日本人が知るべき大谷翔平の先駆者――有色人種が初めてメジャーの舞台に立った日

執筆者:林壮一 2023年11月12日
タグ: アメリカ
エリア: 北米
年一度の「ジャッキー・ロビンソンデー」に、背番号42を付けて試合に臨む大谷翔平選手(右端)ら[2022年4月15日=アメリカ・アーリントン](C)時事
大谷翔平の活躍に胸を躍らせる日本人は多い。だが、19世紀から続くメジャーリーグにおいて、日本人を含む有色人種がプレーできるようになったのは第二次世界大戦後のことだ。最初に「白人専用リーグ」の壁を破ったのは、野球の実力もさることながら、「いかなる屈辱にも耐えられる」精神的な強さを評価された、南部出身の1人の黒人選手だった。

 FA権を得た大谷翔平の去就に注目が集まっている。日本球界の至宝は6シーズン、メジャーでプレーしているが、まだプレーオフ進出を果たせていない。20代最後となる来季は、ポストシーズンで快音を響かせる大谷を目にしたいと願うのは、日米ファンの共通した思いであろう。

 押しも押されもせぬ2023年のホームラン王に触手を伸ばす球団は、いくらでもありそうだ。右肘内側側副靭帯損傷により、来季は二刀流を諦め、打者に専念することとなるが、是が非でも、これまでより上のステージでプレーすべきだ。ワールドシリーズの舞台で、心行くまで、ベースボールを楽しんでほしい。

 さて、大谷の活躍、そして彼の成績に一喜一憂する日本人の姿を見る度に、筆者が思い起こすのはメジャー全30球団で永久欠番となっている背番号42である。1947年、ロサンゼルス・ドジャースの前身、ブルックリン・ドジャースにメジャーリーグ史上初となる有色人種が登録された。その彼――ジャッキー・ロビンソンが付けていたのが、42番だった。

 今日、大谷翔平がメジャーリーガーとして富を得、世界最高峰のベースボールを体感できるのは、ロビンソンが人種の壁を破ったからこそである。黄色い肌を持つ我々ジャパニーズは、米国において“カラード(有色人種)”と括られ、少なからず差別の目を向けられる。筆者は1996年から13年半、アメリカ合衆国ネバダ州で生活し、現在も1年の3分の1ほどをカリフォルニア州サンディエゴで過ごしているが、白人との間にはどうしても越えられない壁があることを実感させられる。

オリンピック銀メダリストでさえ清掃夫に

 ジャッキー・ロビンソンは、1919年1月31日にジョージア州カイロで誕生した。所謂ディープサウス(深南部)と呼ばれる州の一つだ。かつて、白人が経営する広大な綿花畑で黒人たちは奴隷として使われた。ディープサウスは南北戦争後も、白人至上主義が蔓延るエリアである。

 ロビンソンは、兄3人、姉1人に次ぐ末っ子だった。両親はご多分に漏れず、プランテーションでの労働を強いられた。

 ロビンソンの父親は、母親以外の女性と深い関係になっては、しばしば家を空けた。そして、愛人との時間を終えると何食わぬ顔で我が家に戻った。母親のマリーは、ロビンソンが1歳の時、そんな夫に別れを告げ、カリフォルニア州パサディナに移り住む。週給8ドルのメイドの職を見付け、白人家庭で懸命に働いた。以後、20年間メイドとして働きながら、5人の子供を育て上げた。

 多くの黒人家庭がそうであったように、ロビンソン家も貧しかった。マリーが勤務先から食べ残しを持ち帰れない日は、家族全員が何も口に出来なかった。

 ロビンソンは三兄のマックに憧れて成長した。マックは、1936年に開催されたベルリン五輪の200メートル走で銀メダルを獲得している。末弟は、その姿に胸を躍らせた。

 だが、故郷に凱旋した兄を温かく迎えたのは、血縁者のみだった。メダリストとはいえ、マックは「単なる黒人」としか扱われず、就職先がなかなか見付からなかった。何とかあり付いた職は、夜間清掃夫だった。手押し車と箒を手にしたマックは、アメリカ代表選手が五輪で着用した星条旗の入ったジャケットを着て働いた。初めて兄のジャケットを目にした際、ロビンソンは「なんて格好いいのだろう」と仰ぎ見たものだが、五輪後、そのジャケットの輝きはすっかり失せてしまっていた。

