少数民族のロシア連邦――「ロシアンティー」の源流をたどる旅1|カルムイク共和国

執筆者:徳永勇樹 2021年8月5日
タグ: ロシア
ロシア連邦・カルムイク共和国の首都エリスタ市の中心にたたずむ「中央寺院」 写真・筆者提供
ロシアは広い。世界一を誇る国土面積のみならず、民族的にも文化的にも、意外なほどの多様性を秘めている。「ロシア連邦」という巨大な枠組みの中にあって、独自の伝統を脈々と受け継ぐ少数民族の現状とは――。連邦内の3つの「共和国」を訪れた筆者がレポートする。

 

「茶の道」を辿る旅へ

 Умом — Россию не понять, аршином общим не измерить.(訳:ロシアは頭では理解できない。普通の尺度では測りきれない。)これは、ロシアの詩人チュッチェフによる有名な詩の一節である。この言葉の通り、実際にロシアを訪れると、日本で認識されているロシア像とはかけ離れた世界が広がっていることに気づく。

 例えば、ロシア=白人碧眼の国という認識である。確かに、テレビに映るロシア人は、みなそのように見える。しかし、ロシア連邦におけるロシア人の割合は80%程度にとどまり(しかも、諸民族との混血が進んでいる)、200以上の少数民族が暮らす多民族国家である。そして実は、こうした少数民族出身者が政府の要職についている例も多い。アントン・ワイノ大統領府長官はエストニア人、セルゲイ・ショイグ国防大臣はトゥヴァ人だ。あるいは芸能界でも、“ロシアの北島三郎”ともいわれた歌手の故ヨシフ・コブゾンはユダヤ系など、例をあげればきりがない。

 ロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、このようなロシアの多民族性について頻繁に言及している。今年2月にも「ロシア連邦の諸民族の文学、文化、言語を支援する必要がある。ソビエト連邦にいくら問題があったとしても、ソビエト連邦は今日のロシアよりも民族的多様性により注意を払っていた」と発言していた。

 しかし一方で、ロシア国内の少数民族が力を持ちすぎると、ロシア連邦の維持に重大な影響を及ぼすこともある。その実例が、ソビエト連邦崩壊後に起こった数々の民族紛争である。中でもチェチェン紛争は、新生ロシア連邦からのチェチェン共和国の分離独立を求めた争いであった。このように、「民族的多様性の確保」と「ロシア連邦の維持」という2つの命題の微妙なバランスの上に成り立つのがこんにちのロシアである。

 2021年6月、筆者が一時滞在したロシアは、新型コロナウイルスなど、どこ吹く風という雰囲気だった。街中では人々はマスクを外し、ショッピングモールやレストランに入っても、感染対策を施している雰囲気はなかった(なお、7月に入ってデルタ型変異株が流行し、最近はロシア国内での感染対策が厳しくなっている)。

 筆者はかねてより世界の茶文化に興味があり、ロシアの多様なお茶文化を見てみたいと思っていた。「ロシアンティー」という言葉が日本でも受け入れられていることからわかるように、ロシアには紅茶文化が存在する。というのも、ロシアはかつて、世界における茶の流通に大きな役割を担っていたのだ。ロシア帝国時代には、「茶の道」とも呼ばれる、中国の北京から欧州の諸帝国を結ぶ一大通商ルートが出来上がっていた。今回筆者は、その通商ルートをたどり、独自のお茶文化が花開くロシア連邦内の3つの共和国を訪ねた。各地での体験を通して、民族が独自の文化を維持することの意味と、その難しさについて考察したい。

現在のロシア領内を横断していた、かつての「茶の道」(概略図)
 

ヨーロッパ唯一の仏教国

 最初に訪れたのはカルムイク共和国。ちょうどロシアの民芸品マトリョーシカのように、国の中に国が存在するのがロシア連邦である。共和国である以上、政府も省庁も首都機能もある。共和国の首長も選挙で決められる。ただし、ロシア連邦政府や省庁の権限が強いため(外交は全てロシア連邦の大統領が担う)、共和国首長の権限は制限されている。実態としては、日本で言う「知事」に近い。

 カルムイク共和国の一番の特色は、「ヨーロッパ地域唯一の仏教国」ということだ(ヨーロッパとはなにか、という問いはいったん置いておいて)。モスクワから飛行機で2時間、地図で確認するとすぐにわかるが、モスクワよりもトルコのイスタンブールに近い。首都のエリスタ市内には点々と寺院が存在し、中でも中央寺院はその中心的な存在である。ダライ・ラマ14世もエリスタ市を数度訪問しており、人口わずか30万人程の小さな共和国ではあるが、その歴史は決して浅くない(なお、ダライ・ラマのカルムイク訪問は2004年を最後に止まっているが、地元の人いわく“中国の影響”だという)。

