インテリジェンス・ナウ

「現代の怪物」の秘密に迫る:満100歳を迎えたキッシンジャー氏の裏の顔

執筆者:春名幹男 2023年5月30日
2017年6月、クレムリンで会談するキッシンジャー氏(左)とプーチン露大統領(ロシア大統領府HPより)
満100歳を迎えたキッシンジャー元米国務長官はアメリカ外交の理論と実践での戦略家として、数々の業績を挙げてきた。だがその出発点はインテリジェンスの世界であり、多くの秘密工作にも携わっていた。

 5月27日で満100歳となったヘンリー・キッシンジャー元米国務長官。彼は単なる外交の「泰斗」では終わらない。戦略家として、バランスを旨とする世界観をバックに、豊富なインテリジェンスを駆使して、表と裏を巧みに使い分け、歴史の舞台を取り仕切ってきた。

 その上彼は、欧米が「封じ込め」を図るロシアのウラジーミル・プーチン大統領や中国の習近平国家主席ら世界の指導者と今なお親交の「ネットワーク」を維持している。

 後述するが、キッシンジャー氏はウクライナ問題の根本的解決につながるカギも提示していた。現在の欧米の指導者にはスケールの大きい識見を持つ者は見られない。広島の主要7カ国首脳会議(G7サミット)でそれを露呈したが、確かな出口戦略もないまま、ただウォロディミル・ゼレンスキー・ウクライナ大統領の要請に従い、巨額の軍事・経済援助を続けてきただけに過ぎない。

 だがキッシンジャー氏には今の指導者にはないグランド・デザインがある。

 実は、キッシンジャー氏は元々「インテリジェンスの世界」の人間で、プーチン大統領とはそのことで意気投合していた。

 100歳を超えた今、もはや彼の外交復帰などあり得ない。しかし同時に、彼にはノーベル平和賞受賞者にふさわしくない疑惑も多々ある。日本ではあまり知られていない裏の顔も含めて、現代の怪物の秘密に迫った。

まともな人はインテリジェンスから始める

 まずはキッシンジャー、プーチン両氏の出会いから紹介しておきたい。

 プーチン氏の自伝『First Person』(邦訳『プーチン、自らを語る』扶桑社、2000年)によると、最初の面談は1991年、プーチン氏が当時レニングラードのアナトリー・ソプチャク市長の下で外交顧問をしていた時のこと。キッシンジャー氏は外国投資を誘致する委員会のメンバーだった。

 プーチン氏は空港でキッシンジャー氏を迎え、一緒に車に乗り込んで以下のような会話を交わした。当時プーチン氏は38歳だった。(K:キッシャンジャー、P:プーチン)

K:ここでどれほどの期間働いているのか?

P:約1年です。その前は市議会、その前は大学院、その前は軍隊です。

K:どの部隊か?

P:実はインテリジェンスの仕事です。

K:外国で働いたのか?

P:イエス。ドイツです。

K:東か西か?

P:東です。

K:まともな人はインテリジェンスの仕事から始める。私もそうだった。

K:ソ連はそんなに早く東欧を放棄すべきではないと思う。われわれは世界のバランスを非常に急激に変化させている。それは望ましくない結果を迎える。……人々はソ連がなくなり、すべて正常だと言う。それはあり得ない。正直なところゴルバチョフがなぜそんなことをしたか私は分からない。

 キッシンジャー氏がソ連・東欧の崩壊について、そんな見方をしているとは、プーチン氏は想像もしていなかったので喜び、「キッシンジャーさんは正しい。ソ連が急いで東欧から離脱していなければ、多くの問題は避けられていたでしょう」と言ったという。そんな巧みな話法で、キッシンジャー氏は各国政府要人らの立場に寄り添い、信頼を得てきたとみられる。

若くしてCIA秘密工作を審査

 キッシンジャー氏自身、1943~46年に米陸軍兵としてドイツに駐留、防諜部隊(CIC)第970分遣隊の軍曹にまで昇進した。東欧から逃走したナチス協力者をリクルートし、対ソ連工作に使う工作に従事していた。15歳までドイツにいたので、ドイツ語が堪能だった。

