
NATO東方拡大をめぐる議論において、主観の問題とは別次元で存在する混乱は、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大の歴史と、ウクライナNATO加盟問題を、同一視する議論だ。これは二つの異なる事柄を混同した錯綜した議論である。ロシアはこれまでに実際に発生したNATO東方拡大に直面していたときには、戦争を仕掛けなかった。戦争原因のレベルでロシアが問題にしているのは、あくまでもウクライナのNATO加盟の可能性である。過去のNATO東方拡大ではない。
ドンバス戦争に代表される他国領土におけるロシアの軍事介入は、直接的であれ、偽装されたものであれ、これまで基本的に旧ソ連圏でしか行われたことがない。例外は、アサド政権の要請に応じてシリア政府軍を支援してシリアで行った軍事介入と、政府軍ではないワグネル社を通じてアフリカなどで行っているロシア人の軍事作戦であろう。だがこれらはいずれも異なるパターンで行われたものだ。いずれにせよNATOとは関係がない。
トランプ大統領が「常識」として認識する不文律
ロシアは自国の「圏域」を重視する。これは「大陸系地政学理論」に特徴的な考え方であり、現代では「新ユーラシア主義」としても知られている(篠田英朗『戦争の地政学』[講談社、2023年]参照)。NATOの東方拡大は、このロシアの「圏域」を侵食するものとして、警戒される。
実際に冷戦終焉後に進められたNATO東方拡大は、ソ連の崩壊によって生まれた東欧の「力の空白」地帯を埋めるために進められた。ヘンリー・キッシンジャー氏らは、「力の空白」を放置しておくことは、ロシアが力を回復させた後に、大きな不安定をもたらす要素を放置することに等しい、と主張した。そして1990年代にNATO東方拡大を強く主張して、当時のクリントン政権の方針転換に大きな影響を与えた。
ただし、キッシンジャー氏らは、ウクライナを含めた旧ソ連圏にまでNATOを拡大させるべきだとは主張していなかった。むしろ反対する趣旨の議論をしていた。なぜならロシアと国境を接して対峙するところまでNATOを拡大させてしまっては、新たな別の不安定要素を作り出してしまい、かえって危険だと考えたからだ。「前編」で紹介した共編著において、この問題関心から、私は、キッシンジャーを、ウィリアム・ザートマン、ジョン・ミアシャイマー、ハルフォード・マッキンダーなどとあわせて、論じてみた(https://link.springer.com/book/10.1007/978-981-96-2295-5)。
旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国はNATOが吸収して「力の空白」を埋めるが、旧ソ連圏でロシアではない地域の諸国については「緩衝地帯」として位置付ける。これがキッシンジャー氏ら、本来のNATO東方拡大の主張者たちの構想の基本的な見取り図であった。
なおバルト三国が例外だと言われることもあるが、実際に他の諸国とは違う位置づけを持つ。ソ連への併合は法的に無効だったという理解が原則だ。欧米諸国は、冷戦中から、バルト三国がソ連の一部であることを認めていなかった。バルト三国は、ソ連崩壊前に独立を宣言して認められていた。ウクライナのように、ソ連崩壊と同時に独立した旧ソ連共和国の諸国とは異なる。なおロシアは、ウクライナへの全面侵攻後にNATOに加入したフィンランドとスウェーデンの動向にも、ほとんど関心を払っていないように見える。これはロシア特有の「ユーラシア主義」の「圏域」思想に由来する態度だと言える。
現代では、ジョン・ミアシャイマー教授が、NATO東方拡大がロシアの過剰反応を引き出す温床となったという議論を展開して、有名になっている。キッシンジャー氏とミアシャイマー教授の間には、過去のNATO東方拡大をめぐる評価について、微妙な差異がある。だがウクライナのNATO加盟には賛成せず、その危険性に警鐘を鳴らしていた点では、同じだったとも言える。
ウクライナのNATO加盟問題が大きな話題になる過程で忘れられてしまっているが、旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国にNATOは拡大するが、旧ソ連圏には拡大しない、といういわば不文律は、現実世界の現実においては、頑なに守られ続けてきているのである。この不文律から逸脱した事例は、まだない。
ドナルド・トランプ大統領にとっては、上述の不文律に関する認識が、いわば「常識」と呼ぶべきものだろう。外交政策における「常識革命」で、不文律に立ち戻り、停戦調停を進めようとしている。

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