金正恩「異変説」は「インフォデミック」という「原因」と「教訓」(下)

執筆者:平井久志 2020年5月11日
エリア: アジア
「金正恩異変説」が広がる中、存在感を増したのは実妹の金与正氏(左から2人目)だった(5月1日、順川リン酸肥料工場完工式にて=『労働新聞HPより)
 

 今回の騒動の特徴は、韓国、米国、中国などの関係当局は金正恩(キム・ジョンウン)異変説を否定しているのに、各国のメディアが情報のキャッチボールをしながら、異変説にこだわり、事態を拡大していったことだ。

当局否定すれどメディア信せず

 1986年の金日成(キム・イルソン)主席死亡説、2008年の金正日(キム・ジョンイル)総書記の健康悪化、最近では2014年の金正恩朝鮮労働党委員長の健康異変説などでは、いずれも、どこかの国の当局が異変説に関係していた。

 しかし、1994年7月の金日成主席死亡、2011年12月の金正日総書記死亡という「本番」では、北朝鮮の発表前に、北朝鮮の最高指導者の異変をキャッチした当局もメディアもなかった。

 当局者が否定しているのに、メディアが異変説にこだわったことに理由がなくはない。

 西側メディアの多くは、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は親北朝鮮政権なので、平壌に忖度して、本当のことを発信するはずがないという不信感を抱いている。

 またドナルド・トランプ米大統領についても、自身の大統領選挙に金党委員長との関係を利用しようという思惑があり、正確な情報を出していないという先入観がなかったとは言えない。

 メディア側の先入観が、ファクトへの検証努力を弱めた側面があったのではないだろうか。

「金与正はヒヨッコ」

 韓国で4月15日に行われた総選挙で、野党「未来統合党」から地方区で立候補して当選した太永浩(テ・ヨンホ)元駐英北朝鮮公使は、4月23日に『KBS』のラジオ番組に出演し、自分は北朝鮮外務省に勤務していたが、最高指導者の健康状態などは知り得なかったとし、最近の情報は「消息筋」を使った推測に過ぎないとした。

 その上で、後継者に実妹の金与正(キム・ヨジョン)氏の名前が出ていることについて、

「現体制を支えている60~70代の勢力と金与正は、ほぼ30年以上の世代差があり、彼らの目から見れば金与正はヒヨッコで、彼らがこの体制のまま進むか、この機会に自分の手でトップをもう1度選び直すか、悩むのは明らか」

「われわれが見逃してはならないのは金平日(キム・ピョンイル)の存在」

 と指摘した。金平日氏は、金日成主席の息子で、金正日総書記の異母弟という「白頭の血統」だ。1979年から長く東欧で大使を務め、昨年11月に北朝鮮に帰国した。

 太永浩氏のこの時点までの発言は、金正恩異変説に疑問を示し、最高指導者の健康はそう簡単に分かるものではないと、慎重なものであった。

 ただし、金平日氏を後継候補と強調することで彼の身に何かなければよいが、という不安を抱かせた。

 4月25日は金日成主席が1932年に抗日パルチザンを組織した「人民革命軍創建記念日」であるため、金正恩党委員長が姿を現すのではとみられたが、関連報道はなかった。

『ロイター』「中国が医師派遣」

 こうした中で、『ロイター』が4月25日、状況をよく知る消息筋の話として、中国が医療専門家を含む代表団を北朝鮮に派遣した、と報じた。3人の消息筋のうち2人は、代表団は中国共産党中央対外連絡部の高官が率い、北京を23日に出発したとした。

 これを後追いするような形で、『朝日新聞』は4月26日、中国共産党が23日までに人民解放軍総医院(301病院)から医療専門チーム約50人を派遣したことが分かった、と報じた。金党委員長との関連は不明とし、党対外連絡部の宋濤部長がチームを率いたとした。

