強化される「オホーツクの要塞」――極東ロシア軍の実像と日本の安全保障

執筆者:小泉悠 2023年5月19日
エリア: アジア
2020年代後半には最新鋭SSBN5隻が太平洋艦隊原潜部隊の中核を構成すると予想される[2022年秋に太平洋艦隊に配備された955A型SSBNクニャージ・オレグ](C)Yakovlev Sergey / shutterstock.com
ロシア・ウクライナ戦争がロシアとNATOの全面戦争にエスカレートする可能性が依然排除できない中、極東ロシア軍の太平洋艦隊が担う戦略的意義はこれまでより格段に高まった。実際、開戦後も弾道ミサイル搭載原子力潜水艦の近代化など戦力拡充は滞りなく進められ、米露が衝突すればロシアがアラスカや日本の米軍基地を先制的に攻撃することも想定される。南西正面に対中国抑止という課題を抱える日本は、この北方のリスクにどう対応すべきか。

 4月半ば、ロシア軍がオホーツク海を舞台として大演習を行ったことは記憶に新しい。演習には人員2万5000人、艦船167隻(うち潜水艦12隻)、航空機89機などが動員されたというから(いずれもロシア国防省発表)、海軍主体の訓練活動としては近年稀に見る大規模なものであった。

 ウクライナでの戦争が続く中で「よくやるわ」という感想を持ったのは筆者だけではないだろう。また、この演習では対艦・対空・対潜戦闘訓練と並行して海軍歩兵部隊(海兵隊)による上陸作戦訓練も実施されたが、その親部隊である第155海軍歩兵旅団はウクライナ東部の激戦場であるブフレダールに投入されて壊滅的な損害を被ったばかりとされる。

 ただ、別の見方をするなら、ユーラシア西部で苦しい戦争を強いられているロシアがその反対側に未だ少なからぬ戦力を留めおき、大規模な演習を実施するにはそれなりの理由が存在するはずである。ロシアにとって極東の軍事的意義とはなんなのか。極東ロシア軍はいかなる状態にあるのか。そしてこれらの事実を踏まえた上で日本の安全保障はいかなるものであるべきか。本稿ではこれらの点について考えていきたい。

痩せ細る極東の地上戦力

 まず極東全体のロシア軍の兵力を把握しておこう。

 ロシアは全土を5つの軍管区に区分しており、各軍管区が統合戦略コマンド(OSK)として域内の陸海空軍を指揮するという体制をとっている(ただし戦略核部隊等は例外で国家最高指導部の直轄下にある)。本稿が対象とする極東ロシア軍は、東部軍管区(VVO)域内に配備された諸部隊に概ね相当すると理解されたい。

 VVOの兵力は、全体的に決して大きなものではない。特に地上戦力については、8万人(12個師・旅団)という評価を防衛省の『防衛白書』は過去数年にわたって維持しており、これは極東ロシア軍が北東アジアで最小の陸軍力であることを意味している。しかも、ウクライナへの全面侵攻に及ぶ前、ロシアはVVOの地上部隊の多くをベラルーシ方面へと移動させていたから、現在ではこれよりも大幅に減少していると考えられよう。前述した第155海軍歩兵旅団もこうして極東からウクライナへ投入された部隊の一つであるし、北方領土に駐屯する陸軍第18機関銃砲兵師団からもかなりの人数が戦場に送られたと見られている。また、昨年9月に発令された第二次世界大戦後初の部分動員は北方領土でも実施された。

 VVO域内には、武器装備修理保管基地(BKhRVT)と呼ばれる予備装備保管施設も多数設置されている。ウラル山脈よりも西側においては欧州通常戦力(CFE)条約に基づいて平時に配備しておける装備品の数に上限が設けられているためで、溢れた分が極東に貯蔵されている形だ。VVO内のBKhRVTは11カ所と全5個軍管区の中で最多を数える(なお、ロシアは2007年以降、同条約の履行を停止しており、5月に入ってからは正式な条約脱退の手続きを進めるようウラジーミル・プーチン大統領が命じた)。ただ、ロシア・ウクライナ戦争開戦後には、これらの基地からも予備装備が運び出されていることが確認できるので、常備の戦力だけでなく予備戦力も大幅に低下していることになる。

 ロシアが極東の地上戦力をガラ空きと言えるほどに縮小させても平気でいられる背景には、やはり中国との関係改善が大きい。1980年代末まで、中ソは国境地帯に合計100個師団もの兵力を張り付けて睨み合いを続けてきた。ところが1989年の関係正常化を経て2000年代に国境全てが画定されるなど、両国関係は急速に改善に向かい、貿易額や人の往来も活発化した。

