
2022年8月、アメリカで「インフレ抑制法(IRA)」が成立した。これは1930年代の大恐慌以来、最も包括的な産業政策で、その目的は、長年の懸案だった再生可能エネルギーの導入拡大をテコに、国内製造業を復活させることだ。
インフレ抑制法の成立によって、ヨーロッパや日本をはじめ各国で懸念が広がっている。アメリカが、長年力を入れてきた市場経済や自由貿易を放棄するのではないかとの不安を招いているのだ。
ただ、世界経済におけるアメリカの一国主義こそが、EU(欧州連合)や、程度の差はあれ日本との無数の政策対話を生んできたともいえる。こうした政策対話を行うことで、価値観を同じくする国・地域の貿易や投資に関する新たなルール作りは、過去30年間WTO(世界貿易機関)を通じて行ってきたよりもうまくいくかもしれない。
際立つ貿易技術評議会(TTC)の協議内容
インフレ抑制法には、北米で組み立てられた電気自動車(EV)購入の際の税控除や、ハイブリッド車、プラグインハイブリッド車(PHEV)、水素燃料電池車などをアメリカ国内で生産する企業への補助金、また太陽光発電や風力発電の設備、蓄電池の部品や重要鉱物の国内製造を奨励する生産税控除などが含まれる。連邦政府が今後10年で投じる歳出総額は4330億ドル(約60兆円)、米金融大手ゴールドマン・サックスの試算では総額1兆2000億ドル(約170兆円)規模にのぼるともいわれる。
スイスの金融大手クレディ・スイスのレポートによると「インフレ抑制法は、アメリカがすでに確立している戦略的優位性をさらに高め、低炭素経済のエネルギー供給者として支配的地位を得ることを可能にする」という。
バイデン政権から見れば、インフレ抑制法は“良い投資”だ。しかし、アメリカと関係の近い国々にとっては全く違う話である。なかでも不満の声が大きいのはヨーロッパ諸国だ。成立から間もない22年11月、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は米連邦議員らを前に、インフレ抑制法はとりわけヨーロッパの企業に対して「極めて攻撃的だ」と不満をあらわにした。
それ以来、アメリカ政府とEUは、インフレ抑制法が米欧関係に与える影響をどう和らげるかについて協議を重ねている。
インフレ抑制法をめぐる話し合いは、アメリカとEUの間で貿易や産業政策、テクノロジー、中国をめぐる諸課題などの協議を密にするという流れの一つに過ぎない。皮肉なことに、こうした協議によって、米欧双方は状況が変わるか新たな解決策が現れることを期待しつつ、問題の「先送り」——歩み寄りが難しい場面で古くから使われてきた外交手法である——が容易になる。穏便な話し合いをすることで、NATO(北大西洋条約機構)諸国にとって目の前の課題であるロシアによるウクライナ侵攻に注力できるという効果もあるだろう。
しかし、こうした協議を通じて、経済における政府の役割や、現代経済のエネルギーシフトやデジタル化にどう対処するのが最善か、中国に対してどのように共同で対抗するかについて、新たな合意を形成できるかもしれない。
アメリカとEUの最近の協議で最も際立つものは、貿易技術評議会(TTC)だ。……

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