「ニクソン・ショック」の教訓:国際社会の激動を見誤る勿れ

執筆者:樋泉克夫 2022年8月12日
エリア: アジア 北米
ニクソン・ショックの二の舞とならないために(C)Solodov Aleksei/shutterstock.com
ペロシ米下院議長の台湾訪問によって米中関係に緊張が高まっているが、国際社会は激動だ。50年前の「ニクソン・ショック」で米中の急接近に意表を突かれた日本は、その苦い経験から教訓を学ぶ必要がある。

 

 8月1日のシンガポールを皮切りに、マレーシア、台湾、韓国、そして我国を訪問した4泊5日のナンシー・ペロシ米下院議長による「突風」のような歴訪が終わった。ハイライトである台湾訪問をめぐって、我国のメディアでも「習近平政権への痛撃」から「習政権の権力強化に追い風」まで、あるいは「台湾の人々の心に響いた」との大賞賛から「政治家として個人的なレガシー作りにすぎない」との冷笑気味の評価まで、じつに幅広い見解が喧々囂々と展開されている。

 ペロシ下院議長の一連の言動は米中関係に実態的にどのような影響を及ぼしたのか。米中関係を系統的に追い掛けているわけではない筆者は、確たる考えを持ち合わせてはいないが、彼女が米中関係史を踏まえ熟慮と根回しを重ね、さらには将来への見通しを持ち、緊張高まる台湾海峡に正面から向き合ったうえで台湾を訪れたとは到底思えない。やはりアメリカのさる評論家が下した「長い議員生活の最後を飾るTwilight Trip(黄昏の旅)」との表現が実態に近いのではなかろうか。

「日本有事」をも想定した軍事行動

 しかし、たとえ「黄昏の旅」であったとしても、彼女の台湾訪問は習近平政権の強い反応を誘った。あるいは習政権の強硬姿勢に口実を与えてしまったことは想像に難くない。その顕著な一例が、彼女の離台日程にタイミングを合わせるかのように8月4日から7日までの間、台湾をほぼ包囲する形で中国側が敢行した空前の規模の軍事演習だろう。

 ここで気になるのが、4日に中国側が発射した弾道ミサイルのうちの5発が日本側の排他的経済水域(EEZ)内に落下した事態であり、7日から8日にかけ中国海警局の船舶が尖閣列島海域に領海侵犯を繰り返していることである。ことにミサイル落下に関し、台湾側が「中国側の目標は沖縄・与那国島のレーダーなど日本への攻撃を想定したもの」と分析しているとの報道である。

 かりに台湾側の分析が正しいとするなら、中国側は「日本有事」をも想定した軍事行動に踏み出した。ならば日中間では、故安倍晋三元首相が説いた「台湾有事は日本有事」を遙かに越えた異常事態が潜在的に進んでいることを考えておくべきではないか。もっとも台湾側の発言を勘ぐるなら、「台湾有事」に日本を巻き込もうとする底意が感じられなくもないのだが。

 台湾問題に詳しいジャーナリストのなかには「台湾の人々は中国からの圧力を恐れない。意気軒昂。民主主義に自信」などと台湾社会の“勇ましい姿”を、まるで羨望の眼差しで他人事のように伝える。

 だが、やはり問題は日本側の主体的対応にある。台湾にいかにコミットするのか。この点を、日本人は明確に自覚しておかなければならない。一般に米中関係における最大のネックは台湾問題とされるが、より大きな問題は日本の取り扱いだろう。1930年代から1945年まで続いた日中戦争が、形を変えた日米戦争の性格を――殊に蔣介石政権(国民政府)が重慶を臨時首都と定めた1938年以降は、より色濃く滲ませていたように、太平洋を挟んで対峙する米中両国が日本をどのように位置づけるのか。この点にこそ、米中関係における永遠のテーマが秘められているのではないか。

 そして台湾問題と日本の位置づけが米中双方の関心事として俎上に上ったのが、ニクソン訪中時の米中交渉であった。

あさま山荘事件と同時並行で進んだニクソン訪中

 時計の針を、今から半世紀遡った1972年2月にまで巻き戻してみたい。

 1972年2月21日、北京の軍用空港に着陸した米大統領専用機から降り立ったリチャード・ニクソン大統領は、出迎えの周恩来首相と固い握手を交わした。世界に衝撃を与えた「ニクソン・ショック」が表象化された瞬間である。アメリカ側から日本側に大統領の北京行きが伝えられたのは一行のワシントン出発の数時間前だったとも報じられているところからして、アメリカ側の秘密保持は厳格を極めていたことになる。