 世界史を既習された方なら、オイラトという民族がいたことを覚えている人も多いだろう。彼らが17世紀に居住していたジュンガル(現在の新疆ウイグル自治区一帯)を離れ、ロシア西部ヴォルガ川一帯をカルムイク・ハン国としたのがロシアにおけるカルムイク人の歴史の始まりだ。文化もモンゴルの影響を強く受けており、母語であるカルムイク語もモンゴル語に近い。街中を歩く人々は、日本人に顔つきが似ており、筆者も何度か現地の人に間違われた。余談だが、第二次世界大戦後にソ連に抑留されて、その後日本に帰国することなくカルムイクの地に移り住み、「カルムイクのサムライ」と呼ばれた中川義照氏が4年前に亡くなった。現地の人々の中には、中川氏のことをカルムイク人だと思い続け、その死後に日本人だと知った人もいるそうだ。

カルムイク共和国の位置
 

 カルムイクの歴史は壮絶だ。今でこそ共和国としての立場を確保しているが、それまでの道のりは決して平坦ではなかった。ロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世はカルムイク・ハン国の権利を大幅に制限し、これに反発した人々が1771年にジュンガルに帰還。ロシア帝国内のカルムイク人は大幅に減ってしまう(ジュンガルに戻ったカルムイク人の末裔は、文化消滅が心配される新疆ウイグル自治区及び内モンゴル地域に暮らしている)。また、その後成立したソビエト連邦では、第二次大戦末期の1943年、スターリンがチェチェン人やクリミアタタールなどの少数民族に対独協力の嫌疑を負わせ、民族そのものをシベリアや中央アジアに強制移住させるという大弾圧を行った。カルムイク人もそうした弾圧を受けた民族の一つで、1943年12月根こそぎ遠く離れたシベリアへ流刑にされ大勢の人々が亡くなった。現在ロシアに暮らすカルムイク人の家族史を繙けば、どの家庭でも流刑の話が登場する。筆者の友人のおじいさんは、第二次世界大戦を生き延びて祖国に戻ったところ、家族がいないことに気づき、その後2年間ソ連領内を探し回ってようやく再会できたということだ。こういったエピソードがごまんと存在する。

モスクワに住むカルムイク人の家庭で、伝統的な料理をご馳走になる筆者(中央) 写真・筆者提供
 

消えつつある独特の文化

 このような苦難を乗り越えながらも、独特の文化は脈々と受け継がれてきた。首都エリスタ市の遊牧民族博物館(Instagram:@muzeimongolii)では、カルムイク人の伝統を残す活動を行っている。筆者がお茶に興味を持っていると知った親切なカルムイク人が、現地のお茶文化を学ぶ機会を作ってくれた。

 まず、番茶を細かく刻み、熱湯を入れた大釜に浸し、沸騰させる。そこに水の倍量の牛乳を加え、塩、バター、場合によってはスパイスを加えて味を調える。そのまま10~15分間沸騰させながら混ぜれば出来上がりである。飲み方にも特徴がある。出来上がったお茶を99回混ぜる。この意味は諸説あるが、最後に器に注ぐ際に100回目(長寿の象徴)になるためだとも言われる。次に家の北側に鎮座する仏壇にお茶を出し、その後客人にお茶を出す。この時、出す方も出される方も両手を使わなければならない。客は、薬指を器に浸し、「天(現地語でテングリと呼ばれる)」「精神的存在」「大地」の順に茶を飛ばす。筆者も伝統衣装を着て、カルムイクのお茶を楽しませてもらった。

カルムイクの番茶はジョージア産。飲む時はこの塊を少しずつ刻んで鍋に入れる 写真・筆者提供
 

 しかし、400年の歴史を誇るカルムイクの文化は消えつつある。ロシア系住民との混血が進み、カルムイク語を話せる人の数は徐々に減っている。地元の人の話では、カルムイク人の30%程度しかカルムイク語を話せないという。グローバル化の影響により、地元の文化よりも欧米の文化に憧れを持つ若者が増えているのが現実だ。遊牧民族博物館でこんなことがあった。

