもテレビを前提にしなければならず、そこからラジオでも正確に説明することが重視されます。でも、テレビができる前のラジオは全く別で、当時のものを聞くと、これが実にソーシャル・ビュー的なんです。弁士のような方が「風雲急を告げ……」と、野球の早慶戦を、まるで戦国武将の合戦のような感じで語って、聞く人の想像力を刺激するんです。

苅部 たとえばベーブ・ルースのかっこよさを雄弁に語ったりするわけですね。それが現在では、映像にぴったり対応するような正確さが求められている。

伊藤 視覚優位になっていると思います。

人の体は言葉で変えられる

苅部 伊藤さんのご著書『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』〈2013年〉の文庫化)を遅まきながら読んで、この本の執筆当時のお仕事と、今のお仕事があまりに違うので驚きました。この本で示されているのは、まさに純粋美学の理論。現実から離れたところで自己完結する世界を徹底して書かれています。一方で現在は、身体という現実の世界を対象にしておられる。この問題意識の変化は、どういう風に起こっていたのでしょうか。

伊藤 私は学部のときに佐々木健一先生のゼミでポール・ヴァレリー(編集部註:1871−1945、仏の詩人、小説家、評論家)に出会って以来、学生時代はずっとヴァレリーでした。文献調査しかしない典型的な文学部の学生だったんですね。現在はヴァレリーがやっていたこと、言っていたことを実践しているという意識があります。

 ヴァレリーの時代、つまり20世紀の初頭というのは、テクノロジーの進化によって人間の感性が大きく変わった時代でした。それまで徒歩と馬車しかなかったのが、突然、乗用車が走ったり航空機が飛んだりして、ヒューマンスケールを超えた感覚的な刺激が一気に増えてしまった。これによって体が失われていく危機感を持つ者が現れるようになったんですね。そういう体が失われる危機感の中でどうやって芸術を通して体を取り戻すのかということを多くの芸術家たちが考えるようになって、ポール・ヴァレリーもその一人だったんです。

 ヴァレリーが考えたのは、詩を使って読者の身体を開拓するということでした。詩を使って筋トレするという感じでしょうか。

 詩というのは、たいへん読みづらいもので、それゆえに身体を拘束します。特に定型詩などは自分の身体的なリズムとは違うリズムに乗らなければならない。その強制力が体を意識させて、経験したことのない体の可能性を引き出す。つまり、人の体は言葉を使って変えられるとヴァレリーは考えたんですね。

 ちょっとした言葉を使って、その人の身体的な経験を変える。例えば「視覚障害者って、前と後ろの差がないんだよ」という表現を読むと一瞬、誰でもぞわっとすると思うんです。

 こういうことを意識できるようになったのは、多分、ヴァレリーを勉強したからです。

苅部 僕がヴァレリーの詩を最初に読んだのは、岩波文庫の鈴木信太郎(1895−1970、フランス文学者)訳の『ヴァレリー詩集』を通じてでした。その時は普通に詩を読むのと同じような感想しか抱きませんでしたが、それから何年もたって、中井久夫さん(1934−2022、精神科医)が訳されたヴァレリーの詩集『若きパルク/魅惑』を読んだとき、その言葉からとても肉感的なものを感じました。色彩が端々から浮かびあがってくるような。

 伊藤さんも、ヴァレリーの作品が放ってくる、精神と肉体が統合された何かをとらえておられたんでしょうね。

伊藤 ヴァレリー自身も音読してほしいと言っていましたが、中井先生の訳は本当に音読に向いています。フランス文学研究者の訳とは全く違う。まさに学と芸の、芸の側で、読んだときに音の響きがいいこと、さらにそこに体が乗っていくような感じがするんです。

 中井先生は翻訳するときに原著者の書斎を再現されたそうなんですが、そうすることで訳文が降りてくるとおっしゃっていました。でも、ポール・ヴァレリーの部屋ってめちゃくちゃ汚いんですけれどもね。

苅部 鈴木信太郎の場合だと、詩の翻訳はヴァレリーもステファヌ・マラルメ(1842−1898、フランスの詩人)も同じ調子なんですね。みずから詩人でもある鈴木信太郎スタイルになっている。それはそれで翻訳としてはありですが、中井さんとは対極に位置している。

「身体」と「体」、「触る」と「触れる」

苅部 伊藤さんは最初は、生物学者になりたかったそうですね。

伊藤 生物学というのは、理系の学部の中でちょっと特殊で、どうしても“問い”が生まれてきます。例えば、子孫を作る仕組みって、なぜこうなっているんだろうと。物理だと、なぜ重力が存在するんだろうということはあまり考えなくてもいい。

