徴用工問題:知日派「韓国首相」に立ちはだかる「壁」

執筆者:塚本壮一 2019年10月26日
エリア: アジア
10月24日、首相官邸を訪れて安倍首相と握手を交わす李洛淵韓国首相(左)(C)時事

 

 それは、「李洛淵(イ・ナギョン)さんらしい配慮が行き届いていた」という。即位礼正殿の儀への参列のため来日した韓国の李洛淵首相の振る舞いのことだ。

 徴用工問題を巡って厳しく対立する日韓。知日派として知られる李首相だが、韓国国内で事態打開に向けて身動きが取れないのは、「聖域化」する司法の存在がある。

学生の名前を呼んだ首相

 李洛淵首相は、安倍晋三首相との会談を翌日に控えた10月23日、東京・港区の慶應義塾大学を訪れ、学生たちとの対話に臨んだ。韓国政府からの依頼を受けてこの対話を準備し、当日は司会にあたった法学部の西野純也教授によると、李首相は会場に入ると20名の学生ひとり一人と握手を交わし、質疑応答では質問する学生の名前を確認しながらメモを取り、回答する際には名前を呼んでから話を始めたという。終了後には学生に名刺まで配った。

 李洛淵首相は韓国の有力紙『東亜日報』の元東京特派員で、1990(平成2)年に行われた現上皇の天皇陛下即位の礼も取材した。自他ともに認める知日派だ。去年10月に韓国大法院(最高裁判所)が徴用工を巡る裁判で、原告の元徴用工側の訴えを認め、被告の日本企業に損害賠償を命じる確定判決を言い渡したが、これに日本が強く反発する中、自らは解決に乗り出そうとしない文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領から対応を一任された経緯がある。

変わらぬ日本の立場

 24日に行われた李首相と安倍首相の会談で、双方は、「重要な日韓関係をこのまま放置してはならない」との認識で一致した。李首相は、「両国間の懸案が早期に解決されるよう努力しよう」と呼び掛ける文在寅大統領の親書を手渡すとともに、文大統領と安倍首相による首脳会談開催への希望を伝えた。

 これを受けて韓国メディアは、11月16日からチリで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議など、国際会議での日韓首脳会談実現の可能性に触れ、さらには、日本側が「韓国とともに問題解決の手立てを探ろうという姿勢に転じたのではないか」などという希望的観測を伝えている。

 しかし、安倍首相は会談で、「大法院判決は日韓関係の法的基盤を根本から崩すもので、国交正常化の基礎となった国際条約を一方的に破っている」と改めて批判し、まず韓国側が「国際法違反の状態」を是正すべきだと重ねて求めた。司法府の判断であれ、被告とされた日本企業の韓国内の資産が差し押さえられることのないよう手を打つなど、行政府として適切に対応すべきだという日本の立場はいささかも揺るぎない。李首相は日本滞在中、判決にどう対応するのか、口にすることはなかった。

徴用工裁判の流れを変えた判事

 日韓関係を揺るがす徴用工裁判の大法院判決。流れを決めるきっかけとなったのが、当人なりの「使命感」に燃えた1人の判事だったことはあまり知られていない。

 去年10月の大法院判決は、2012年5月に大法院の小法廷が下級審の原告敗訴判決を破棄し、審理を差し戻した判断を確定させたものだった。

 7年前の判決を主導したのが金能煥(キム・ヌンファン)判事(当時)である。

 のちに大法院のトップが「事前に耳打ちしてくれなかった」と不満を漏らすほど「突発的」(韓国メディア)な判決だった。

 報道によると、金判事は審理を進めていた当時、「これまでの判例にとらわれず、世の中を作り直すくらいのつもりで判決を出そう」と話していたという。判決文を「建国する心情で書いた」と周辺に語ったという別の報道もある。初めから結論ありきで審理にあたったのではないかという疑念が浮かぶ。

 金能煥氏はこの判決を出した2カ月後に判事の任期を終えたあと、コンビニエンスストアで働き始め、庶民の味方だなどとメディアにもてはやされた。インタビューに「コンビニや惣菜屋で食べていくのが夢だ」と語っていたが、半年後には「恒産がなければ正しい心を持てない」という言葉を残して大手法律事務所の弁護士に転じた。大法院の事件を担当し、下級審の判決破棄と審理差し戻しを少なからず勝ち取り、多額の報酬を得ているという。

 しかし、1人の特殊な判事だけが徴用工裁判の流れを変えたわけではない。法曹界全体として、韓国における「正義の実現」が一段と意識されるようになっているのは間違いない。去年10月の確定判決も、そうした中で出されたと見るべきだろう。

 それは、ソウルの書店に並ぶ書籍からうかがい知ることができる。法律家が書いた本が多いのだ。今月、政治社会分野のベストセラーのトップ10に入った『判決と正義』は、女性初の大法院判事や国民権益委員会委員長を歴任した金英蘭(キム・ヨンラン)氏の著作だ。「判決を決める際に法律の条文にこだわるだけなら、AI(人工知能)にやらせればよく、正義の実現こそが重要だ」と主張する。

 また、『ある量刑の理由』は、現役の判事が「記録ではなく、人と向き合った法廷の内側の物語」を記した本で、「なぜ少数者を保護しなければならないのか」を語る。『検事内伝』は、「弱者の力になりたい」という現役検事が執筆した。

 こうした書籍が相次いで刊行され、読者を獲得していることは、正義を押し出す司法の潮流が韓国社会で支持されている証左と言えるだろう。

短い「ゴールデンタイム」

 日韓関係で、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄決定を主導し、日米韓の連携を揺るがした金鉉宗(キム・ヒョンジョン)大統領府国家安保室第2次長に代わり、李洛淵首相が前面に立つようになったのは、明らかに日本にとっていいことだ。しかし、李首相が身動きできる空間は小さいと見るほかない。

 李首相は、日本が対韓輸出規制強化措置を撤回すればGSOMIA終了を再検討するとしているが、日本は徴用工問題を置き去りにしたままの取引など、とても受け入れられない。李首相に対してすら「コトの本質がわかっていない」という強い不満がある。

 といって、仮に李首相が徴用工問題に手を付けようとしても、司法の判断が「聖域化」(韓国メディア)している韓国内では、強い批判を招く結果に終わるだろう。もとより、徴用工問題に行政府が介入することには文在寅大統領が強く反対している。

 GSOMIAの失効は11月23日に迫っている。年末か年明けには、大法院判決に基づき、被告とされた日本企業の資産が差し押さえられる事態が予想される。李首相に与えられた、韓国メディアが「ゴールデンタイム」と呼ぶ時間は長くない。

 

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
塚本壮一 桜美林大学教授。1965年京都府生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科を卒業後、NHKに入局。報道局国際部の記者・副部長として朝鮮半島の取材・デスク業務に携わり、2002年の小泉首相訪朝など北朝鮮・平壌取材にもあたった。2004年から2008年まで北京に駐在し、北朝鮮の核問題をめぐる六者会合や日朝協議で北朝鮮代表団の取材を担当。2012年から2015年まではソウル支局長として、李明博・朴槿恵両政権下で悪化した日韓関係や、旅客船セウォル号事故などを取材した。ニュース「おはよう日本」の編集責任者、解説委員を務め、2019年に退局後、現職。
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