楡 周平『サリエルの命題』
評者:香山二三郎(コラムニスト)
単なる医学ミステリーでは終わらない
強毒ウイルスのパンデミック・サスペンス
毎年冬が近づくと警報が出されるインフルエンザ。2019年も流行の兆しありといわれ戦々恐々とさせられたが、幸い2月半ばには終息に向かった。しかし、いつ何時強力なウイルスが現れるかわからない。“サリエル”のような……。
本書は強毒性新型インフルエンザの脅威を描いたパンデミック・サスペンスである――というと、のどかな田舎に突然感染者が出現、医療関係者が駆けつけるものの、感染経路は杳(よう)としてわからない、といったストーリーが思い浮かぶかも。病気の発生原因を探る、いわゆる疫学的なアプローチだが、本書はそういった医学ミステリー系のパターンとは違った展開を見せる。
東アジアウイルス研究センターの研究者・笠井はアメリカのCDC(疾病管理予防センター)に派遣されていたが、上司に呼ばれ5年ぶりに帰国、突然解雇通告を受ける。彼の研究テーマは遺伝子操作による新型インフルエンザの予防だったが、日本の科学界の重鎮で名誉理事長の八重樫が兵器開発にもつながりかねないと中止命令を下したのだ。幸いCDCに研究員として残ることになるが、それというのも、彼らが研究中に生み出した新型ウイルス・サリエルの研究データが流出、研究者向けのサイトに公開されたからだった。
ミステリー系ではそこから犯人探しが始まるところだが、本書では秋田の寒村に隠棲する孤高の老ウイルス学者・野原が登場、彼はアメリカの田舎でやはり孤独な研究を続けるレイノルズに招かれ、流出データを元に作ったサリエルを見せられる。末期がんで余命いくばくもないレイノルズはいう。この馬鹿げた世の中に、神の鉄槌が下された時の様を見たいとは思わんかね――。
かくして日本海の孤島を舞台に忌まわしい感染劇が始まるわけだが、本書の読みどころはそのパニックの行方ともうひとつ、サリエル対策に追われる政治家たちの迷走ぶりにある。特効薬があるにはあるが5万人分の備蓄しかなく、ワクチン開発に成功したとしても、その接種には優先順位があった。超高齢社会に入った日本では健康保険を始め社会保障制度を抜本的に見直す必要があったが、政治家たちは選挙のため、それを見て見ぬふりをしてきたのだ。
そう、五輪開催に浮かれている場合じゃない。現実の日本とて、いつサリエルに襲われるかわからない。本書はそれをリアルに伝える、何より迫真の「ポリティカル・サスペンス」なのである。

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