 そんな末弟も、マックに負けず劣らずスポーツを愛した。パサディナのジュニアカレッジに進学すると、(アメリカン)フットボール、バスケットボール、ベースボールで頭角を現した。

 ジュニアカレッジ在籍時、ロビンソンはMLBのシカゴ・ホワイトソックスと練習試合をする機会に恵まれる。プロ選手を相手にしても、堂々とヒットを放ち、盗塁を決めた。その活躍を見たホワイトソックスのマネージャーはこう呟いた。

「彼が白人だったら、この場で契約するのに。私個人としては、黒人選手がホワイトソックスに入団するのは歓迎だ。他の15球団(当時のMLBは16チームしかなかった)だって、同じように感じているはずだ」

 ジュニアカレッジ卒業後に編入した名門UCLA(カリフォルニア州大学ロサンゼルス校)で、ロビンソンは、陸上競技を加えた4種目の有望選手として名を馳せていく。

 フットボールではクォーターバック、バスケットボールではフォワード、ベースボールではリードオフのショート・ストップとして、また陸上競技では走り幅跳びの選手として歓声を浴びた。

 ロビンソンはUCLAで目立った成績を残せば、いずれかの競技でプロとしてやっていけるのではないか、と淡い期待を抱いていた。しかし、4年6カ月年長である兄のマック同様、道は開かれなかった。ロビンソンはUCLAを中退し、太平洋戦争を戦っていた米国陸軍に入隊する。軍隊での黒人兵士の扱われ方は、人権など無いも同然だった。

 当時について、ロビンソンは次のように振り返っている。

「マイノリティーの軍人たちは、白人によって肉体的、精神的に追い詰められた。我々は軍人ではなく、単なる陸軍のユニフォームを着た奴隷としか見なされなかった。屈辱だけの日々に、どれだけ黒人兵が苦しめられたことか」

 毎日どこかの基地で、白人からの虐待を受けたマイノリティー兵士の負傷者が出ていた。ノースカロライナ州では、バス運転士に殺害された黒人兵もいた。

非白人第1号の条件は「いかなる屈辱にも耐えられる男」

 ロビンソンは除隊後、プロのベースボールプレーヤーとなる道を選択する。メジャーリーグ入りは許されなかったが、カラードの為の「ニグロリーグ」が存在した。月に400ドルの契約で、カンザスシティー・モナークスの一員となる。

 が、程無くロビンソンの自信は粉々に打ち砕かれる。シカゴ・ホワイトソックスに認められた技量が、ニグロリーグでは通用しないのだ。ロビンソンは“並 ”の選手と評価された。ニグロリーグの先輩選手からは「UCLAのスターだか何だか知らないが、ここで人気選手にはなれっこない」「奴じゃショートは無理だ」「肩が弱い」等と酷評された。ニグロリーグは、MLBより数段上のレベルだったのである。

 イチローこと鈴木一朗がMLB選手となった2001年、筆者は黒人として初めてMLBでコーチを務めたバック・オニールをインタビューしたことがある。オニールは、カンザスシティー・モナークスの元選手・監督として16年ユニフォームを着ていた人物である。

 彼に黒人初のメジャーリーガーについて訊ねると、次のように答えた。

「ジャッキーはニグロリーグにおいて、特に目立った選手ではなかった。悪くも無かったがね。まぁ、アベレージ(平均)だよ。では、何故、我々が彼をメジャーの世界に送ったか? 理由は一つさ。どんなに酷い仕打ちをされても耐えられる男だったから。

