DNA鑑定で見えてきた「女性」「子供」の沖縄戦

執筆者:浜田律子
執筆者:浜田哲二
2023年8月15日
タグ: 日本
エリア: アジア
戦没した姉・文さんを指さす武村豊さん。文さんの向かって右側に写るのが母・カメさんと豊さん (C)浜田哲二
78年前の沖縄戦では、日米両軍の兵士だけでなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれて命を落とした。この度、糸満市内の旧日本軍陣地壕から発掘された遺骨の中に、民間人と思しき骨が複数含まれていることが判明。その身元を特定するため、戦没者遺族らにDNA鑑定を呼びかける活動の中で、沖縄の女性や子供たちが経験した凄惨な地上戦の実態が浮かび上がる。

 沖縄の組織的な戦闘が終結したとされる6月23日、糸満市にある白梅学徒隊の慰霊碑(白梅之塔)の前で手を合わせる。どこからともなく聞こえる三線の音色。それに合わせて、もの悲しい女性の歌声が、終戦から78年の夏空に響き渡った。

月桃ゆれて
花咲けば
夏のたよりは 南風
緑は萌える
うりずんの
ふるさとの夏――
(「月桃」 作詞、作曲・海勢頭豊さん)

 私たちは、夫が元朝日新聞カメラマンで、妻が元読売新聞記者のジャーナリスト夫婦。沖縄で20年以上に亘って、ボランティアで戦没者の遺骨収集を続けている。戦後60年の少し前から交流を続けてきた元白梅学徒隊の中山きくさんが今年1月、永眠された。享年94。その御霊(みたま)に手を合わせ、お別れをするために夏の沖縄を訪ねたのだ。

旧日本軍の陣地壕で女性と子供の遺骨を発掘

在りし日の中山きくさん=2020年3月、糸満市の白梅之塔で (C)浜田哲二

 きくさんは、沖縄戦で看護助手として従軍した女子学徒の生き残り。白梅とは、沖縄守備軍の第24師団第一野戦病院に配属された沖縄県立第二高等女学校の4年生らで編成された隊の通称名。56名の女子学徒が激しい戦火の坩堝に放り込まれ、勤務中の病院や解散後の逃避行中、「鉄の雨」と呼ばれるほどの爆撃・銃撃に晒されるなどして22名が戦死している。

 慰霊碑の前で一緒に手を合わせたのは、琉球ガラスの職人になるため、今年6月から修行のために沖縄へ移住した斉藤桃子(25)(以後・桃ちゃん)。私たち夫婦と10年近く活動を共にする青森県出身のボランティア・メンバーだ。生前に何度か交流し、その都度、手を握り合って別れを惜しんだきくさんに想いを馳せて、黙祷(もくとう)を捧げている。

 その時、同級生の武村豊(とよ)さん(94)が、慰霊祭に出席するため、到着した。仲良しだったきくさんを亡くして、少しやつれたように見え、杖をつく足元もおぼつかない。ただ、コロナ禍で面会ができなかったので、3年ぶりの再会に心が躍った。駆け寄ると、満面の笑みで迎えてくれる。

「お元気でしたか。会いたかったです」と手を握ると、温かい手でふわりと握り返す。「うん、うん。あなたたちも元気だったのね。会えて嬉しいわ」と懐かしい、豊さんの優しい微笑みが返ってきた。

 哲二が、「約束を果たしに来ましたよ」と訴えかける。

白梅学徒隊の慰霊祭に訪れた武村豊さん=2023年6月、糸満市で (C)浜田哲二

 それは4年前の3月、ボランティア・メンバーの若者たちと一緒に、生き残りの元学徒たちから凄絶な戦争体験を聞いたことが始まりだった。戦没者の遺留品を遺族へ返還した取り組みを報告すると、豊さんが自らの家族への悲痛な想いを涙ながらに語ってくれたのだ。

「看護助手に志願した私を心配して、九州へ疎開するはずだった母と姉が沖縄に残ってくれたの。でも、従軍した私が生き残り、母と姉は行方不明のまま戦死の報。悲しくて、申し訳なくて、思い出すと今も眠れない……」

