英国スターマー政権「5つの使命」と立ちはだかる財政規律の制約

執筆者:今井貴子 2024年8月19日
タグ: イギリス
エリア: ヨーロッパ
スターマー新政権は、議会で盤石の基盤を得た一方、自党への明確な批判にもさらされている[英国のキア・スターマー新首相、2024年8月6日](C)EPA=時事
英国で14年ぶりに政権交代を果たした労働党だが、財政上の厳しい制約、7月末以降英国各地で勃発した反移民感情による暴力行動によって「ハネムーン」ムードは早々に吹き飛んだかにみえる。スターマー政権は「使命に邁進する政府」と自己規定し、具体的な政策として経済の安定と成長、国境警備と治安の強化など5つの柱を掲げた。だが、公的部門の政府純債務が対GDP比99%超、リーマンショック以来続く平均経済成長率が1%台という状況下、首相自身が「即効性のある解決策はない」と認めるように、厳しい財政規律に手足を縛られることとなる。閣僚経験者や専門家を結集し、近年の政権交代のなかで最も堅実な布陣と目されるスターマー政権は、制約の中でいかに裁量を見出すのか。

 2024年7月4日に実施された庶民院(下院)総選挙の結果、早くから確実視されていたとおり、キア・スターマー率いる労働党による14年ぶりの政権交代が起きた。労働党は、歴史的惨敗を喫した前回2019年総選挙から議席をほぼ倍増させ、総議席数650の6割を占める411議席(議長席を除く)を獲得した。保守党は251もの議席を失い、野党第一党の座は守ったものの121議席に終わる大敗北であった1

 労働党と他の政党との議席差は170を超え、新政権は議会で盤石の基盤を得た。だが、労働党の得票率は33.7%にとどまり、単独政権として史上最低である。労働党が民意の力で政権に押し上げられたというよりも、保守党に対する有権者の憤りがピークに達し、19世紀以来の党史上最悪の惨敗へと逢着した選挙であった。近年の総選挙では投票者の10人に1人が特定の目的のために戦術的に投票するが、今回は5人に1人が保守党を負けさせるためにそれを行った2。その最大の受け皿になったのが、イングランド南部で保守党票を手堅く掘り起こした自由民主党であり、前回より64議席を上乗せする72議席を獲得した3。保守党は現職閣僚12名に加えて、元首相リズ・トラスら重職経験者26名が落選した。

 リシ・スナク首相は辞任演説で謝罪した。「政権が変わらなければならないとの明確な意思が示された。有権者の審判に勝るものは何もない。皆さんの怒り、失望を受け止めた」、と4。スナクは新首相に就任するスターマーへ「まっとうで公共精神に富んだ人物であり、私は尊敬する」とエールを送り、スターマーもそれに応じて首相就任演説でスナクに敬意を示した。スナクは敗者の責務を果たしたわけであるが、それは、選挙で多数派が入れ替わりうるデモクラシーが、社会を分極化させず安定的に機能するうえで必要とされる暗黙のルールである。

小党の躍進が映し出す有権者の意思

 保守党の最大の敗因とは何か。総選挙後にIpsosが実施した世論調査で回答者の半数を超える第一位に挙げられたのは、国民保健サービス(NHS:国営の医療制度)への取り組みの不足、次いで次々と噴出したスキャンダルであった5。じっさい、NHSは危機的な機能不全に陥って久しい。緊急性の高いがん患者でさえ、目標とされている2カ月以内に治療を受けられるのは64.1%にとどまり。10万人以上が適切な治療のタイミングを逸して待機しなければならない状況が続いている6。国論を二分してきた欧州連合(EU)離脱(Brexit)問題は選挙の争点にはならず、むしろEUからの完全離脱後のポピュリズム的な政治への不信と憤り、公共サービスや生活費の危機的状況が問われたといえよう。

 今回の選挙のもう一つの特徴は、二大政党の合計得票率が57.4%と戦後最低を記録し、第三党以下の政党がかつてなく躍進したことである。有権者は、自身の価値観やアイデンティティを表明するにふさわしい投票先として、二大政党以外の政党を選択肢と捉える傾向がいや増している。

 まず特筆すべきは、411万票を獲得した右翼ポピュリスト政党リフォームUKであろう(前身はナイジェル・ファラージが率いた英国独立党[UKIP]から転じたEU離脱党)。同党は、英国が「必要としているわけではない移民」の「凍結」を掲げ、移民・難民問題への対処を最重視するEU離脱支持層の票を吸収した。同党の得票率14.29%は、議会第三党・自民党を上回る。同党は100を超える選挙区で2位につけ保守党の大敗の一因となった。小選挙区制の効果で獲得議席数こそ党首ファラージの初議席を含めた5にとどまったものの、反移民感情の受け皿としての選挙レベルでの存在感は二大政党にとって脅威となりうる。

 地球気候危機、ガザ情勢をめぐっても票が動いた。緑の党は、労働党のクリーン・エネルギー・プロジェクトが総選挙前に大幅にスケールダウンしたことに対するリベラル層の批判票などを集めて、得票率を6.4%まで伸ばした。ガザ情勢への対応をめぐっては、労働党を支持してきたムスリムの有権者や若者らが、イスラエルの自衛権擁護の立場から、即時停戦を求める動議にも賛成しなかったスターマーに強い抗議の声をあげ、緑の党や独立候補へと向かった。スターマーは、パレスチナ国家承認、二国間による解決、即時停戦を求める方針をようやく打ち出したのだが、非難が収まることはなかった。

党内急進左派コービン路線と前保守党政権の否定

 かくしてスターマー新政権は、議会で盤石の基盤を得た一方、自党への明確な批判にもさらされているわけだが、どのような方向へと舵取りを行うのだろうか。新政権の輪郭は、スターマーが総選挙で約束した「変化」から読み取ることができる。彼がいう「変化」とは、二つの反面教師と新政権とをはっきり区別することを意味するからである。

 第一には、党内最左派として知られたジェレミー・コービン前党首のもとでの労働党からの決別である。スターマーは2020年4月に党首に就任すると、党を急進左派から中道へと再規定する党改革を断行した。スターマーの強権的なまでの改革姿勢は、コービンの党員資格停止とその回復の不承諾、つまり事実上の追放に端的に発現した。コービンが信条とした非核化、北大西洋条約機構(NATO)への否定的な姿勢、反緊縮にもとづく大規模な再分配は覆された。

 第二にポピュリズムを内面化したかのような前保守党政権の政治から脱却し、「国の再生」を実現することである。それは、ボリス・ジョンソン元首相のパフォーマンス優先、公約不履行、虚偽答弁、スキャンダルによる政治そのものへの信頼の失墜と、通貨と国債の急落をまねいたトラス元首相による大減税策に対する痛烈なアンチテーゼである。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
今井貴子(いまいたかこ) 成蹊大学法学部政治学科教授。専門はイギリス政治 、比較福祉政治、比較野党研究。2009年、東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士(東京大学)。​成蹊大学法学部助教、同准教授を経て、2012年より現職。2013年ケンブリッジ大学政治国際関係学部客員研究員。2014年欧州大学院ロベルト・シューマン・センター客員研究員。著書に『政権交代の政治力学ーイギリス労働党の軌跡 1994-2010 』(東京大学出版/2018年 櫻田会奨励賞)、共著に『ポピュリズムという挑戦ー岐路に立つ現代デモクラシー』 (岩波書店/2020年)、『現代政治のリーダーシップ 危機を生き抜いた8人の政治家』(岩波書店/2019年)、『教養としての政治学入門』(筑摩書房/2019年)がある。
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