
資源エネルギー価格の高騰から始まった物価高が2年近く続くなかで、日本銀行が異次元緩和からの出口戦略にもたついている。金融政策の課題を熟知する学者出身の植田和男氏(72)が総裁に就任し、ようやく出口へと向かう条件が整ったかと思われていたのだが、その植田日銀が政策の微修正はしつつも、なぜかいまだに異次元緩和を続けているのだ。
プロ感覚でも慎重すぎる植田日銀
今春、黒田東彦総裁(79)が退任し、植田総裁が跡を引き継いだ。10年にわたって修正に修正を重ねた異形の金融政策。保有国債580兆円という「負の遺産」とともに、それがそっくりそのまま植田日銀に引き継がれたわけだ。
日銀が巨額の国債を買い取り、大量のマネーを市場に供給することで2年以内に2%インフレ目標を達成。物価上昇と賃金上昇の好循環経済をつくる――。安倍政権と黒田日銀が描いたそんなシナリオはとうに破綻した。巨額のコストをかけておこなわれたこの社会実験は、完全に失敗に終わったのである。ところが黒田日銀はその後も異次元緩和を手じまいすることなく、ずるずると10年にわたって緩和マネーを垂れ流してきた。植田日銀に課された使命は、その異次元緩和を一刻も早く終結させ、日銀の金融政策を正常化させることだ。
その文脈で言えば、植田総裁にとって初回の金融政策決定会合(年8回開催、メンバーは総裁以下9人)となった4月に、少なくとも問題山積のイールドカーブ・コントロール(YCC=長短金利操作)は廃止するだろうと市場関係者の多くが見ていた。
だがそうではなかった。
YCCは、量的緩和やマイナス金利政策の失敗を取り繕うためにたどりついた、異形の政策体系である。その眼目は中央銀行にとってはタブーとされてきた長期金利コントロールに踏み出したことだ。
3年物金利のコントロールを実施した豪州の中央銀行、オーストラリア準備銀行(RBA)は債券市場の混乱を招き1年半ほどでその政策から撤退した。その後も国会で政策の失敗を責められ続け、RBA総裁は何度も陳謝せざるをえない状況に追い込まれている。米国の中央銀行、FRB(連邦準備制度理事会)も第2次世界大戦時に政府の資金調達コストを安定させるために同様の金融政策を実施したことがある。ただその後は禁断の政策として扱ってきた。コロナ危機発生後、改めて導入の是非を検討したこともあるが、「極めて大規模な政府債務の買い入れを迫られる潜在的な可能性がある」「金融政策の目標が政府の債務管理の目標に抵触し、中央銀行の独立性が脅かされかねない」などの理由で採用していない。いま世界の中央銀行でこの政策を採用しているのは日銀だけだ。
YCCについては植田総裁自身もかつて批判的だった。まだ学者だった昨年7月、日本経済新聞の「経済教室」への寄稿で「難しいのは、長期金利コントロールは微調整に向かない仕組みだという点である。金利上限を小幅に引き上げれば、次の引き上げが予想されて一段と大量の国債売りを招く可能性がある」と書いている。
ところが、世界的な長期金利の上昇圧力に対し対応を迫られるなかで、植田日銀はYCCでの上限金利を引き上げるという「微調整」の政策変更を7月、10月と2回の金融政策決定会合でおこなった。植田総裁が「向かない仕組み」と言っていた政策対応をそのままやってしまったのだ。
私は7月の決定会合後の記者会見でその点を植田総裁に問うた。「学者時代に言っていたことと明らかに矛盾するのではないか?」と。すると植田総裁は「微調整するのは容易でない仕組みというのは昔から思っているし、今でも思っている」と認めつつ、「インフレ見通しが上がった後で微調整すると投機を呼び込んでしまう。そういうことが起こる少し手前で対応の余地を広げる手を打たせてもらった。うまくいくかどうかは結果次第」と述べた。苦しい説明だった。どう言い繕おうと、本人がダメ出しをしていた「微調整」をしたのだ。
このタイミングでのYCC全廃はありえないのか。そんな疑問を少なからぬ日銀関係者たちにぶつけてみた。すると一様に「植田総裁の正常化への歩みの遅さは意外だった」と言う。彼らも植田総裁の初回決定会合である4月、もしくは遅くとも次の6月にはYCCが廃止されるのではないかと見ていたのである。
プロたちにも解せないほど植田総裁が慎重姿勢に変わってしまったのはなぜか。影響を与えた誰かがいるとすれば、それは内田副総裁のほかには考えられない。
「究極のテクノクラート」の真骨頂
内田氏は若い頃から日銀のなかのエリート部局である企画局のエースだった。……

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