
ステージを上げた核威嚇
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は2022年2月のウクライナ侵略の開始以来、さまざまな形で核使用の威嚇を繰り返してきた。それは、ウクライナによるクリミア奪還、支援国から供与された兵器のロシア領内への使用、NATO(北大西洋条約機構)加盟国部隊のウクライナへの配置、ロシア領への攻撃などさまざまな点に向けられてきた。
1945年の広島、長崎への原爆投下によって、世界が「核時代」に入って以来、核威嚇や、核使用の検討は何度となく行われてきた。朝鮮戦争、台湾海峡危機、ベトナム戦争、中ソ国境紛争、印パ紛争などの事例が思い起こされる。一方、これほど頻繁かつ執拗に核威嚇が行われるのは、新たな現象である。
ロシア「核ドクトリン改定」の二つのポイント
ロシアのこれまでの核ドクトリンは、2020年6月に公表した「核抑止分野における国家政策の指針」である。そこでは、ロシアが核兵器の使用に踏み切る条件として、①ロシアやその同盟国の領域を攻撃する弾道ミサイルの発射の情報を得た時、②ロシアやその同盟国の領域に対して敵が核兵器など大量破壊兵器を使用した時、③核戦力の報復活動に関わるロシアの政府施設・軍事施設に対して敵が干渉を行った時、④通常兵器を用いたロシアへの侵略によって国家が存立の危機に瀕した時、を列挙していた。
今度の核ドクトリンの改定は、これを拡大するものであるが、そのポイントは二点に集約される。
第一点は、非核兵器国によるロシアへの攻撃に際して、核兵器国による「参加または支援」がある場合には、両者による「共同の攻撃」と見なされ、当該核兵器国が直接にロシアを攻撃していなくても、核兵器による反撃の対象となりうるという考え方を新たに導入したことである。直接の交戦相手以外にも、核兵器を使用することがありうるという異例の内容である。
第二点は、上記④の通常兵器による攻撃に対して核兵器を使用する際のハードルを「国家が存立の危機に瀕した時」よりも下げ、「主権及び領土の一体性に対する死活的な脅威」のみで核使用に至りうるとしたことだ。ここでは、通常兵器による戦争が戦われているときに核兵器を最初に使う「先行使用(first use。先制使用や第一使用と訳されることもある)」が含意されるが、核戦略において先行使用を核ドクトリン上に位置づけるのはよほどの場合に限られるのがこれまでの事例であった。ところが、「主権及び領土の一体性に対する死活的な脅威」は、解釈の仕方にもよるが従前の「国家が存立の危機に瀕した時」よりもかなり幅広い事態を含むだろう。つまり、通常戦争が核戦争に容易に転化しかねない。
いずれの点についても、ロシア・ウクライナ戦争の勃発以来、ロシアが頻繁に発してきた核威嚇との関連で理解すべきものであろう。第一点の「共同の攻撃」条項は、核ドクトリンによる圧力の矛先をウクライナだけではなく、ロシアに脅威を与える兵器や手段によってウクライナを支援する核兵器国(米国、英国、フランス)にも向けるための変更である。第二点は、これまでロシアは核威嚇を発してきたが、必ずしも「国家が存立の危機に瀕した時」といえる状況ではなく、核威嚇と核ドクトリンとの間に乖離があったため、それを解消する意図と捉えられる。
仮に二点目の改正がなければ、一点目の「共同の攻撃」条項を発動しようとしても、「国家の存立の危機」が要件として求められることとなるので、一点目の「共同の攻撃」条項をより幅広い状況において生かすためにも、二点目が必要という関係にあると考えられる。
攻撃目的に応用された「エスカレーション抑止」戦略
こうしたロシアによる核威嚇の頻発と核ドクトリンの改正は、核を巡る状況がかつてとは大きく異なったものとなってきていることを感じさせる。かつては核兵器を最も必要としていたのは、地域的な軍事上の対立の構図において、通常戦力において劣勢な側であった。通常戦力だけで戦うと、すぐに圧倒されてしまう、そうした側が核兵器を必要としており、核ドクトリンの内容が攻撃的なものとなった。冷戦期にソ連をはじめとするワルシャワ条約機構と対峙していたNATO、印パ対立におけるパキスタンが典型である。
ところが、今、状況は変わっており、核兵器に頻繁に言及しているのは、ウクライナに対して通常戦力で大きく上回っているロシアの側である。どうしてこのような状況となっているのか。

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