 一貫してニクソン政権の中国政策に追随し反中路線を堅持していた当時の佐藤栄作政権からすると寝耳に水。やはり“信義に悖る”といったレベルを遙かに超えた衝撃であったはずだ。もちろん、佐藤首相も個人的に中国政府と水面下の接触を試みていたフシは見られる。だが結果として時すでに遅し、であった。

 ここで日本人として思い起こしたいのは、ニクソン大統領の北京到着2日前の2月19日に「あさま山荘事件」が発生し、同大統領一行が中国を離れた28日に事件が一応落着したことである。あさま山荘の現場からTV中継される連合赤軍残党と機動隊の攻防戦のリアルな映像に日本中が文字通り寝食を忘れて見入っている間に、北京では国際社会の仕組みをガラリと換える話し合いが粛々と、ときに激しく、丁々発止と進められていたのである。

 あさま山荘事件と北京における米中交渉は、まさに同時並行的に進んでいた。当時、香港留学中であった筆者にしてみれば、やはりニクソン訪中の衝撃の方が断然大きかった。ニクソン大統領一行の中国滞在の間、香港の人々は中国から送られてくるTVのニュース映像に釘付けだった。自分たちの運命を左右することになるだろう米中両国のトップ会談の行方に関心を払わないわけにはいかないからであった。街を歩いても、歩道にヒトが群がっているのは例外なく電機屋の店先。誰もが店頭に置かれたテレビに見入っていた。

 一方の日本だが、あさま山荘周辺に事件発生以前の静寂が戻り、日本国民がTVの前から離れた時には、日本を取り囲む国際社会の構造は一変していたのだ。それも日本がかかわらない場所における話し合いの結果として。そのことに、果たして日本人は気づいていただろうか。

機密解除された米中交渉

 北京到着の21日午後、ニクソン大統領は毛沢東の私邸を訪問し1時間ほど話し合った後に会場を他に移し、アメリカ側(ニクソン大統領、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官、国家安全保障会議スタッフなど)と中国側(周恩来首相、葉剣英軍事委員会副主席、李先念副首相、姫鵬飛外交部長、喬冠華外交部副部長など)は1時間ほどを使って最初の全体会議を行っている。

 翌22日から28日までの間、前後5回のニクソン・周恩来会談を挟んで、キッシンジャー・葉剣英会談と2回目の全体会議がそれぞれ1回開かれた。数次の秘密解除措置を経て公開されているアメリカ側による詳細な記録は『ニクソン訪中機密会談録 【増補決定版】』(毛里和子・毛里興三郎訳 名古屋大学出版会 2016年)に見ることが出来る。

 この前後9回に及んだ米中交渉を記した同書からは、両国が剥き出しの利害を真正面からぶつけ合い、国際関係の微妙なアヤを巧妙に回避しながら、互いが持つ外交交渉における最高度の手練手管を駆使した虚々実々の駆け引きと共に、マスコミなどを通じて伝えられる揣摩臆測の類とは全く異質なリアルな外交の世界が浮かび上がってくる。

 そこで、台湾絡みで日本に関する両国首脳陣の発言を追ってみたい。

 以下、下線は1999年の機密解除時に抹消され、2003年11月になって抹消解除の後に回復された部分――この時の米中交渉中で最も機微に触れる内容と思われる――である。

米中間の懸案だった日本の台湾コミット

 ニクソンは周恩来に対し、こう語りかけた。

「我々の台湾でのプレゼンスが減少しても、日本が台湾に進出するのをやめさせるよう、我々の影響力を最大限行使する。日本が台湾独立運動を支持するのを思いとどまらせましょう。〔中略〕アメリカが日本に対し影響力を持っている限り――私たちは総理の政府と、この点については同じ利益を持っていますから――私たちは日本が台湾に出ていくことを望んではいませんし、日本がそうすることを思いとどまらせます」(同書39p)