 北朝鮮は「新型コロナウイルス」感染防止のために、2月から航空路を閉鎖しているため、特例として認めたのかどうかは不明だった。

 韓国の文正仁(ムン・ジョンイン)大統領統一外交安保特別補佐官は4月26日、米国の『FOX』とのインタビューで金党委員長について、

「彼は生きており、元気だ」

 と明確に重篤説を否定し、

「彼は4月13日以降、元山にいる」

 と語った。 

 また韓国の金錬鉄(キム・ヨンチョル)統一相は、4月26日にソウルでのシンポジウムで、

「韓国政府は特異動向がないと自信を持って言えるほどの情報力を備えている」

 と強調した。

 米国の北朝鮮分析サイト『38ノース』は4月25日(日本時間同26日)、衛星写真の分析で、金党委員長の特別列車とみられる列車が同21日以降、元山の専用駅に停車しているとした。韓国政府が主張する金党委員長の元山滞在説を裏付けるものだった。

 なお、同23日には列車の向きが変わっており、出発のために向きを変えた可能性も指摘された。

『38ノース』は4月29日にも、この列車がまだ元山にあると指摘した。

元39号室勤務の亡命者「事故の可能性」

 韓国紙『東亜日報』は4月27日、朝鮮労働党の秘密資金を担当する党39号室に所属したことのある北朝鮮の元高官で、米国に亡命した李正浩(リ・ジョンホ)氏が同紙への特別寄稿で、心臓手術で重篤だという一部報道について「正確度や信憑性が低い」としたと報じた。

 その上で、4月14日にあった巡航ミサイル発射実験は、金党委員長の許可なしではできないと指摘。北朝鮮メディアがこれを公開しなかったのは、

「火炎と破片で想定になかった突発的な事故が起きた可能性を疑わせる」

 と指摘し、金党委員長が4月14日の巡航ミサイル発射実験の際に事故に遭った可能性を指摘した。先の韓国の北朝鮮専門家の見解に近いものだった。

 また、太永浩元北朝鮮駐英公使は4月27日、米『CNN』とのインタビューで、金党委員長の異変説について、

「1つ明白なことは、金委員長が自分で立ち上がったり、しっかり歩いたりできない状態だということだ」

 と語ったが、金党委員長が手術を受けたかどうかは分からないとした。太永浩氏はそれまでは比較的慎重な発言をしており、このインタビューでも、金党委員長の健康状態を知ることができるのは夫人と妹ぐらいと言っているのに、“自分で立ち上がったり、しっかり歩いたりできない状態”と言ってしまっている。

ナンバー3「平壌で経済視察」の意味

 そうした中で、筆者が気になる報道が出た。

 北朝鮮の経済政策のトップである朴奉珠(パク・ポンジュ)党政治局常務委員が金正淑平壌紡織工場や平壌市内の平壌第1百貨店、光復地区商業中心(センター)などを視察したと、『朝鮮中央放送』が4月28日に報じたのである。

 通常であれば、経済担当幹部が平壌市内の企業などを視察したというだけのニュースだ。しかし、朴奉珠氏は3人しかいない党政治局常務委員の1人で、形式上は北朝鮮のナンバー3だ。

 もし、金党委員長が元山で重篤な状態であれば、平壌市内で経済視察などできるだろうか。おそらくは、元山で待機するのが当然だろう。仮に平壌にいたとしても、経済視察をする余裕はないはずだ。この報道は金党委員長の健在を示唆するものであるように思えた。

 そこで改めて報道をチェックしてみると、金才龍(キム・ジェリョン)首相も4月24日に黄海南道で工事現場や鉱山を視察している。首相の政治的な地位は落ちるが、それでも、金党委員長が重篤であれば、地方に経済視察には行かないだろう。

「金正恩は死亡、99%確信」

 ところが、かつては北朝鮮のコッチェビ(浮浪児)で、4月15日の韓国総選挙では比例区で当選して話題になっている脱北者出身の池成浩(チ・ソンホ)氏は5月1日、北朝鮮内部の消息筋の話として、韓国メディアに対し、

