国際人のための日本古代史
国際人のための日本古代史 (134)

中国に倣いつつ「独裁」は排したヤマト政権「日本風アレンジ」

執筆者:関裕二 2021年4月18日
エリア: アジア
日本人は古来、山や岩、ありとあらゆる物に神は宿ると信じていた(滋賀県「太郎坊宮」=筆者撮影)

 人権や台湾をめぐる問題で、アメリカ合衆国と中華人民共和国の対立が深まっている。

 両者は対称的な国だ。アメリカは資本主義と民主主義、中国は共産主義と独裁体制によって、国が成り立っている。ただし、まったく正反対というわけではなく、共通点もある。どちらも「革新の国」で「実験国家」なのだ(褒めていない)。

 キリスト教や一神教の考えに「人間は神に代わって世界を支配できる」というものがある。人間の理性によって導きだされた科学や哲学によって、世界を支配し、大自然さえ改造する権利があるとキリスト教徒は考える。宗教を否定する共産主義も、元をただせばキリスト教のなれの果てなのだ。共産主義だけではなく、民主主義も不完全な制度だが、彼らはそれぞれのやり方を正義だと言い張る。

 また、新たな理念や科学を信奉するあまり、歴史を軽視する傾向がある。「アメリカに歴史がない」のは、ただ単に建国後の時間が短いというだけの話ではない。イギリスの階級社会と国教会の弾圧に耐えかねたピューリタンが、アメリカに逃れ、ゼロから国を立ち上げ、理想の国を作ろうとした。つまり、彼らは(実験的に)過去(歴史)を捨てたのだ。

 一方「社会主義革命」も、古い価値観と歴史を否定し、破壊してしまう。この点、アメリカと中国は、よく似ている。

 なぜこのような話をしたかというと、「人工的な国家群」アメリカと中国にはさまれて、古い歴史に根ざした多神教の国・日本が、翻弄されているためだ。

 多神教世界の住民は、「人間の理性が万能で、世界を支配できる」とは考えない。大自然に打ち勝とうとする発想が、そもそもないのだ。大自然(多くの神々)がもたらす災害に、ひたすら畏まり、祈る。だから日本人は、アメリカと中国の対立を、天災とみなしている節があるし、受け身の対応に終始している。日本の行動の基準は「独裁より、民主主義と自由」だが、自ら戦略を立てて、能動的に動いているようには見えない。

 それを、批判したいのではない。日本人の発想が特殊で、一神教世界から異端児扱いされている事実を、まず日本人自身が知っておく必要があると、言いたいのだ。

雄略天皇は「最初の独裁王」なのか?

 多神教世界の神は人間くさく、善悪の両面性を持っている。明確な正義を主張しない。そのためだろう、日本人は強い権力の発生を拒んできた。日本人はとことん独裁者を嫌う民族なのである。

 ヤマト建国(3世紀から4世紀)も、多神教的な発想が根底に隠されていた。3世紀初頭、多くの地域の人びとがヤマトの盆地の東南の隅(奈良県桜井市の纒向[まきむく]遺跡)に集まってきてゆるやかな連合体が誕生していた。かつて信じられていた「強い征服王の出現」を、考古学はすでに否定している。しかも、ヤマト周辺の「文明や進歩を忌避する人たちがヤマト建国の先鞭をつけていた」可能性が高まってきている(4月中旬発売の拙著『古代史の正体 縄文から平安まで』新潮新書)。

 天皇家の祖(古代のヤマトの王)は祭司王で、王を担ぎ上げた豪族(首長)たちが、実権を握った。

 ただし4世紀末になると、情勢が変わってくる。中国の混乱に乗じて、朝鮮半島北部の騎馬民族国家・高句麗が南下策をとり、倭国も朝鮮半島南部の権益を守るために出兵する。遠征軍は豪族たちの寄せ集めだったが、次第に統一された命令系統が求められるようになり、王家の意識も変化した。ヤマト王権は地方の新興勢力を後押しすることで、地域ごとの勢力図を刷新し、少しずつ力をつけていったのだ。

 そんな中、5世紀後半に強権を発動する王が現れたようなのだ。それが、第21代雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の最後の武王と同一と考えられている。皇位継承候補ではなかったのに、並みいる強敵を武力で圧倒していく。