 さらに戦後はハーバードの大学院生時代から、情報関係を含む米政府機関のコンサルタントを務めている。1952年心理戦略委員会(PSB)、1955年工作調整委員会(OCB)、1961~62年国家安全保障会議(NSC)、1965~68年国務省といった経歴を重ねた。

 PSBやOCBは、米中央情報局(CIA)が世界各地で展開した秘密工作について審議する機関。彼はインテリジェンスの世界で、情報工作に長けた専門家になった。

 筆者が1993~95年頃にワシントンで、CIAなどが主催したシンポジウムで知り合った元CIA分析官にキッシンジャー氏のことを尋ねたところ、「彼はCIAの分析に耳を傾けることはなかった。生の情報を基に自分で分析する」ような人物だったと教えてくれた。

ウクライナを東西間の「架け橋」にと提案

 キッシンジャー氏は歴史も含めウクライナの問題に詳しく、ウクライナを「東西間の架け橋とすべきだ」とする持論を展開してきた。

 2014年3月5日付『ワシントン・ポスト』に次のような寄稿をしている。

「ウクライナはしばしば、東側に加わるか、西側に加わるか、どちらかに決める問題として取り上げられる。しかしウクライナの存続と繁栄を目指すなら、東西どちらかの前線基地にすべきではない。東西両側の間の架け橋とすべきだ」

 そのために(1)ウクライナは北大西洋条約機構(NATO)に加盟しない(2)国民の意思表明で、(当時の)フィンランドのように、ほとんどの分野で西側と協力する一方、ロシアとの敵対を避ける体制を選ぶ――などを提案した。

 ただウクライナはロシアにとっては、単なる独立国ではないようだ。9世紀後半から13世紀半ばに、東欧から北欧に至る地域に存在した「キエフ大公国」がウクライナとベラルーシ、ロシアの文化的な祖先とみられている。

 プーチン大統領が2021年7月に公表した論文で「ロシアとウクライナの歴史的一体性」とか「ロシア人とウクライナ人は9世紀の古代ルーシを継承しており、分かち難い」と主張しているのはそのことだろう。14世紀以後、ウクライナはさまざまな外国の支配下に置かれ、冷戦終結の1991年にようやく独立。それ以来30年余しか経っていない。

非常に強かった米国の対露不信

 だからといって戦争を仕掛けるのは正しくない。ウクライナを歴史的に元々ロシアと同じ国だと主張して侵攻したから、ウクライナを支援する西側との間接的な衝突に至ったのだ。

 しかしウクライナ国内は、2004年の「オレンジ革命」2014年の「マイダン革命」とロシアによるクリミア併合を経て、親欧米派市民が増えていった。

 プーチン大統領があえて戦争に踏み切った裏には、米国が2014年以降、巨額の対ウクライナ軍事・経済援助を続け、ウクライナ軍を訓練し情報機関をテコ入れ(拙稿2022年4月21日『ウクライナ「強さ」の秘密:劇的に変貌した情報機関と軍隊』参照)した事実がある。

 この間、米政府はバラク・オバマ、ドナルド・トランプ、ジョー・バイデンの3政権が担当したが、ウクライナの将来に向けたグランド・デザインを示し、米国民およびNATO同盟諸国の支持を得た事実はない。むしろビクトリア・ヌーランド現国務次官(政治担当)ら新保守主義勢力(ネオコン)や対露強硬派の主張を入れて、ずるずるとウクライナへの関与を強めてきたのが現実と言える。「クリミア併合」で米国の対露不信がさらに強まったのも事実だ。

 あくまで仮説に過ぎないが、いずれか可能な時点で、「架け橋」つまり「中立」が是か非か、を問うウクライナ国民投票が実施され、「中立」を求める国民が多い場合、米露も含めた主要国がウクライナの安全保障を確認するといった措置を決めていたら、戦争は起きなかった可能性がある。ただクリミア併合後、米露が歩み寄る状況にはなかった。実際、キッシンジャー氏が自説を米政府に提案した事実もなく、ロシアのウクライナ侵攻に至った。