 博物館の外で、民族衣装と弓矢の体験をさせてもらった時のことだ。衣装も旗も武器も全て、博物館の学芸員アレクサンドルさんの手作りである。そこに一人のカルムイク人の若者が通りかかり、筆者に「何をしているのか?」と聞いてきた。「カルムイクの文化を体験している」と答えると、「それの何が面白いんだ」と笑って歩き去ってしまった。アレクサンドルさんを気の毒に思い、とっさに「僕にとっては、とっても面白いよ」と声をかけたが、彼は真っ直ぐな目で力強くこう答えたのだった。「自分たちの文化が残るように、今日のために、明日のために頑張ろうと思う。私が生きている間は、カルムイク文化は消えることはない」。

 博物館を去る時、半日かけて私の相手をしてくれたアレクサンドルさんらにお礼をしようと、財布を取り出した。それに対して彼らは、「金は受け取れない。貴方は私達の文化を理解し、共に守っていく存在だ。だから、これからも私達の文化の良き理解者でいて頂きたい」と言った。これほど嬉しく光栄な言葉はなかった。少しだけではあるが、彼らの文化の中に入り込めた気がしたからだ。

独自の文化を絶やさないため、静かに情熱を燃やすアレクサンドルさん 写真・筆者提供
 

文化なき愛国主義の危うさ

 アレクサンドルさんの言葉でハッと気付かされたが、文化の担い手は、結局は一人ひとりの個人なのである。各個人が直接的もしくは間接的にコミットする(≒関わる)ことで、その文化は次の世代に受け継がれていく。そこには、金銭的なメリットや、合理的なビジネスの発想は存在しない。ただ、「残さなければならないから、どんな手を尽くしても残す」という考え方で動いている。文化を守る、文化に関わるということは、その民族の精神的な内部に入り込むことだと思う。

 ただし、相手の文化に入り込むというのは、綺麗事だけでは済まない。時には人間の嫌なところも見てしまう。現地で仲良くなったあるカルムイク人の男性と散歩をしている時、彼の友人らしき人と出くわした。その友人が去った後、男性は「彼には、頭も良くて器量も良い美しい娘がいたが、カルムイク人ではなく外国人のところに嫁がせた。だから、彼は裏切り者だ」と苦々しい顔で吐き捨てた。文化に関わるというのは、暗いドロッとした感情も含めて、受け入れなければならない。だから、伝統文化を守りたいという気持ちがあっても、個人でもビジネスができる今の時代、「金にもならないのに、ややこしいしがらみに付き合っていられない」という話になってしまう。

 それでも筆者は、文化を守らなければいけないと思う。それは、自国の文化を誇ることができず苦労しているロシアを長く見ているからだ。ソビエト連邦という世界第2位の国力を持つ国が30年前に崩壊して以降、発展途上国の中の1つという地位に甘んじなければならない屈辱。かといって、「経済がダメでも、うちには文化がある」とも言い切れない。若者はロシアの文化を疎かにして、欧米の音楽ばかり聴いている。そうなってしまうと、自国民のプライドを保つために、漠然とした愛国主義に頼らざるを得ない。こんにちのモスクワ市内には「私達が一番だ」というポスターとともに、フィギュアスケート選手や60年も昔のユーリ・ガガーリンのポスターが街中に溢れている。

 筆者は、この種の欲求不満がいずれ、日本をも蝕むことを恐れている。今のロシアでは、この満たされなさを、お金で買えない価値を持つ「愛国心」というもので補おうとしているように感じる。日本も、「経済大国」の地位をいつまで保てるのだろうか。それが保てなくなったときに、日本人がどうなってしまうのか、恐ろしくて仕方ないのだ。

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執筆者プロフィール
徳永勇樹 イスラエル国立ヘブライ大学大学院・総合商社休職中社員。1990年7月生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。日本語、英語、ロシア語に堪能。ロシア語通訳、ロシア国営ラジオ放送局「スプートニク」アナウンサーを経て総合商社に入社。在職中に担当した中東地域に魅せられ、会社を休職してイスラエル国立ヘブライ大学大学院に留学しアラビア語とヘブライ語を習得。言語通訳者に留まらず、異文化間の交流を実現する「価値観の通訳者」になるべく情熱を燃やす。また、G7及びG20首脳会議の公式付属会議であるY7/Y20にも参加。2016年Y7伊勢志摩サミット日本代表、2019年Y20大阪サミット議長(議題: 環境と経済)を務める。イスラエル・旧ソ連地域について情報発信中。Twitter: @HakurakuJapan
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