 慮った哲二が、「お二人の遺骨や遺留品は見つかりましたか」と問う。

「いいえ。糸満市の南部で最後に目撃された後、消息は判らないままなの。もし、母や姉の遺留品や遺骨が見つかったら、胸に抱いて眠りたい。私が従軍しなければ、志願なんて申し出なかったら、母と姉は死なずにすんだからよ」と嗚咽が漏れた。

 辛い記憶を呼び覚ましてしまい、申し訳なく恐縮する若者たち。が、意を決するように、豊さんに申し出る。「私たちが探してみます。そして、お母さまやお姉さまに繋がるようなお骨や遺品を見つけたら、必ずお届けします」

 そして、2021年2~3月、糸満市照屋にある旧日本軍の陣地壕から、複数の戦没者の遺骨を発掘した。見つけたときは、大人6人、子供2人の計8人と数えていた。が、その後の厚労省や研究機関の調査で、遺骨は11人分あり、大人6人のうち3人が女性、残りの5人は子供で1人が少女であることが判明した。

照屋の陣地壕から発掘した遺骨。男女とDNA抽出の有無を記入=糸満市で (C)浜田哲二
 

目の前で次々と倒れて行った学友たち

 当時、本土から女性や子供が沖縄で従軍したという記録などは見たことがない。ゆえに、女性と子供の計8人の遺骨は、沖縄出身の民間人である公算が高い。そして、この女性の内の2人が、豊さんの母と姉である可能性も捨てきれないのだ。今回、夏の沖縄を訪ねたもうひとつの目的は、遺骨と一緒に出土した遺留品を豊さんに見てもらうのと、DNA鑑定を勧めるためでもある。

 現在、沖縄戦で見つかった遺骨で遺族とDNAが一致したのは6例だけで、すべてが本土出身の日本兵。およそ12万2000人が亡くなった沖縄出身者の遺骨と遺族のDNAが一致した例は、これまで報告されていない。私たちの悲願のひとつは、「沖縄の方の遺骨を遺族の元へ届けること」でもある。だからこそ、豊さん以外にも広く県民に知ってもらい、より多くの方に鑑定を申し出てもらいたのだ。

 国は当初、身元の手掛かりとなる遺留品や証言のある物に限ってDNA鑑定を実施してきた。が、2016年度から段階的に対象を拡大し、今は遺族の申請があれば受け付けている。この結果、昨年度までの6年間に鑑定した約600例のうち46例が女性であることが判った。そして2例が今回、照屋から出土した遺骨で、1例は子供だった。女性と子供のDNAが同時に抽出されたのは今回が初めてだという。

 慰霊祭の前、豊さんに鑑定申請書を記入してもらった。母や姉の氏名と続柄、年齢を書き込むときに、ふとペンが止まる。「何も知らなかった軍国少女の私が、行きたい、行きたいと駄々をこねたからなの……」。手で顔を覆ってしまった。三線をつま弾く女性たちの歌が続いている。

月桃 白い
花のかんざし
村のはずれの 石垣に
手に取る人も
今はいない
ふるさとの夏――
母や姉、学友らを思い浮かべ顔を覆ってしまった武村豊さん=2023年6月、糸満市で (C)浜田哲二

 往時の女の子たちが、かんざし代わりにと髪へ飾り合った白い月桃の花。歌のフレーズから、姉や親友との日々が脳裏をよぎり、家族を失った後悔や同級生と逃げ惑った戦場での凄惨な体験を思い起こしたのかもしれない。そんな母をいたわるように長男・盛智さん(73)がペンを取り代筆、検体の提供者にもなってくれた。

 戦場での豊さんは、1945年3月下旬、南部の要衝、八重瀬岳の中腹にある第24師団第一野戦病院に配属される。持ち場は、通称・手術場壕。重症患者の手足の切断や、体に入った銃弾や砲弾の破片などを摘出する外科手術が行われた。

 簡単な看護教育の後、現場に派遣された豊さん。その任務は、暗い洞窟内で、手術する軍医の手元をローソクの明かりで照らすこと。さらに、切り取った患者の手足を、落下する砲弾を掻い潜るように壕の外へ捨てに行くのが、主な役割だった。