 生物というのは、あまりに上手くできているので、どうしても理由が気になってしまう。それがやはり哲学に近づいていった一つの要素だと思います。

苅部 とてもいい形で、理系から文系に関心を移されたんですね。

 そういえば、伊藤さんは近年の文章では「身体」ではなく「体」と書かれますよね。最初のヴァレリーの本では「身体」になっていましたが、その点はやはり意識して表現を選ばれているのでしょうか。

伊藤 ありがとうございます、ちょっとこだわっている部分です。先ほど名前が挙がった市川浩先生や中村雄二郎先生は「身体」という言葉を使いますが、「身体」というのはアカデミックな概念ですね。日常会話では「身体が痛い」とは言わない。そういう概念化された「身体」ではなく、普通にトイレに行ったり食事をしたり汗をかいたりする、みんなが具体的に一つ持っている「体」というものについて研究したいと思ったので、もっとも普通に使われる「体」という言い方をしようと思いました。でも論文だとどうしても「身体」になってしまいますね。

苅部 「身体髪膚これを父母に受く」とか、「身体」という表現は昔から漢語にはありますが、日常的に使う言葉ではないですよね。これに対して、「体(からだ)」は和語です。だから日常の感覚に近づけて語ろうとする場合には、それが自然な表現になる。

『手の倫理』の中では「触る」と「触(ふ)れる」について言及されていましたが、「触る」と言うとネガティブな感じがする一方で、「触れる」と言うとちょっと優しく撫でているような感じになる。日常の言葉を用いて物の考え方を解きほぐしていくことで、本当は大事な何かが見えてくるということですね。

伊藤 確かにそうです。日常の言葉の中にはある種の蓄積、歴史があるんです。みんなが生活の中で使ってきた知恵のようなものが詰まっていますから。

 私はアカデミックの知の方が優れているとは全く思っていません。とくに体に関してはむしろ生活の方が現場であって、アカデミックで語られるものはスカスカの抽象化され過ぎてしまったもの。

 ですから「触る」とか「触れる」という言葉を使って物事を考えるときはすごく緊張します。日常的な言葉だから親しみやすいようで、実は論に乗せていくためには相当丁寧にやらないとその言葉が持つ蓄積みたいなものを消してしまう。その緊張感がむしろ刺激になって論をすすめてくれる。常にヒントをもらっているところですね。

理系と文系が刺戟し合う場所で

苅部 東京工業大学では現在「未来の人類研究センター」のセンター長をなさっていますが、ここでのお仕事もやはり、これまでおっしゃったようなことに繋がってくるのでしょうか。

伊藤 「未来の人類研究センター」というのは東京工業大学の中にあるリベラルアーツ研究教育院(編集部註:2016年、東工大では学部と大学院を統一した「学院」が設けられた)から人文社会系の研究者が集まって作ったセンターです。

 今、研究の現場では文理融合ということがよく言われます。ただ、いきなりシェイクスピアの研究者と材料工学の研究者が一緒になって何かができるかというと、もちろんできません。だったらその間にワンクッション作ったらいいだろうと、このセンターが出来たんです。

 工学系の人たちは社会のため、人のためにと、いろんな研究をしていますが、環境問題一つとっても、人のためというのは、言うほど簡単なことではありません。そこでセンターのテーマを「利他」に設定し、人文的な知恵も通じて研究を進めています。

「利他」は仏教の言葉ですが、人が人を助けるというのは、なかなか思い通りにはできません。もし思い通りにできてしまったら、それはもう、ほとんど暴力です。こうすればこの人が喜ぶはずだと思うことを押し付けるケースが、すごく多いですね。

 とくに障害者が関わる場面では、よく起こります。もちろんサポートすることは大事ですが、「きっとできないでしょう。じゃあ私、やってあげます」となると、障害を持っている人が「自分は信頼されてない」という気持ちになったりしますし、挑戦する機会も失ってしまう。善意自体はいいことですが、それが窮屈な人間関係を作ってしまうこともある。

苅部 テクノロジーは、人間にとっての環境をより良い状態に変える目的を、全体としてもっている。他面ではしかし現実には、その技術を適用した結果が、ねらい通りにうまくいくとは限らない。他者との関わりという視点から、環境への働き方を考え直し、学問や知を組み替えていく。そういう両方向からのアプローチがあっていいはずなんです。

