ジャック・ウェルチ:「20世紀最高の経営者」の未だ定まらぬ蓋棺録

執筆者:杜耕次 2023年4月3日
エリア: 北米
後継者に選んだイメルトの会長就任会見で質問に答えるウェルチ(左)。さほど時を置かずにウェルチはイメルトへの失望を口にするようになる[2000年11月27日、ニューヨーク](C)AFP=時事
西室泰三、出井伸之、中村邦夫……1990年代のスター経営者たちは事あるごとにウェルチの名を口にした。しかし、彼らがGEに倣った改革は予期せぬ苦境を次々と呼び込み、日本経済を一層深い迷路へと入り込ませたようにも見える。GEがついに3社分割へと進み、ウェルチの経営理念も「強欲資本主義」と読み替えられつつある現在、日本の企業経営は神話の負の側面を改めて見つめ直す必要がある。長期連続企画で考察する。

 古今東西、ステークホルダー(株主や従業員、取引先など利害関係者)に莫大な富をもたらした名経営者は「神」と崇められ、周辺から生まれる数々の「神話」が公私に亘る彼らの疵を覆い隠してきた。ヘンリー・フォード(1863〜1947年)は熱烈な反ユダヤ主義者であったし、松下幸之助(1894〜1989年)の宗教紛いの企業統治は評論家の大宅壮一から「ナショナル教」と揶揄されたが、歴史上の人物となることによって、こうした過去の悪評は浄化されていった。

 ジャック・ウェルチ(1935〜2020年)を歴史上の人物と呼ぶには他界してまだ日が浅いかもしれない。1892年創業、発明王トマス・エジソン所縁の米ゼネラル・エレクトリック(GE)を復活・飛躍させた“中興の祖”であり、1999年に米経済誌フォーチュンが「20世紀最高の経営者」との栄誉を与えた。しかし、米国企業の代名詞でもあったそのGEはこの5年間で一気に凋落、会社は解体に追い込まれた。収益至上主義で黄金期を築いたウェルチの経営は“強欲資本主義”の典型とされ、今では高株価の代償として数十万人の雇用を蒸発させ「アメリカ企業社会の精神を破壊した張本人」といった汚名を着せられている(デービッド・ジェレス著「The Man Who Broke Capitalism〈資本主義を壊した男〉」2022年、邦訳未刊)。

「年俸1万500ドルのエンジニア」で入社

 経営者としてのウェルチの軌跡は栄光に満ちていた。両親ともにアイルランド移民の子で、その一人っ子として米東部マサチューセッツ州ピーポディで生まれた。父はボストン&メイン鉄道の車掌で決して裕福な家庭ではなかったが、ウェルチの青春期は1950年代、戦後アメリカの良き時代で雇用は安定。労働者階級の子弟でも大学進学を阻まれる経済的障害はなかった。

 地元のセーラム高校を卒業後、ダートマス大学やコロンビア大学など東部の名門大学を志望したが、合格通知が来たのはマサチューセッツ州立大学。エリート校ではなかったものの、専攻した化学工学部で恩師に恵まれ、大好きな実験に没頭したウェルチは学部の最優秀卒業生に選ばれる。「もしMIT(マサチューセッツ工科大学)に行っていたら、群れの中に埋もれて終わったかもしれない」と後に振り返っている。大学院はイリノイ大学に進み、修士号と博士号を取得。一時は学者の道を目指したが、在学中に最初の妻・キャロリンと出会い、結婚を機に就職活動に転じる。採用面接でゴーサインが出たのはエクソンとGEの大企業2社。選んだのは新しいプラスチック素材の開発に取り組んでいたGEだった。

 1960年11月、年俸1万500ドルのエンジニアとして入社したウェルチの最初の仕事は、ポリフェニレン・オキサイド(PPO)と呼ばれる高耐熱の新しい熱可塑性樹脂のパイロット工場をマサチューセッツ州ピッツフィールドに建設するプロジェクト。1年後に1000ドルの昇給を提示されたが、職場の同僚と同額だったことから「並」の昇給以上に働いたつもりのウェルチは「ケチな会社」に失望。一度は転職を考えるが、工場の設計・建設を自由に進められる環境は捨て難く、思い留まった。それでも「群れから抜け出してやる」という旺盛な上昇志向は、生涯を通じてウェルチを特徴づけるキャラクターになる。