センシティブな問題で批判を受ける

 侵攻後の2022年5月、ダボス会議にキッシンジャー氏がオンライン参加して行った停戦交渉に関する発言が物議を醸した。

「境界線は以前の状態に戻すのが理想的」としながら、「その位置を越えて戦争を続けることはウクライナの自由に関する問題ではなく、ロシアに対する新しい戦争となる」という発言だ。

 ウクライナに対して、クリミアおよび東部ドンバス地方の親ロシア派地域を断念せよ、と言ったに等しい指摘だった。『ワシントン・ポスト』は「キッシンジャー氏がウクライナは戦争終結へ領土を割譲すべきだと発言」と報じた。ウクライナ支持者の反発を受けたのは当然だった。

 ただ、この問題はキッシンジャー氏が唱える「架け橋」論のような理念的な問題ではない。センシティブな領域に頭を突っ込み失敗したとも言えるが、同時に、場合によっては傲慢な態度に出るキッシンジャー氏に対して嫌悪感が示された可能性もある。

ニクソン当選の裏にキッシンジャーの貢献

 キッシンジャー氏自身については、汚い政治工作や秘密工作などについて、さまざまな疑惑が突き付けられてきたことも記録に残されている。

 国務長官退任後、書き続けた著作は、どれもベストセラーとなり、日本では称賛の声しか聞こえない。しかし実は米国では、毀誉褒貶が激しい人物とされているのだ。

 1968年の米大統領選挙。共和党予備選挙でキッシンジャー氏はネルソン・ロックフェラー候補(ニューヨーク州知事)を支持し、非公式の外交顧問をしていたが、党の指名を獲得したのはリチャード・ニクソン氏だった。

 本選挙では、11月5日の投票日に向けて、民主党候補のヒューバート・ハンフリー副大統領を支持するリンドン・ジョンソン大統領がベトナム戦争をめぐって、どんな策に打って出るか、と注目されていた。

 その時キッシンジャー氏は、国務省コンサルタントとして、ベトナム和平交渉のパリ会談に関する情報を入手できる立場にあった。

 民主党のジョンソン政権は10月9日のパリ和平会談で、北ベトナムとの間で北爆の停止と和平会談への南ベトナムの参加について基本合意した。和平会談に南ベトナム解放民族戦線の代表も参加することが決まった。

 ジョンソン大統領は10月31日にこの提案を発表した。

 キッシンジャー氏は、その直前にジョンソン政権の和平工作に関する情報をニクソン陣営に連絡。ニクソン陣営は、和平会談への参加を内諾していたグエン・バン・チュー南ベトナム大統領に働きかけて、「会談不参加」への同意を得た。チュー大統領は11月2日に「会談不参加」を発表、ジョンソン提案はぶちこわしとなり、3日後の大統領選挙でハンフリーは敗れた。

 当選したニクソンは、キッシンジャー氏の勝利への「貢献」を高く評価。大統領選から3週間後の26日にキッシンジャー氏と会い、国家安全保障問題担当補佐官のポストをオファーした。キッシンジャー氏は結局、この「スパイ工作」でホワイトハウス入りし、補佐官と国務長官で8年間、歴史に残る仕事をしたというわけだ。

アジェンデ・チリ政権打倒工作で暗躍

 キッシンジャー氏は政権入り後も、秘密工作を強引に展開した。その中で最も典型的な工作は、南米チリで歴史上初めて自由選挙で政権に就いた社会主義者の大統領に対し、CIAによる秘密工作を主導したことだ。

 1970年9月、チリ大統領選挙で左派人民連合代表のサルバドル・アジェンデ社会党党首が1位となった。同候補が翌月の決選投票に勝てば、大統領に就任するため、ニクソン大統領はCIAに指示して、アジェンデ当選を阻止するよう秘密工作を命じた。

 これ以後対チリ工作はキッシンジャー補佐官が主導、CIAに特別チームが設置され、1000万ドル(当時の為替レートで36億円)の資金が準備された。しかし、チリ軍部によるクーデター計画は失敗、工作は中止となった。