 そもそも、科学の発見、ブレークスルーも思いがけないところから出てくるものです。いろいろな手法を組み合わせて試行錯誤しているうちに、予想を超えたものが生まれ、そこから新しい技術が作り出される。しかしそういうプロセスが、専門的な学問研究においては軽視されがちです。つまりマニュアルに沿った手法で実験や観察を繰り返し、データを蓄積していく仕事の方が評価される。

 試行錯誤型で何かを発見するという方法での探究は、手間も時間もかかるし、そもそもうまくいくかどうか予想できない。そういう意味では、文系の研究に近いですよね。

伊藤 そうですね。サイエンスもエンジニアリングも、誰がやっても同じ結果が出ることを目指しているように見えますが、実際には研究をする人のバックグラウンドが出てしまうし、むしろ、他と比較した時の強みはそこにしかないのではないかと思っています。

 例えば東工大のロボット研究者、鈴森康一先生のコンセプトは、「いい加減」です。鈴木先生が開発されたロボットは水道管の中のような、曲がりくねったところを通るものですが、水道管の曲がりの角度を全部計算してプログラミングしたロボットだと絶対につかえてしまう。それよりも材質を柔らかくして、あまりプログラミングしないでおくと、あれこれやっている内に、すっと先に行ける。そういうソフトロボット、いい加減なロボットというのを開発されています。

 これは一見失敗と思われていたことからの新しい発見ですし、案外そういう発見が生まれるときにこそ、日本的な価値観や仏教的な価値観が役立つと思うんです。人文社会系の研究者が加わることで、新しいヒントが生まれそうな場面はたくさんあります。

苅部 ロボットといわれるとつい、金属性で、カクカクとした動きの機械を考えてしまいますが、必ずしもそうではない。そうした可能性を、研究者は無意識のうちに想像力から排除してしまいがちですが、そのことを自覚するのが大事なんでしょうね。

伊藤 理学系でも同じようなことがあります。同じく東工大の同僚の井田茂先生は系外生命、つまり太陽系の外の生命を研究しています。

 生命とは何か、と問われても、私たちは地球上の生命しか知らないわけですから、そこでの生命しか定義できない。この、どうしようもない偏見を地球人として持ってしまう中で、どうしたら、太陽系の外に存在するかもしれない、違うタイプの生命を考えられるか。頭の柔軟さが勝負のようで、私たちのセンターの研究にも出てきて、全く違う分野の学問に常に触れていたいと、おっしゃっていました。

苅部 面白いですね。いろんな価値観がおたがいに刺戟し合う。

伊藤 東工大の場合、理系の学生が多いのですが、例えば芸術の授業だと、彼らならではの美意識、つまり数学の証明とかでもexcellentとかbeautifulといった言葉を使うような、そんな独特の美意識があるんです。

 そういうものは美術とは違うけど、決して間違っているわけではないので、それを肯定しつつ、美術の話もしていくとか……。そういうところは本当に面白いですね。前提の、さらに手前のところから考えなきゃいけない面白さがある気がします。

***

苅部直(かるべ・ただし)

1965年、東京都生。思想史家。東京大学法学部教授。専攻:日本政治思想史。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。著書に、『光の領国 和辻哲郎』(創文社、1995年/岩波現代文庫、2010年)、『丸山眞男―リベラリストの肖像』(岩波新書、2006年。サントリー学芸賞)、『移りゆく「教養」(日本の“現代”)』(NTT出版、2007年)、『鏡のなかの薄明』(幻戯書房、2010年。毎日書評賞)、『歴史という皮膚』(岩波書店、2011年)、『政治学(ヒューマニティーズ)』(岩波書店、2012年)、『安部公房の都市』(講談社、2012年)、『秩序の夢:政治思想論集』(筑摩書房、2013年)、『物語岩波書店百年史3―「戦後」から離れて』(岩波書店、2013年)、『「維新革命」への道:「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書、2017年)、『日本思想史への道案内』(NTT出版、2017年 )、『日本思想史の 名著30』(ちくま新書、2018年)、『基点としての戦後―政治思想史と現代』(千倉書房、2020年)など。

伊藤亜紗(いとう・あさ)

1979年、東京都生。美学者。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、同大科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。専攻:美学。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。博士(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013年)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015年)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社、2016年)、『どもる体』(医学書院、2018年)、『記憶する体』(春秋社、2019年。サントリー学芸賞)、『手の倫理』(講談社、2020年)、『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋、2022年)など。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017、第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞(2020)を受賞。

 

◯番組名:「学」と「芸」のあいだ――サントリー学芸賞の世界Vo.2

◯放送日:2022年11月23日

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
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