 ニクソンと周恩来の間で、以下のやりとりも見られる。やや長文になるが肝心な部分と思うので、可能な限り忠実に引用しておきたい。

 周恩来は日本軍を台湾に入れさせない点を念押しした後に、こう表明する。

「米軍がいる間に日本軍を台湾に入れさせない。何があっても避けようとするでしょうが、抑止するには日本に軍隊を置いておくことが必要です」(188p)

 これに対しニクソンは、こう返す。

「日本にわが軍が在留している間は、そのとおりです。しかしわが軍がまだ台湾にいる間はという意味ですか」(188p)

 当時、台湾には米軍が駐留していた。そこで周恩来は米軍撤退後に「日本軍」の台湾へのコミットを危惧していたわけだ。そこで周恩来は「そう、米軍が台湾にいる間は、日本軍が台湾に入ることを抑えますか」(189p)と念を押した。これに対しニクソンは「それ以上のことをします。撤退したあとも日本軍を台湾に来させないようにします」(189p)と応じた。周恩来は相手に考える余裕を与える間もなく畳み掛けるように、「というのは、あなた方がまだ日本に軍隊を置いている間はということですか」(189p)と確認を迫った。ここでニクソンは「その通りです」と“白旗”を上げた後、「日本軍に我々の軍隊がいなければ、日本は我々のことを気にもしないでしょう」(189p)とまで語っている。

 周はニクソンに向かって、「我々は、独立した、平和で民主的な日本が立ち現れ、中国とアメリカに対して友好的な態度を示すことを望んでいます」(139p)との考えを示しながら、当然のように米軍の日本駐留に難色を示した。

 この周恩来の対応に対し、ニクソンこう答えている。

「我々の軍隊が日本から撤退すべきだという(周)総理の立場を知っています。〔中略〕私は在日米軍を撤退させません。なぜならば、日本を抑制することが太平洋の平和にとって利益になると私は信じるからです。私たちが話し合ってきた全ての状況が、我が軍の駐留を求めています」(186p)

 周恩来はこうも語る。

「(すでにニクソンに伝えたように)台湾が本土に復帰した後でさえ、我々には核基地を建設する必要がありません。つまり我々は台湾を日本に向けて使用しません。日本にはその点安心してもらいたい」(180p)

 もはや多くを重ねる必要はなさそうだ。米中間の懸案は「日本を抑制すること」であり、「日本軍」の台湾コミットということになる。ここにみる「日本軍」が自衛隊を想定したものなのか、前後9回に及んだ会談では米中双方共に具体的に言及してはいない。

ソ連という「共通の敵」で結ばれた米中

 ニクソン訪中のほぼ2年前に当たる1969年3月、中ソ国境紛争が勃発した。中ソ国境を流れる黒龍江(アムール川)支流の中州に位置する珍宝(ダマンスキー)島の領有をめぐり、中ソ両国の間で全面戦争一歩手前まで進んだ武力衝突である。中国側は内外に向け「大勝利」を打ちだしたが、実態は敗北であった。当時の中国にとっての最大の脅威は北方からのソ連の軍事的圧力であった。

 加えて激化するヴェトナム戦争という要因も忘れてはならない。それというのも、米空軍B-52による北爆がエスカレートし中国との国境に迫りつつあることで脅威を感じた毛沢東が、敵(ソ連)の敵(アメリカ帝国主義)と手を結ぶことで危機回避を狙ったからだ。

 これがニクソン訪中・米中和解の伏線であるが、とはいえ中国側としてもアメリカ側を簡単に全面的に信頼するわけにはいかない。

 そこでニクソン大統領は中国側の疑心を解くために、ソ連極東軍管区に関する詳細極まる「完全に信頼できる情報」(ニクソン/46p)の提供を申し出た。その結果、2月23日にキッシンジャー・葉剣英会談が開かれるわけだが、その席上、キッシンジャーは「我々が日本人に対していつも経験していますが、彼らは秘密を守ることができませんね。(笑い)」と語り、「日本の外交官に何か話すと彼は秘密を守ると誓いますが、それは七十二時間という意味です」(102p)と続けた。