 アジェンデ氏は10月の決選投票で圧勝、これ以後米国は長期的なアジェンデ政権打倒計画を立案。キッシンジャー補佐官は11月5日付大統領あてメモで、米国は約10億ドルの対チリ投資を失い、チリの約15億ドルの対米債務が不履行となる恐れがあると警告した。

 ニクソン政権は米国家安全保障決定メモで、国際金融機関の対チリ信用供与を制限するなどの対策を打ち出す一方、CIAは軍部などに650万ドルの秘密資金を渡して、アジェンデ政権打倒を働きかけた。これらの米政府機密文書は米民間調査機関「国家安全保障文庫館」が入手した。

 その結果、チリ経済は悪化して国内情勢が混乱、1973年9月11日に軍部がクーデターを実行して、アジェンデ大統領は死亡、アウグスト・ピノチェト陸軍司令官が大統領に就任する結果となり、軍事独裁が約16年間続いた。

 軍部クーデターの裏にキッシンジャー補佐官が主導した秘密工作があったことは伝えられていなかった。

 チリでは、ピノチェト将軍に続いて、キッシンジャー氏の刑事責任を追及する動きもあった。

田中角栄逮捕の裏にキッシンジャー

 ロッキード事件で田中角栄元首相が1976年7月に逮捕された部隊裏では、キッシンジャー氏が巧みな仕掛けでロッキード社の関係文書が日本側に渡されるよう工作していたことが、筆者の取材で判明し、拙著『ロッキード疑獄』(KADOKAWA、2020年)で明らかにした。

 ロッキード社に対して、証券取引委員会(SEC)は、旅客機の国際的な販売工作に関する文書を提出するよう求める訴えをワシントン連邦地裁に起こした。これに対して同社は贈賄関係文書の提出を免れようと、キッシンジャー国務長官に依頼して、司法省あてに「意見書」を書いてもらった。意見書は司法省が連邦地裁に提出。連邦地裁は意見書を受け入れて、1975年12月に最終決定を出した。この決定は同社の文書公開を阻んだと長い間考えられていた。

 ところが、現実にはキッシンジャー長官は意見書に巧みな仕掛けをしていた。「Tanaka」と書かれた文書が日本の検察庁に渡るよう細工が施されていたのだ。

 田中は首相在任中、1972年9月米国に先駆けて「日中国交正常化」を実現、1973年の第4次中東戦争後、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の圧力に屈してイスラエルを中心とする日本の「中東政策」をアラブ中心に転換するなど、米外交戦略に抵抗する外交政策を進めていたのである。

 田中は「金脈問題」で1974年末に首相を辞任していたが、約1年2カ月後のロッキード事件発覚当時まで、「カムバック」を意図していた。キッシンジャー長官には「田中首相」の再登場を阻止する意図があったとみられる。

 キッシンジャー氏はその後、1978年と1981年、1985年と3回も東京・目白の田中邸を訪問している。そのうちの1回、通訳として立ち会った元外務次官によると、内容は世間話のようなものだったという。田中に真相を知られたかどうか、様子を見に来たのかもしれない。

元祖「シャトル外交」

 最近の岸田文雄首相と尹錫悦(ユン・ソンニョル)韓国大統領の間で、広島G7サミットまで繰り返された「シャトル外交」という言葉。実は1973年の第4次中東戦争後に、バドミントンの羽根(シャトル)のように中東各国の首都を行き来し、アラブ諸国とイスラエルの間で「兵力引き離し」に成功したキッシンジャー外交がその起源といわれる。

 また、6時間でも7時間でも会談した中国の周恩来首相や旧ソ連のアンドレイ・グロムイコ外相ら、これと思った人物とは、深い友情関係を築き上げ、真剣な外交を繰り返した。

 これらの諸国はキッシンジャー氏にとっては正面から取り組むべき「プレミア・リーグ」の諸国だ。しかし「特異なキャラクターは理解できなかった」と回想録に平気で書かれた日本、民主的な選挙で選ばれた政権なのに敵視して打倒したチリ社会主義政権など、キッシンジャー氏のお眼鏡にかなわない「リーグ外」の諸国に対しては手荒い工作で対応したことも、負の歴史として明記しておきたい。

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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