【前回まで】衝突事故を起こした台湾海軍の潜水艦を「保護」したのは中国軍だった。開戦さえ案じられる危機に際して、日米の連携は拙く、防衛大臣は暴走し、官邸は沈黙していた。
Episode4 カナリア
10
久しぶりに「あの夢」を見た。
全身が汗だくだ。周防は、妻を起こさぬようにベッドから抜け出て着替えた。
夢の舞台は東京大空襲だ。もちろん周防自身は知らないが、祖父から聞いた話が強烈すぎたのだ。祖父は、戦時中、都内で国民学校初等科の教諭をしていた。
そして、1945年3月10日、東京大空襲に遭遇、爆撃を避けようと小学校に集まった学童たちと共に恐怖の一夜を体験した。
戦後、故郷の北海道富良野に戻った祖父は、周防ら孫たちが夏休みに遊びに行くたびに、その日の話をした。
目の前で人の背中に焼夷弾が刺さるのを見た話や、衣服が燃えて火ダルマになり、川に飛び込んだ子どもの話などは、怪談話より何倍も怖かった。
祖父は、焼夷弾の火を「劫火[ごうか]」と呼んだ。
幼い頃は意味が分からなかったが、小学校の高学年になり辞書で引いて、その言葉が仏教用語で、「世界が崩れ去る時に起きる全世界を焼き尽くすという猛火」を指すと知った。
随分長い間、見なかったのに、どうして急に……。
きっと昨日読んだ資料のせいだ。
来年度予算査定も終わって時間的余裕ができたため、暇を見つけては、桃地家に通うようになった。
そして、桃地のことを、もっと知ろうと、彼の日記を読み始めた。
桃地は、戦争末期に学徒出陣し、特別操縦見習士官として鹿児島県知覧で操縦士の訓練を受け、特攻隊員になっている。
あと数日終戦が遅ければ、米軍の艦船めがけて体当たりして果てたかも知れない――という桃地の「特攻体験」は、その後の彼の人生、そして作家活動に大きな影響を与えた。
桃地の大ファンである周防は、その経歴は知っていたが、桃地が戦時中に抱いた戦争への疑問、理不尽さ、そして、恐怖にまでは、日記を読むまで深く思いを馳せることはなかった。
また、日記には、繰り返しこう綴られている。
“戦争を軍人や天皇陛下の責任だと糾弾するのは、卑怯だ。あれは、日本人全員が望んだのだ。思い上がった日本人が、鉄の精神力があれば、鬼畜米英を斃せると信じ、政治家や軍人を煽ったのだ”
その激しい怒りと自責こそが、桃地の作家活動を支える揺るぎない動機だったのだ。
同時に、国家の安全保障という問題に初めて直面している周防自身に、桃地の言葉が、重く響いた。
そこで今度は、日本が第二次世界大戦へと雪崩れ込んでいく歴史を、一から勉強しようと考えた。
その過程で、何度も、祖父の「劫火」の話が甦ってきた。
だからあんな夢を見てしまったのだろう。
パジャマのポケットに押し込んでいたスマホが振動した。
主計官の松平からメッセージが入っていた。
“対馬沖の一件で、急ぎ対応を迫られた。可能なら、午前7時に出勤してほしい”
そうだった。昨夜、対馬沖で大変な事故が起きていたんだ。……
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