医療崩壊 (51)

コロナ「第5波」阻止に「季節性変動」前提化を急げ

論点を矮小化した五輪「無観客提言」の罪

執筆者:上昌広 2021年7月6日
タグ: 新型コロナ
エリア: その他
五輪の水際対策徹底に課題は多い(来日したウガンダ選手団) ⓒ時事
尾身茂・新型コロナウイルス感染症対策分科会会長ら26人が政府と五輪組織委員会に提出した無観客試合を求める意見書は、開催自体が「第5波」を招きかねないという本質的なリスクを矮小化してしまった。新型コロナの流行には季節性変動があり、夏の感染拡大は初めから織り込む必要がある。今からでもとるべき対策は――。

 東京五輪開幕まで3週間を切った。着々と準備が進む反面、世界各地から安全性について様々な意見がでている。5月25日には、米『ニューイングランド医学誌』が「五輪参加者をコロナから守る:早急にリスクに応じた対策を講じる必要がある」、6月12日には英『ランセット』が「東京五輪を世界はもっと議論しなければならない」という論考を掲載した。いずれも五輪を介して、コロナが拡大するリスクがあり、選手と関係者を守るには、現状の対策では不十分で、さらに議論する必要があるという内容だ。

『ニューイングランド医学誌』と『ランセット』は世界の医学界をリードする二大医学誌だ。両誌が、このような論考を掲載するのだから、東京五輪は安全に開催することが難しいというのが、世界の専門家のコンセンサスになっていると言っていい。

 6月18日、さらに尾身茂・コロナ対策分科会会長をはじめとした26人の日本の有志が、政府と五輪組織委員会に対して、感染リスク低減のために無観客試合を求めた意見書を提出した。多くのメディアは、尾身氏らの提言を肯定的に報じている。例えば、『朝日新聞』は6月22日の社説で「五輪の観客 科学置き去りの独善だ」と政府の対応を批判している。

 私は、このような議論に違和感を抱かざるを得ない。それは、尾身氏らの提言により、論点が観客をどうするかに矮小化されてしまったからだ。

観客への感染拡大は阻止できる

 観客をどうするかは、東京五輪対策で最優先すべき課題ではない。そもそも、観客への感染拡大のリスクは、やり方次第で大幅に削減できる。この点を論じる上で重要なことは、屋内と屋外を区別して議論することだ。

 屋外の感染リスクは低い。このことは、流行当初から指摘されてきた。昨年4月には、中国の東南大学の研究者たちが、7324例の感染者の記録を調べ、屋外感染は一例だけだったと報告している。これは昨年10月30日から3日間に渡って、横浜スタジアムで入場制限を緩和したが、クラスターは発生しなかったという実証研究の成果とも合致する。

 いまや、コロナ感染の主体はエアロゾルを介した空気感染であることが分かっている。当初、厚生労働省が強く主張した唾液を介した飛沫感染が果たす役割は限定的だ。空気感染対策の基本は換気だ。屋外なら、よほど至近距離で大騒ぎしない限り、換気が問題となることはない。野球やサッカーのような屋外競技はもちろん、開会式も、会話を控え、社会的距離をとれば、無観客にする必要はない。

 屋内競技は別だ。一定の感染リスクは避けられない。ただ、これもやり方次第だ。幾つかの臨床研究で示されている。

 例えば、スペインの研究者たちは、1047人を対象に、屋内での5時間の音楽イベントに参加する人と、通常の生活を送る人にランダムに振り分ける臨床試験を実施した。観客は入場前に抗原検査を受け、陰性を確認した。また、イベント会場は徹底的に換気した。

 この臨床試験では、抗原検査に使った検体をTMA法など他の方法でも分析した。その結果、音楽イベントに参加した465人中13人、対照群495人中15人が、抗原検査で陰性だったにもかかわらずTMA法で陽性を示した。そしてイベント8日後に再度検体を採取して行った検査では、対象群から2人の陽性者(抗原検査とPCR検査による)が出た一方で、参加群は全員が陰性だった。つまり検査と十分な感染防止対策をとることで、クラスターを拡大することなく、音楽イベントを開催できたことになる。