 手術のない時は、負傷兵の包帯交換や糞尿の処理、食事介助、水汲みなどの雑用に追われ、日本軍の劣勢が極まる戦場で、24時間態勢を強いられていた。そんな中、6月4日に「解散命令」が出される。

 米軍の進撃を止めきれず、病院壕を閉鎖するので、女子学徒は自由にしなさい、との下達。「でも、誰を頼って、どこに行けばよいのか、戸惑うばかりでした」と豊さん。追われるように壕を出て、砲弾の飛び交う南部の激戦地を彷徨い、学友が目の前で次々と倒れていったという。

「榴散弾が頭上で弾けて、パアッと降り注いだの。次の瞬間、やられた、痛い、足がもげた、と皆が口々に叫ぶのよ。中でもお腹にあたった友達は重篤で……。結局、助からなかったわ」と絞り出すような声で語る。

「賄い」として従軍している間に、両親と姉が死亡

 豊さんから託された鑑定申請書は母と姉の分の2枚。盛智さんが記入しているときも、戦場で亡くした同級生の想い出話は尽きない。その背後で、何度も何度も繰り返される、女性らの月桃の歌。

摩文仁の丘の
祈りの歌に
夏の真昼は 青い空
誓いの言葉
今も新たな
ふるさとの夏――

 桃ちゃんが、「胸に迫ってくる歌ですね」と呟く。4年前から遺骨収集に参加するようになり、その想いが募ったのか、今春から沖縄で働くと決意した。琉球ガラスの技術を学び、職人となって食器やアクセサリーを制作する作家を夢みている。それと同時に、戦没者を慰霊し、遺族に寄り添う活動も継続したいという。

「この時期に、沖縄へ来るのは初めて。北国で生まれ育った身には、体験した事のない日差しと蒸し暑さに参りました。でも、私たちがご奉仕する方々はこの中で戦い、亡くなられたのですね」と額の汗を拭う。

 そして、「今の私よりも若い女子学徒たちが、戦火を掻い潜って生き延び、命を紡いで下さったことに胸打たれています。二度と戦争が起こらない平和の世が続きますように」と祈りながら、白梅之塔を見上げた。

白梅の慰霊祭が始まる前に手を合わせる筆者と桃ちゃん(右)=糸満市で (C)浜田哲二
 

 女子学徒隊と同じように日本軍に従軍している間、親兄弟を亡くした女性がいる。第24師団歩兵第32連隊第一大隊で「賄い」をしていた糸満市の玉城朝子さん(享年96)。兵士らの後方支援をする役割で、食事の準備を手伝ったり、物資や弾薬を運搬したりする仕事をしていた。

 敗色が濃厚な戦況ゆえか、所属していた中隊の隊長や下士官から、「危険だから戦いの最中は壕から出てはいけない。備蓄してある食料も食べていいので、戦争が終わるまで隠れていなさい」と諭されたという。だが、その隊の兵士は9割が戦死。賄いさんの中にも、壕内での酸欠や食料の運搬中に命を落とした女性もいた。

 朝子さんは中隊長らの教えを守って生き延びるが、終戦後に家族を探したところ、両親と姉が糸満市近郊で相次いで死亡したと聞かされた。避難民があふれ、軍民が入り乱れる戦場で、父・亀さん、母ウシさんが被弾。姉の文子さんは、妹の手をひいたまま、頭部に直撃弾を浴びて即死したそうだ。

DNA鑑定の前に立ちはだかる「門中墓」のしきたり

 私たちの働きかけに応じ、一旦はDNA鑑定申請書に記入した朝子さんだが、その場に立ち会った姪の玉城陽子さん(74)には、「私の検体は、もう提供しなくてもいいかな……」と躊躇いを見せていたという。

 その後、介護施設でコロナに感染し、昨年末に逝去した。申請は、陽子さんが引き継いだが、「大切な家族だった筈なのに、叔母がなぜ迷っていたのか、その心情をはかりかねています」と首を傾げる。

険しい顔つきで当時のことを証言する生前の玉城朝子さん=糸満市で (C)浜田哲二

 地獄のような戦場から生還した後も、戦後の混乱期を生き抜いた朝子さん。市場で魚を売りながら生計を立て、生涯独身を貫いた。米軍統治下の琉球列島国民政府に、サンマの関税をめぐって敢然と裁判で挑んだ魚屋のおばあ・玉城ウシさんと、店を並べていたこともあったという。