「金正恩は死亡したものとみられる。99%確信している」

 と語った。

「北朝鮮内部の消息筋に確認した結果、この週末に死亡したとみられる。心血管手術を受けたが、手術後、ショック状態で死亡したようだ」

「1%生きている可能性があり、100%死亡したとは言えない」

 と述べた池成浩氏は、

「早ければ今週末、遅くとも来週中に北は発表するだろう」

 とも発言したが、皮肉なことに、内容はまったくの正反対だったが、この“早ければ週末(翌日の5月2日)に北朝鮮側の発表がある”という点だけは的中した。

存在感増す「金与正」

 そして本稿(上)の冒頭で述べた通り、ついに5月1日、金党委員長が平安南道順川の「順川リン酸肥料工場」の完工式に出席し、テープカットを行った、と北朝鮮メディアが翌2日に報じた。

『朝鮮中央テレビ』は同日午後にはこの完工式の動画を放映し、特に問題なく歩く金党委員長の姿を誇示した。

 外見上は、金党委員長の姿に大きな変化はなかった。動画ではたばこを指に挟んでいる場面もあり、依然として健康に気を遣っている様子はなかった。

 一部では、右手首内側に黒っぽい点のようなものが見え、心血管手術と関係があるのではという指摘も出た。しかし韓国政府は、

「金党委員長は施術も手術も受けていない」

 と、こうした見方を否定した。

 完工式には朴奉珠党政治局常務委員、金才龍首相、金徳訓(キム・ドクフン)党政治局員、朴泰成(パク・テソン)党政治局員、金与正党第1副部長、趙甬元(チョ・ヨンウォン)党第1副部長が出席した。公表された動画では、玄松月(ヒョン・ソンウォル)党宣伝扇動部副部長の姿もあった。

 注目されたのは金与正党第1副部長で、前髪を伸ばし、少しヘアスタイルを変えたように見えた。

 完工式のひな壇では朴奉珠党常務委員の横に座り、党政治局員である金徳訓氏より金正恩党委員長に近い席に座った。

 北朝鮮では通常、ひな壇の席は政治序列を示すが、党政治局員候補の金与正氏が政治局員の金徳訓氏より上座に座り、強い存在感を示した。

「異変説」が広がる中で、これによって金党委員長の後継者として金与正氏を挙げる見方が広がった。

 だが、まだ30代の金党委員長が後継者を云々するだろうか。また、金与正氏の権力が強化されているのは事実だが、彼女の権力強化は、彼女が金党委員長の「妹」だからである。

 金党委員長がいなくなった後、彼女に「後継者」としての実力や資質があるのかどうかは別の問題であり、そういう議論は時期尚早だろう。

「順川リン酸肥料工場」とは

「順川リン酸肥料工場」は2017年7月16日に着工され、約2年10カ月で完成した。北朝鮮が掲げる「正面突破戦」を象徴する工場で、絶対的に不足している肥料を供給し、食糧生産を増大させる役割を期待されている施設だ。

 金党委員長は昨年末の党中央委員会総会で経済制裁に打ち勝つ「正面突破戦」を訴え、それを象徴するこの工場を今年1月7日に訪問、今年の公開活動の最初の場として選んだ。

 これに続いて、2月3日には朴奉珠党政治局常務委員が、同5日には崔龍海(チェ・リョンヘ)党政治局常務委員が、同16日には金才龍首相が同工場の建設現場を視察したと報道された。こうした事実からも明らかなように、北朝鮮の今年の最重要経済施設である。

 ただし、完工式になぜ崔龍海党政治局常務委員が出席しなかったのかが少し気になる。

 党機関紙『労働新聞』は、

「われわれの力、われわれの技術、われわれの原料に依拠した主体的なリン酸肥料工業が創設されたことで、一生をささげて社会主義自立経済の強固な土台を固めてくれた金日成主席と金正日総書記の不滅の業績を末永く輝かし、穀物生産を画期的に増やせる突破口が開かれた」