 この研究はランダム化比較試験で、最もエビデンスレベルが高い。5月27日に英『ランセット感染症版』が掲載している。ところが、「専門家」からは、このような科学的事実は紹介されないし、メディアも触れない。

昨年のピークは8月初旬

 私は、東京五輪の安全性を論じる上でのポイントは、観客をいれるかどうかではなく、デルタ株による第5波のリスク評価だと考えている。ここにきて、コロナ感染者は東京を中心に増加に転じた。東京都によると、6月28日の一週間平均の感染者数は489人で、前週から24.8%増加した。6月25~27日の検査数は一日あたり4418件だから、陽性率は10%を超える。感染者は氷山の一角だろう。

 メディアは、この状況を緊急事態宣言の終了に伴う反動と捉えている。『朝日新聞』は6月29日の朝刊に「東京、感染リバウンド」という記事を掲載し、「宣言の解除前から5週連続で増え続けていた人流」を問題視している。

 私は、このような論調に賛同できない。緊急事態宣言を継続していても、感染者は増加したと考えている。それは、コロナの流行に季節性の変動があるからだ。この季節性変動こそ、東京五輪の安全性を議論する上で、もっとも重要な指標だ。

 コロナは風邪ウイルスだ。その流行は季節の変化と密接に関連する。パンデミック以前から存在する風邪コロナの場合、日本では毎年冬と初夏に流行を繰り返してきた。

 新型コロナは、昨年、日本では春・夏・冬の3回流行した。興味深いのは、今春、感染が拡大しだしたのは3月中旬で、昨春の感染拡大時期とぴったり重なることだ。実は、2020年、21年の感染拡大の時期が一致するのは、日本だけの現象ではなく、海外でも広く観察されている。

出所:Our World in Data

 注目すべきは、昨年の日本では6月後半から感染者が増加し、8月初旬にピークを迎えていることだ。(図1)

 では、今年はどうだろうか。ここに来て感染者数が増え始めた。昨年同様、これから8月にかけて、感染が拡大してもおかしくない。今夏の感染の主体はデルタ株(インド株)だ。その感染力を考えれば、今春とは桁違いの流行になるだろう。

 第5波の襲来の可能性が高まった現在、状況は、米『ニューイングランド医学誌』や英『ランセット』が、東京五輪のあり方の見直しを提言した頃よりも悪化している。選手と国民視点に立てば、東京五輪は数カ月延期すべきだろう。もし、1964年と同じく10月10日に開幕すれば、それまでに国民の多くがワクチンを接種しているだろうし、その時期は夏と冬の流行の狭間となる。

 暑さ対策の議論も欠かせない。今夏は黒潮が大きく南に迂回する「大蛇行」の年にあたっており、関東沖で分岐した黒潮の支流が紀伊半島に向かって日本沿岸を西流する。このような支流は海水温が高く、多くの水蒸気を含むため、太平洋側は湿度が高くなり、熱中症のリスクは高まる。高温多湿な真夏の東京で五輪を開くのは正気の沙汰ではない。

 私は、選手・関係者、日本国民の健康を考えるなら、尾身氏ら26人の専門家は、無観客でなく、延期を提言すべきだったと考えている。これは『ニューイングランド医学誌』ら『ランセット』の論調とも一致する。

選手村のスクリーニングは感度が低い「抗原検査」

 さらに、提言すべき相手も政府や五輪組織委員会ではない。トーマス・バッハ国際オリンピック委員会(IOC)会長だ。6月23日、筆者は日本外国特派員協会で、東京五輪とコロナについて講演を行った。米科学誌のデニス・ノーマイル記者の推薦だ。当日、会場からは「なぜ、日本はIOCに遠慮するのか」「なぜ、明らかにおかしいバッハを批判しないのか」という質問を受けた。