 今回、女性と子供の遺骨からDNAが抽出されたというニュースは、地元のテレビ局や新聞社が報道してくれた。それを見た遺族から、10件近い問い合わせが。ほとんどが団塊に近い世代の息子からの相談であったが、当事者である母親たちの意思を確認すると、ことごとく断られた。

 亡くなった朝子さんを含め、沖縄の高齢女性はなぜDNA鑑定に消極的なのか。首を傾げていたら、元白梅学徒の武村豊さんが、母と姉の遺骨を受け取った後の悩みを、いみじくも語ってくれた。帰ってきたお骨をどの家系の墓に入れるのか、が難題であるという。それは、沖縄の埋葬の風習で、父系の血を引いた者が入れる「門中墓」などのしきたりが色濃く影響しているそうだ。

沖縄国際大の石原昌家名誉教授 (C)浜田哲二

 一般的な例では、ほとんどの女性が嫁ぎ先の夫の墓に入る。ただ、生涯独身だったり、早逝したりすると、女性の父系の門中墓が埋葬先になる。その場合、嫁に出ている立場で齢を重ね、墓を管理する二世代も三世代も年下の親類に、「78年前に戦没した肉親の遺骨を受け入れてほしい」と今さらお願いするのも気が引ける、と困惑する方が多いそうだ。

 確かに本土の遺族にも、子供や孫に引き継げない、と遺留品の受け取りを躊躇する女性はいた。それでも、沖縄ほどは難しくなかった。なんとかDNA鑑定を申請する沖縄県民を増やすことができないか。壁につきあたってしまったので、沖縄国際大学の石原昌家名誉教授に相談してみた。

「うーん、それは難しい問題かもしれないね……」と首を捻る。が、思い直すように、「あなた方が探しているのは、糸満の照屋地区で戦没した民間人の遺族でしたね。過去に聞き取りをした女性の中に、照屋で直撃弾を受けて子供を亡くした方がいましたよ」と教えてくれた。凄い情報。早速、石原教授から示された資料を繙いてみる。

4歳と2歳の子供が砲弾を受け即死、母は半狂乱に

 那覇市首里大名町の松本チヨさん。(当時27歳)。その証言によると、沖縄戦末期の6月11日、家族で首里から南部へ疎開する途中、糸満市照屋の集落で米軍の放った砲弾が直撃。長女・和子さん(享年4)と長男・實章さん(享年2)を亡くした。別行動だった義父・實順さん(享年61)と義妹の美代さん(享年26)も、同じ地区で戦没している。

 お腹の中に3人目の子を宿していたチヨさん。激しい戦火を掻い潜っての逃避行だったので、全身が汚れて気持ちが悪く、地区にある泉で水浴びをしていた。その時、夫と子供たちが隠れていた空き家に砲弾が命中し、長女は背中に、長男は頭に致命傷を負って即死の状態だった。近くにいた夫は軽傷ですんだ。

 チヨさんは、「どうして死んでしまったの……」と、最愛の子供を失って半狂乱。その後、夫と物置小屋で隠れているところを米軍に見つかり、捕虜となった。収容先でも、抱き上げた二人の幼子から流れ出た血と硝煙の匂いが鼻にこびり付き、亡くした子供たちを追って死ぬことばかりを考えていたという。

 だが、8月15日の終戦の日、本島北部の収容所で次男・實盛さんを出産。新たな子供への愛しさが募ってきた途端、死にたいとの願望が生きる希望へ。そして、亡くした子供たちが極楽浄土へ行けるように祈ると、鼻についた匂いも消えてしまったという。

 チヨさんは戦後、4人の子宝に恵まれ、87歳で逝去。首里大名町の自治会長を務める三男・實秀さん(67)は、「姉と兄の命日には毎年、母と一緒に『魂魄之塔』で祈りを捧げました。母の証言では、遺骨は父が持ち返ったとされていますが、半狂乱だった母を安心させるための方便だったのかもしれない。でないと、身元不明の遺骨が納められている塔へ、通い続ける訳がありません」と話す。