 最終28日朝、上海の錦江飯店の大統領居室で行われたニクソン・周恩来第5回会談(最終)でニクソンは一連の会談を総括し、こう表明している。

「(周)総理と私はお互いに信頼感をもって、自国とソ連、インド、日本との関係を論じ合いました。私は、いかなることがあっても、これらのことが話し合われたと匂わすようなことを言って総理と貴政府とを困らせるようなことは決してしないと確言します」

 その直後、ニクソン大統領一行は中国を離れるが、この日、「ニクソン大統領の訪中に際しての米中共同コミュニケ(上海コミュニケ)」が公表された。

 雪と厳寒の軽井沢が久々の静けさに包まれた2月28日、日本を取り囲む世界は全く新しい風景に変わっていた。

国際社会の動きを捉えていなかった日本

 この日から7カ月後の1972年9月29日、田中角栄首相は周恩来首相と「日中共同声明」に調印している。はたして日中両国交渉過程で、中国側は「私は、いかなることがあっても、これらのことが話し合われたと匂わすようなことを言って総理と貴政府とを困らせるようなことは決してしないと確言します」とのニクソン大統領の“口約”を履行したのだろうか。

 それにしても前後8日間で9回の会談を重ねた米中交渉に対し、田中訪中は前後5日(25日~29日)とは短が過ぎるように思える。「拙速」の2文字が思い浮かぶ。

 当時の日本外交においては想定外の事態である米中急接近に対する備えを欠いたことによって生じた外交政策上の見切り発車が、現在に繋がる日中関係を様々な形で縛ってきたことを想起するなら、日本は世界を自己中心的に捉えることに狎れたまま、国際社会の動きを深刻に捉えることを怠っていたのではなかったか。

 あさま山荘事件にまで突き進んだ過激な新左翼活動を生みだした日本の社会風土が持つ“病理”に目を奪われるあまり、米中両国の手で進められていた国際政治の時代を画する動きに対し、日本は配慮を欠いてはいなかったか。日本社会が抜け出せない予定調和・前例踏襲という内向き姿勢を尻目に、大変貌を遂げた中国を軸にして国際社会は確実に地殻変動に向かったのである。

 翻って現在の日本では、7月8日の安倍元首相の横死を機に、「元統一教会」と政治とを結ぶ“不都合な真実”が次々に明らかにされ、「国葬」をめぐって甲論乙駁状態が続き、内閣改造を含む政局話がメディアを沸騰させている。その間、国際社会では、7月28日、ジョー・バイデン米大統領と習近平国家主席の間で電話会談が行われている。報じられるところでは台湾をめぐって双方で激しい応酬があったとのことだが、はたして1972年2月28日の錦江飯店におけるニクソン発言のような遣り取りはなかったのだろうか。

 岸田文雄首相は「聞く力」を自賛する。だが「聞く力」から「考える力」を経て「決断する力」に結びつかない限り、「聞く力」は意味をなさないはずだ。「聞く力」に留まっていては怯懦であり、「聞く力」も「考える力」も吹っ飛ばして一気に「決断する力」に突き進むことは短慮と言うべきだ。

 日本が対米戦争への道を踏みだし、東條英機政権が全軍に「戦陣訓」を示達した同じ1941年1月、F・D・ルーズベルト米大統領が在京米大使館に送付した書簡に、「我々が現在直面している問題は、あまりにも広く相互に連関しているため、それを説明しようとすると、五つの大陸と七つの海を基準にして考えなければならない」と記されている。

「戦陣訓」は「然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し」(「序」)と綴っているが、いま日本に求められているのは、「眼前の事象に捉はれて大本を逸」することなく、「五つの大陸と七つの海を基準にして考えなければならない」という姿勢ではないか。

 国民的関心が国内問題に集中するのは致し方がない。だが半世紀前に味わった国際政治における苦い経験を思い起こすなら、国内問題に関心を奪われてしまうことの弊害を忘れてはならない。やはり国際社会において主体的立ち位置を占めた上で日本の将来像を描こうとするなら、国際社会の新たな枠組みを求めて繰り広げられる関係諸国間の虚々実々の駆け引きに最大限の関心を払わなければならない。それが、1972年のニクソン・ショックが半世紀後の日本に教えている教訓だろう。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
樋泉克夫 愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。
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