 と、この工場完成の意義を報じた。

 金党委員長は、

「今やわが農業勤労者が安心して党が提示した穀物生産目標を達成することに専心することができるようになった、順川リン酸肥料工場は党政策の絶対的信奉者らが軍民一致の団結した力で創造した、誇るに足る結実である」

 と述べた。

 一部の欧米の研究者の間では、この工場では肥料生産だけでなく、ウラニウム抽出も可能であるという指摘が出ている。しかし、それはあまりに拡大解釈だろう。

 北朝鮮はおそらく、肥料工場に偽装してウラニウムを生産する必要はなく、別の秘密施設でウラニウム生産をしているだろう。現時点ではウラニウム生産よりはるかに肥料生産の必要性が高いと思われる。この工場でそのような秘密生産をする必要はないだろう。

4つの教訓と1つの疑問

 以上のような経過を踏まえ、今回の金党委員長に関する「異変説」から汲み取れるいくつかの教訓を考えてみたい。

 第1は、当局者の見方の軽視である。

 過去の北朝鮮最高司令部の異変騒動と今回の違いは、韓国、米国、中国という関係国の当局が一貫して「異変説」を否定したということである。

 文在寅政権の親北的傾向、トランプ政権の手前勝手、中国・習近平政権の朝鮮半島政策を視野に入れても、当局者たちがこれほど一貫して「重篤説」「死亡説」を否定していたことにもっと耳を傾けるべきであった。

 特に、文在寅政権の今回の対応は揺るぎがなく一貫していた。

 米国は、衛星による画像収集や電波や通信の傍受などでは他の追随を許さないが、人を通じたヒューミントでは韓国側が優れている。今回、どういうラインが動いたかは不明だが、韓国側は確かなルートから情報を得ていたようだ。

 第2は、メディア報道のファクトチェックだ。

 火付け役になった『デイリーNK』の報道では、最高指導者への施術がなぜ平壌でなく妙香山地区なのか、「香山診療所」がどのような施設なのか、当局発表で金党委員長の所在が元山の可能性が高いこととの整合性などその後のファクトチェックが、もっとなされるべきであった。

 また『CNN』報道については、「重篤だという情報がある」というだけで具体性に欠け、米当局者たちがそういう情報がないとしたことへの検証が不足であった。

『CNN』はこの報道が結果的に誤報であったことを検証せず、「北朝鮮はブラックホールである」などとしているようだが、これはメディアとしていかがかと思う。

 第3は、脱北者情報をどう見るかということだ。

 北朝鮮で生活経験のある脱北者の意見が参考になることは多い。その一方で、主張は誇張であったり、自分の存在価値を高めるためにかなり怪しい情報を発信したりする場合もある。

 さらに、反北朝鮮という運動次元での情報発信が多いことも考慮しなければならない。

 太永浩氏は当初はかなり慎重に発言し、最高権力者の健康についてはごく側近を除いて誰も分からないと主張していたのに、最後に「自分で立ち上がったり、しっかり歩いたりできない状態」と、自身の前言と矛盾する発言をしてしまった。

 結局、韓国では国会議員に当選した太永浩、池成浩両氏に対する批判が強まり、両氏は謝罪をしなければならない状況に追い込まれた。活動家として発言するのと、国会議員として発言するのでは、当然ながら重みが違う。両氏はまだ国会議員になる前の身分ではあっても、その地位の重さへの自覚が足りなかったのだろう。

 第4は、やはり北朝鮮情報の読み解きは、過去に北朝鮮で起きたこととの比較など、その文脈での理解を深めるしかない、ということだ。1つ1つの事実の確認、過去の事例との比較などを積み重ねる必要がある。

 最後にもう1点。

 今回の状況では、なぜ金党委員長が故金日成主席の誕生日に錦繍山太陽宮殿へ行かなかったか、ということが依然として残る疑問点だ。新型コロナが関係している可能性もあるが、解かなければならない疑問である。

 自身への自戒を含めての筆者の反省である。

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
平井久志 ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。
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