 私たちが誇りに感じたのは、白人のファンが、ニグロリーグの試合場に足を運んでくれたことなんだ。すべての土地でではなかったが、ベースボールファンが求めるものがあったんだろうね」

 オニールとロビンソンはそれぞれモナークスに在籍しているが、同時期ではない。

「ジャッキーはワンシーズンだけモナークスの選手だったが、私はその時、兵士として第二次世界大戦に参加していたから、個人的な付き合いは無いんだ。彼がメジャー入りするってニュースを耳にしたのも、海軍に勤務している最中だった。やっと時が来たって感じたね。

 可能なら私もメジャーでプレーしてみたかった。でも、既に36歳で年を取り過ぎていた。ジャッキーの活躍は実に嬉しいものだったよ。ニグロリーグにはもっと力のある選手が沢山いたから、我々が認められたように感じた」

 モナークス時代のロビンソンに目を留めたのがブルックリン・ドジャースの会長、ブランチ・リッキーだった。リッキーはドジャースを勝たせるために、黒人プレイヤーを加入させるべきだと考えており、かつ、ボールパークにおける人種隔離に異を唱えていた。誰もがベースボール・フィールドで白いボールを追える日が来ることを願っていたのだ。

 リッキーもまた、カラード第1号を迎え入れる条件に「ホワイト社会から、いかなる屈辱を味わわされても耐えられる男」を第一条件とした。そこで白羽の矢を立てたのがロビンソンだったのである。

 リッキーは1945年8月、モナークスのルーキーで26歳だったロビンソンをスカウトし、翌シーズンからドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズの一員とする。そして、1947年にロビンソンがメジャーに昇格したことで、人種の壁は破られた。

ベースボールを選ぶ黒人は現代でも少数派

 ロビンソンがブルックリン・ドジャースでデビューした11週間後、クリーブランド・インディアンズ(現クリーブランド・ガーディアンズ)にもラリー・ドビーという名の黒人選手が入団する。ドビーの登場によって、ナショナルリーグ、アメリカンリーグ共に、カラード選手を受け入れたこととなった。

 ニグロリーグで光るものの無かったロビンソンだが、メジャーでは1年目から旋風を巻き起こし、リードオフとして151試合に出場。ドジャース6年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献する。この年を含めて10シーズンを送り、生涯打率3割1分1厘、首位打者1回、MVP1回、盗塁王2回の記録を残す。ワールドシリーズには、6度出場した。

「有色人種と一緒にプレーするのはゴメンだ」「カラードのいるチームとの対戦はボイコットする」などと主張されたこともあったが、その度にバット1本で雑音を封じ込めた。

 アメリカ生まれで、アメリカ国籍を持つ筆者の息子(20)が、高校生だった頃、こんな風に漏らしたことがある。

「僕が所属するサッカー部にはヒスパニック系が多い。大学スポーツの華で進学に最も有利なフットボール部やバスケットボール部はブラック、ベースボール部はホワイト、テニス部はアジア系という感じで、人種によって選択する競技が分かれる傾向にある」

 おしなべて身体能力が高い米国のブラックアスリートは、今日、ベースボールをあまり選ばない。MLBにおける黒人選手の比率は2023年現在でも、わずか6.2%に過ぎない。この流れは、彼らが幼少期から感じる人種の壁と無関係ではないだろう。

 それでも、大谷翔平がアメリカのベースボール界で成功を収められたのは、ジャッキー・ロビンソンという先駆者の存在があったからだ。MLBを観戦する際、我々日本人はその事実を決して忘れてはならない。

カテゴリ: スポーツ 社会
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執筆者プロフィール
林壮一(はやしそういち) 1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経てノンフィクション作家に。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。東京大学大学院情報学環教育部にてジャーナリズムを学び、2014年修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(以上、光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(以上、講談社)など。
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