 入社3年目のある日、化学工程の実験中にパイロット工場の屋根を吹き飛ばす爆発事故が起きるが、当時のGEには(ウェルチ以降の時代と違って)従業員への温情あふれる「ジェネラス(寛容な)・エレクトリック」と呼ばれた社風が残っており、実験チームのリーダーだったウェルチが会社を追われることはなかった。この時取り組んでいたPPOは後に世界で10億ドル以上を売り上げる産業素材に育ち、この功績をバネにウェルチは入社8年足らず、32歳の若さでプラスチック事業のゼネラル・マネジャー(日本企業でいえば事業部長級)に昇進する。

 さらに1971年に化学・冶金部門のトップとなり、1977年には当時の会長レギナルド(レグ)・ジョーンズ(1917〜2003年)からコネティカット州フェアフィールドの本社に呼ばれ、家電など消費者向け製品(今で言う「B to C」)事業のセクター・エグゼクティブへの就任を告げられる。セクター・エグゼクティブは29段階あったGEの組織階層の上から3つ目。あと2つ上り詰めれば会長になる地位であり、実質的にジョーンズの後継レースに加えられたことを意味した。

 B to C事業は「トースターから原発、航空機エンジンまで」と言われたGEの製品ラインナップの中で最も単価が安く、成長著しい日本メーカーの追撃が激しい部門だった。将来の成長が期待し難い製品群のテコ入れは悩ましい問題だったが、ウェルチはそこで経営陣の誰もが気づいていなかった「金鉱脈」を発見する。1929年の大恐慌の後、冷蔵庫やレンジの在庫を抱えて困っている家電ディーラーを救済するため、消費者への割賦販売を行う部門として発足した金融子会社「GEクレジット」(後のGEキャピタル)である。

 1960〜70年代に建機リースや住宅ローン、商業用不動産投資などに事業の裾野を広げていたGEクレジットは専門家以外には理解が難しい業態に変化していたが、ウェルチは製造業に比べ簡単に利益を稼げることに目をつけた。「研究開発や工場建設に多額の投資をする必要もなければ、来る日も来る日も金属を折り曲げていなくてもよい」とウェルチは自伝(『ジャック・ウェルチ わが経営』2001年、日本経済新聞社刊)で説明している。

 1977年当時、GEクレジットは7000人以下の従業員で6700万ドルの利益を計上していた一方、家電事業は1億ドルを儲けるために4万7000人以上の従業員を必要としていた。高収益のクレジット事業に有能な幹部人材を送り込み、さらに成長させる基盤を作ったことがウェルチの大抜擢の決め手の1つになった。1981年4月、250億ドルの売上高と15億ドルの利益を計上し、40万4000人の従業員を抱えるGEの会長兼CEO(最高経営責任者)の座がジョーンズからウェルチに引き継がれた。63歳から45歳への若返りだった。

5年足らずで4人に1人が会社を追われた

 英国生まれで品位と威厳を兼ね備えたジョーンズとは対照的に、若くアグレッシブなウェルチの登場によってGEは大きな変貌を遂げる。45歳の新会長は株主価値の向上を経営の主眼に据え、最初に打ち出したビジョンで「自分たちが競い合っている事業で集団から抜け出し、ひたすらナンバーワン、ナンバーツーを目指す企業でなければ10年後には姿を消すことになる」との危機感を社内外に訴えた。業界1位または2位に入る可能性がない事業はことごとく売却対象とするほか、「スリムであること」「コストが最低であること」といった目標達成のために「ランク・アンド・ヤンク(Rank And Yank)」と名づけられた人事制度を編み出した。従業員の成果を毎年ランク付けし、各部門で下位10%を解雇(Yankは「引っ張り出す」の意味)するのである。

 こうした一連の収益向上策は……

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カテゴリ: 経済・ビジネス
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