 2人の有力皇族が大豪族の館に逃げ込むと、雄略は、館に火を放って皆殺しにしてしまった。「反雄略派」は、次々に粛清されていき、呪って死んでいく者も現れた。

 また、入内要請(嫁取り)を拒否した女人とその夫を捕らえ、手足を木に縛り付け、桟敷の上で焼き殺した。些細なことで従者を斬り殺してもいる。

『日本書紀』を信じるなら、日本史上最初の独裁王の誕生だ。「雄略天皇を支持する人は少なかった」と記録されている。雄略天皇は誤って人を殺してしまうことがしばしばで、人びとは雄略天皇を指して、「大[はなは]だ悪[あ]しくまします天皇[すめらみこと]なり」と、誹っていたとある。

 ただ、不思議なことに、他の文書や考古史料は、雄略天皇が歴史の転換期に現れた英傑だったことを今に伝えている。ヤマト政権そのものが飛躍的に発展していたようなのだ。雄略天皇は古代版織田信長と評価されてもいる。

 たとえば、『万葉集』の巻頭を飾る歌は雄略天皇の作で、そのあとも、節目節目に雄略天皇が登場している。

 難波宮(大阪市中央区)の下層から、雄略天皇の時代の掘立柱建物16棟の倉庫群(法円坂遺跡)が見つかっている。近くに港(難波津)があって、税や海外からもたらされた文物が積み上げられていた。ヤマトの王は、先進の文物を地方に分け与え、国家機能は充実していたことがわかってきた。5世紀のヤマトは、繁栄を誇っていたのだ。

 ならばなぜ、『日本書紀』は雄略天皇を批判的に記録しているのだろう。

「卑劣な暴君・武烈天皇」という虚構

『日本書紀』は西暦720年に編纂された正史で、天皇のために書かれたと信じられている。だがそれは間違いで、藤原氏の権力奪取の正当性を主張するために書かれた。だから、『日本書紀』は天皇の歴史を礼讃するように見せかけておいて、ところどころでヤマトの王家を見下すような記事を書いている。そのよい例が、5世紀末に登場した武烈天皇だ。卑劣な暴君として描かれている。武烈は妊婦の腹を割いて胎児を見たり、人の髪を引き抜き、木に登らせ、木を切り倒して殺して喜んだりと、猟奇的な事件が続く。また武烈天皇は酒池肉林に溺れ、人々が飢えと寒さに苦しんでいるときも、お構いなしだったという。

 これらの記事は、中国の文書から引用したものだから、史実とは見なされていない。武烈天皇亡き後、応神天皇5世の孫を担ぎ上げた理由を説明するための文飾と考えられている。

8世紀に登場した「真の独裁者」

 それにしても、なぜ5世紀後半の2人の天皇を極悪なイメージで記録したのだろう。

 5世紀後半の王家を盛り立てたのは大伴氏で、『日本書紀』編纂時、藤原氏にとって最大のライバルでもあった。だから、大伴氏が担ぎ上げた天皇の印象をわざと悪くしたのだろう。

 ならば、雄略天皇たちをどのように評価すべきなのか。

日本人には「文明」や「進歩」に懐疑的な心性がある(京都府福知山市の日室ヶ嶽=筆者撮影)

 6世紀以降のヤマト政権は、隋や唐で誕生した律令制度の導入を急いだが、日本風にアレンジした。中国の律令制度は、皇帝に強い権限をもたせた制度だったが、天皇に実権は預けず、太政官が実権を握った。貴族(豪族)の合議制を尊重したのだ。雄略天皇の改革事業の目標もここにあって、だからこそ『万葉集』は雄略天皇を高く買っていたのだろう。ところが、8世紀に藤原氏は周囲の貴族を蹴落とし、独裁権力を握り、富も独占してしまう。日本史に登場した真の独裁者は、藤原氏である。当然、みな藤原氏を憎み、結局平安時代の終わりに武士が台頭して「藤原氏一党独裁の時代」に終止符が打たれたのだ。

 独裁を嫌う日本人の発想は間違っていないし、われわれは自然を破壊する「文明」や「進歩」に懐疑的な民族なのだ。だから、太古以来中国文明から多くのものを学びながら、そっくり真似ることはなかった。森を食べ尽くす文明に驚き、欲望のままに走りつづける大陸の民族に震え上がったのだろう。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
関裕二 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書に『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』、『「死の国」熊野と巡礼の道 古代史謎解き紀行』『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪 古代史謎解き紀行』『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』など多数。最新刊は『古代史の正体 縄文から平安まで』。
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