 ロシア陸軍内では依然として中国を仮想敵と見なす考え方が根強く、2010年になっても対中全面戦争を想定したと思しき大演習が実施されるなどしたが、近年ではこうした対中脅威認識も(少なくとも表面上は)すっかり鳴りを潜めた。特に2014年のクリミア強制併合以降、ロシアの対西側関係は悪化する一方であり、2022年以降は冷戦期さながらの対立関係が復活しているから、中国まで敵に回すというシナリオはもはや完全に現実性を失っている。痩せ細る極東の地上戦力は、中露関係改善の裏返しでもあると言えよう。

太平洋艦隊が担う核抑止任務

 その一方、VVOの海上戦力である太平洋艦隊(TOF)は開戦後も目減りしていない。資金不足から駆逐艦やフリゲート等の大型水上戦闘艦艇については更新が滞っているものの、小型のコルヴェットや通常動力潜水艦については比較的早いペースで近代化が続いてきた。また、これらの新型艦艇は軒並みカリブル巡航ミサイルの発射能力を有しており、旧式艦艇の一部についても同様の能力を付与する改修が進んでいるので、長距離兵力投射(パワー・プロジェクション)能力はむしろ大幅に強化されつつある。

 では、これらの艦艇をウクライナ作戦に投入するという動きはないのだろうか。結論から言えば、現在のところロシア太平洋艦隊の艦艇はウクライナでの戦争には参加していない。ウクライナ南部に広がる黒海へ展開するためにはボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通過せねばならないが、両海峡はNATO(北大西洋条約機構)加盟国であるトルコによって封鎖されているためだ。カリブルの射程を考えると地中海からウクライナを攻撃することも不可能ではないが、NATO加盟国の領空を侵犯せねばならないので、ロシアにとってもハードルが高い。

 しかし、太平洋艦隊には、戦略核抑止という重要な役割が存在している。その担い手となるのがカムチャッカ半島を母港とする弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)で、米国から先制核攻撃(第一撃)を受けた場合の報復攻撃(第二撃)を確実に行うことを任務とする。ロシア海軍を構成する4つの艦隊と1つの独立小艦隊のうち、SSBNを運用しているのは太平洋艦隊と北方艦隊だけ、と言えばその重要性が理解できるだろう。

 ちなみに、両艦隊に配備されているSSBNは1980年代以降、ソ連(ロシア)近海から米本土を狙える長射程の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射できるようになった。この点は現在のロシア海軍でも同様であり、SSBNは味方の艦艇部隊や防空システム、航空機などの援護を受けられる海域(「要塞」とも呼ばれる)をパトロールしていると見られる。太平洋艦隊の場合、そのパトロール海域はオホーツクが主であるとされており、冒頭で述べた太平洋艦隊の大演習の舞台そのものである。実際、今回の大演習では稼働状態にあるほぼ全ての原潜が参加したことからして、オホーツクの「要塞」を日米の対潜部隊から防衛することが念頭に置かれていたようだ。

「格下艦隊」からの脱却

 太平洋艦隊の原潜部隊は、北方艦隊のそれに比べてやや「格」が低いとみなされてきた。現在、北方艦隊には最新鋭の955型(ボレイ級)SSBN1隻とその改良型の955A型(ボレイA型)1隻、そしてやや旧式の667BDRM型(デルタIV型)6隻から成る計8隻のSSBNが配備されているが、太平洋艦隊には少し前まで旧式の667BDR型(デルタIII型)が配備されているに過ぎなかった。攻撃型原潜(SSN)や巡航ミサイル原潜(SSGN)も同様で、全体的には北方艦隊の方が新しく、多数の潜水艦が割り当てられる傾向が見られる。海底調査や水中工作を担う「特殊任務原潜」も北方艦隊にしか配備されていない。

 両艦隊の位置付けを、当のロシア海軍はどのように考えているのか。これを明確に示す資料は今のところ見当たらないが、おそらくは原潜艦隊の本丸は北方艦隊なのであって、太平洋艦隊のそれは補助的な位置付けだったのではないかと思われる。実際、2000年代初頭には資金を節約するためにカムチャッカの原潜基地を閉鎖するという提案さえ参謀本部から出たようだが、プーチン大統領はこれを拒否したと2012年の論文で述べている。

 ところが、2010年代半ば以降、このような関係性は変化しつつある。……

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カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
小泉悠(こいずみゆう) 東京大学先端科学技術研究センター准教授 1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。民間企業勤務を経て、外務省専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員として2009年~2011年ロシアに滞在。公益財団法人「未来工学研究所」で客員研究員を務めたのち、2019年3月から現職。専門はロシアの軍事・安全保障。主著に『軍事大国ロシア 新たな世界戦略と行動原理』(作品社)、『プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア』(東京堂出版)、『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(同)。ロシア専門家としてメディア出演多数。
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