 バッハIOC会長は、米『ワシントンポスト』が「ぼったくり男爵」と評した人物で、記者には、東京五輪は「IOCの金儲けの手段で、日本はIOCの奴隷」のように映るそうだ。独の記者は「IOCの今回の振る舞いが罷り通れば、今後、五輪を開催しようという国は激減する」という。本気で、五輪の安全性を高めたければ、主催者IOCの責任者であるバッハに提言しなければならない。ところが、尾身氏たちは、バッハを避けた。私は、ここにこそ、東京五輪の宿痾があると考えている。

 ある政府関係者は「日本政府が公にバッハを批判した場合、検査体制を含め、日本の感染対策が批判される。関係者は、このことを恐れている」という。

 メディアは、あまり報じないが、五輪での感染対策は問題だらけだ。6月23日、来日したウガンダ選手団の一人が空港検疫をすり抜け、その後、デルタ株に感染していたことが明らかとなったが、これは検査にPCRでなく、抗原検査を用いたためだ。水際対策に抗原検査は推奨できない。それは感度が低いからだ。米疾病管理センター(CDC)が、今年1月に『MMWR』誌に発表した研究によると、発熱や咳など症状がある人を検査した場合、抗原検査はPCR検査陽性の人の80%で陽性となるが、無症状感染者の場合には41%まで低下する。東京五輪の感染対策では、このような医学的エビデンスが無視されているが、誰も問題視しない。

 東京五輪では、選手村でのスクリーニングにも抗原検査が用いられる。一部の研究者は、PCR検査は感度が高すぎ、感染していても周囲にうつすことはない感染早期や治癒過程の感染者でも陽性になるため、ある程度のウイルス量がなければ陽性にならない抗原検査の方が望ましいと主張する。政府の専門家会議の中にも、このような意見をいう人はいる。前述したように、スペインで実施された音楽イベントでも抗原検査を用いている。

 ただ、これはイベント参加者に当日検査を実施するという、実行可能性の点からPCR検査を用いることが難しい試験だったためで、理想的なスクリーニング検査ではない。東京五輪の場合は、ドーピング検査のように、選手や関係者の検体を採取して、まとめて検査すればいいのだから、PCR検査が実施可能だ。また、スペインの音楽イベントのような単回のイベントでの成功が、2カ月にわたる東京五輪で通用するか保証はない。PCR検査が実施できる状況で、あえて感度が低い抗原検査を用いてスクリーニングするのは科学的ではない。多くの無症状感染者を見落とし、クラスターが発生する可能性が高い。この状況はIOCも当然把握しているだろう。

 東京五輪の安全性を議論するなら、早急に是正すべきだ。ただ、PCR検査を抑制し、抗原検査の使用を推奨し続けてきた厚労省は、いまさら方向転換できない。令和2年度の第二次補正予算では、抗原検査キット等の確保のため179億円が措置されており、厚労省は抗原検査の大量の在庫を抱えている。『週刊現代』(2021年2月20日号)は『新型コロナ「抗原検査キット」が、まさかの「大量廃棄」される事態になっていた』という記事を配信している。

 1月22日、厚労省は「結果が陰性であった場合も感染予防策の継続を徹底すること」という条件をつけてはいるものの、「無症状者に対する抗原簡易キットの使用」を推奨する通知を出している。丁度、この時期に米CDCが、無症状感染者に対する抗原検査の限界を示す論文を発表したのとは対照的だ。今回の空港検疫や選手村での抗原検査の使用も、このような背景を知ると見え方が変わってくる。これが、日本の五輪対策の現実だ。

 このままの体制で東京五輪に突入するのは危険だ。今からでも遅くない。選手・関係者、そして日本国民の安全を最優先に、国際的な議論を深めなければならない。

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
上昌広(かみまさひろ) 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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