トランプ政権が「ウクライナのNATO加盟否定」を前提に停戦交渉する根本理由(後編)

執筆者:篠田英朗 2025年3月3日
エリア: 北米 ヨーロッパ
現在、トランプ米大統領の停戦調整の流れに沿って、欧州軍のウクライナ領への展開が準備されている[ロンドンで開かれた首脳会合で記念撮影に応じるウクライナのゼレンスキー大統領(前列右から2人目)と欧州主要国の首脳=2025年3月2日](C)EPA=時事
2008年に米ブッシュ政権がウクライナとジョージアのNATO加盟に言及した時、欧州は旧ソ連構成諸国へのNATO拡大は危険だという理解に基づき反対した。この2022年以前の国際的な「常識」に戻って停戦を達成しようというトランプ大統領の立場が著しく混乱しているとは言えない。トランプ政権は、結局は、再侵攻を防ぐのは抑止効果を持つ政策の導入である、と論じることになるだろう。ウクライナ領は、ロシア占領地域、非武装中立地域、欧州軍未展開地域、欧州軍展開地域、に分化していく可能性がある。何らかの事実上の「緩衝地帯」を作り出し、アメリカを欠いた欧州軍とロシア軍との勢力「均衡」関係が計算されるだろう。

 NATO東方拡大をめぐる議論において、主観の問題とは別次元で存在する混乱は、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大の歴史と、ウクライナNATO加盟問題を、同一視する議論だ。これは二つの異なる事柄を混同した錯綜した議論である。ロシアはこれまでに実際に発生したNATO東方拡大に直面していたときには、戦争を仕掛けなかった。戦争原因のレベルでロシアが問題にしているのは、あくまでもウクライナのNATO加盟の可能性である。過去のNATO東方拡大ではない。

 ドンバス戦争に代表される他国領土におけるロシアの軍事介入は、直接的であれ、偽装されたものであれ、これまで基本的に旧ソ連圏でしか行われたことがない。例外は、アサド政権の要請に応じてシリア政府軍を支援してシリアで行った軍事介入と、政府軍ではないワグネル社を通じてアフリカなどで行っているロシア人の軍事作戦であろう。だがこれらはいずれも異なるパターンで行われたものだ。いずれにせよNATOとは関係がない。

トランプ大統領が「常識」として認識する不文律

 ロシアは自国の「圏域」を重視する。これは「大陸系地政学理論」に特徴的な考え方であり、現代では「新ユーラシア主義」としても知られている(篠田英朗『戦争の地政学』[講談社、2023年]参照)。NATOの東方拡大は、このロシアの「圏域」を侵食するものとして、警戒される。

 実際に冷戦終焉後に進められたNATO東方拡大は、ソ連の崩壊によって生まれた東欧の「力の空白」地帯を埋めるために進められた。ヘンリー・キッシンジャー氏らは、「力の空白」を放置しておくことは、ロシアが力を回復させた後に、大きな不安定をもたらす要素を放置することに等しい、と主張した。そして1990年代にNATO東方拡大を強く主張して、当時のクリントン政権の方針転換に大きな影響を与えた。

 ただし、キッシンジャー氏らは、ウクライナを含めた旧ソ連圏にまでNATOを拡大させるべきだとは主張していなかった。むしろ反対する趣旨の議論をしていた。なぜならロシアと国境を接して対峙するところまでNATOを拡大させてしまっては、新たな別の不安定要素を作り出してしまい、かえって危険だと考えたからだ。「前編」で紹介した共編著において、この問題関心から、私は、キッシンジャーを、ウィリアム・ザートマン、ジョン・ミアシャイマー、ハルフォード・マッキンダーなどとあわせて、論じてみた(https://link.springer.com/book/10.1007/978-981-96-2295-5)。

 旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国はNATOが吸収して「力の空白」を埋めるが、旧ソ連圏でロシアではない地域の諸国については「緩衝地帯」として位置付ける。これがキッシンジャー氏ら、本来のNATO東方拡大の主張者たちの構想の基本的な見取り図であった。

 なおバルト三国が例外だと言われることもあるが、実際に他の諸国とは違う位置づけを持つ。ソ連への併合は法的に無効だったという理解が原則だ。欧米諸国は、冷戦中から、バルト三国がソ連の一部であることを認めていなかった。バルト三国は、ソ連崩壊前に独立を宣言して認められていた。ウクライナのように、ソ連崩壊と同時に独立した旧ソ連共和国の諸国とは異なる。なおロシアは、ウクライナへの全面侵攻後にNATOに加入したフィンランドとスウェーデンの動向にも、ほとんど関心を払っていないように見える。これはロシア特有の「ユーラシア主義」の「圏域」思想に由来する態度だと言える。

 現代では、ジョン・ミアシャイマー教授が、NATO東方拡大がロシアの過剰反応を引き出す温床となったという議論を展開して、有名になっている。キッシンジャー氏とミアシャイマー教授の間には、過去のNATO東方拡大をめぐる評価について、微妙な差異がある。だがウクライナのNATO加盟には賛成せず、その危険性に警鐘を鳴らしていた点では、同じだったとも言える。

 ウクライナのNATO加盟問題が大きな話題になる過程で忘れられてしまっているが、旧ワルシャワ条約機構の東欧諸国にNATOは拡大するが、旧ソ連圏には拡大しない、といういわば不文律は、現実世界の現実においては、頑なに守られ続けてきているのである。この不文律から逸脱した事例は、まだない。

 ドナルド・トランプ大統領にとっては、上述の不文律に関する認識が、いわば「常識」と呼ぶべきものだろう。外交政策における「常識革命」で、不文律に立ち戻り、停戦調停を進めようとしている。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
篠田英朗(しのだひであき) 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授。1968年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程、ロンドン大学(LSE)国際関係学部博士課程修了。国際関係学博士(Ph.D.)。国際政治学、平和構築論が専門。学生時代より難民救援活動に従事し、クルド難民(イラン)、ソマリア難民(ジブチ)への緊急援助のための短期ボランティアとして派遣された経験を持つ。日本政府から派遣されて、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で投票所責任者として勤務。現在も調査等の目的で世界各地を飛び回る。ロンドン大学およびキール大学非常勤講師、広島大学平和科学研究センター助手、助教授、准教授を経て、2013年から現職。2007年より2024年まで外務省委託「平和構築人材育成事業」/「平和構築・開発におけるグローバル人材育成事業」を、実施団体責任者として指揮。著書に『平和構築と法の支配』(創文社、大佛次郎論壇賞受賞)、『「国家主権」という思想』(勁草書房、サントリー学芸賞受賞)、『集団的自衛権の思想史―憲法九条と日米安保』(風行社、読売・吉野作造賞受賞)、『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(いずれもちくま新書)、『憲法学の病』(新潮新書)、『パートナーシップ国際平和活動』(勁草書房)など、日本語・英語で多数。
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