 そして、照屋で発見された女性と子供の遺骨とのDNA鑑定に応じることになった。そのうえで、「沖縄戦での首里大名町出身の戦没者は約300人。そのうち100人以上が糸満市内で亡くなっています。地区の皆さんの先鞭をつけるためにも、まず私が申請したい。その結果、姉や兄の遺骨が帰ってくることになれば、天国の父母が飛び上がって喜ぶでしょう」と期待を込める。

松本チヨさん(手前左から二人目)の家族写真。手前右から二人目が夫・實英さん。右端が次男・實盛さん、後方中央は三男・實秀さん (C)浜田哲二
 

 糸満市照屋で2年前に発掘した戦没者の遺骨は、成人男性2人、成人女性3人、男女不詳1人、子供5人。その中の成人男女1人ずつの大腿骨からDNAが抽出され、子供は女児1人の上腕骨から抽出されている。また、2020年に国吉で見つけた遺骨は、成人男性であることが判り、歯からDNAが抽出された。

 首里大名町の100周年記念誌によると、糸満市国吉で8人、照屋で18人の住民が戦没している。これを受けて、松本自治会長は、地区の該当する人々へDNA鑑定を呼びかけ、希望者を募る予定だ。住民を招集する日程が決まれば、鑑定申請書の記入を手伝ったり、出土した遺留品を見てもらったりするために、私たちも参加したいと考えている。

遺族探し、鑑定申請について連絡を

 鑑定適応に繋がる有力な手掛かりが出てきた折、連絡が途絶えていたある遺族からも、「鑑定申請をしたい」との申し出があった。「コロナに感染して身動きが取れなかった。申し訳ない」とのこと。諦めかけていたタイミングでの、嬉しい一報だった。

DNA鑑定申請書に記入する敏也さんと良子さん=沖縄市で (C)浜田哲二

 佐次田敏也さん(62)。沖縄市に住む母・良子さん(88)の戦没した兄の遺骨を探したいという。「石部隊(第62師団)にいた、ということしかわかりません。帰ってこない兄を想い、親はずっと悲しんでいた。DNAが一致したら、お兄さん、お帰りなさいと声を掛けたい」と良子さんは目尻を拭った。

 これまで本土の遺族を中心に寄り添ってきたが、今後は沖縄の遺族への奉仕活動にも力を注ぎたい、と決意を新たにしている。昨年末から糸満市喜屋武地区に拠点を設け、これまでは年間約2カ月間、春先だけだった沖縄滞在期間を、6カ月間に延長することにした。短期間では、現場での発掘作業と遺族を訪ねる取り組みを両立できないからだ。

 現役の記者時代は、何度も取材した夏の沖縄。でも、地面を掘るには暑すぎるのに加え、毒蛇が心配で、退職後は10年以上、夏には訪れていなかった。当初は日差しの強さと蒸し暑さ、DNA鑑定を断られる案件が重なり、体力、気力共にがっくりと落ち込んだ。しかし、石原教授や報道関係者らの助けもあり、有力な情報が次々と飛び込んできた。今回、抽出された4人分のDNA鑑定も、年内にも結果が出るかもしれない。

 夫婦共に人生の終盤を迎え、生ある限り、この活動に身を捧げたいと誓い合っている。

海はまぶしい
喜屋武の岬に
寄せくる波は
変わらねど
変わる果てない
浮世の情け
ふるさとの夏――

 遺骨収集や遺族探し、DNA鑑定申請の関連で、私たちにお手伝いできることがあれば、連絡をお待ちしています。

 問い合わせ先(浜田:090-1080-0758)

 

カテゴリ: 社会 カルチャー
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
浜田律子(はまだりつこ) 元読売新聞記者。1964年生まれ 奈良女子大学理学部生物学科・修士課程修了。
執筆者プロフィール
浜田哲二(はまだてつじ) 元朝日新聞カメラマン。1962年生まれ。2010年に退職後、青森県の白神山地の麓にある深浦町へ移住し、フリーランスで活動中。沖縄県で20年以上、遺骨収集を続けている。日本写真家協会(JPS)会員。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top