プーチンが「核のボタン」を押せない事情

執筆者:古本朗 2022年11月1日
エリア: ヨーロッパ
「チェゲト」と呼ばれる、ロシアの「核のブリーフケース」。この中に発射ボタンはないという。写真のケースは1990年代にエリツィン大統領が使用した物で、現在はエリツィン博物館蔵 Photo by Stanislav Kozlovskiy CC BY-SA 4.0
ロシア・ウクライナ戦争の開戦以来、常に最大の懸念となっているロシアの核使用。だがプーチン大統領には、現実には「使えない」事情も存在する。

 隣国ウクライナに軍事侵攻したウラジーミル・プーチン露大統領が、戦場での劣勢挽回などを狙って核兵器使用の威嚇を繰り返したことで、国際社会の緊張は、米政権が米露核衝突の「アルマゲドン(終末戦争)の危機」に言及するほど高まっている。

 だが、一方でクレムリンの城壁内からは、核使用への執念と同時に、少なくとも現時点では、逡巡と自信喪失の気配も漏れ出ている。核のボタンに指をかけた独裁者に最後の決断をためらわせる事情とは何なのだろうか。

「アルマゲドンに近づいた」ロシアの核恫喝

「キューバ核ミサイル危機以来、我々がこれほどアルマゲドンに近づいたことはない」――ジョー・バイデン米大統領は10月6日、民主党支援者の会合で演説し、キューバへのソ連核ミサイルの配備をめぐり米ソが核戦争の淵に立った1962年の危機の歴史と、プーチン政権による核の威嚇で生起した現情勢を同列にみなし、米国内外に衝撃を走らせた。

 米大統領にここまでの危機認識を抱かせたのは、言うまでもなく、2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻開始を機に相次いだ、露大統領や側近たちによる数々の核恫喝発言だ。

 例えば、プーチン氏は侵攻開始の3日後、セルゲイ・ショイグ国防相らに対し「核抑止部隊の警戒レベル引き上げ」を命令。東部ハルキウ州の大部分を奪回したウクライナ軍の反転攻勢に押される格好で、9月21日に予備役将兵の部分動員を発表した際のテレビ演説では、「国家と国民の防衛のためあらゆる手段を行使する」と核使用の構えを示唆し、「これは虚勢ではない」と凄んで見せたのだ。

「核使用決定」か「断念」か

 実のところ、ロシアの専門家の間でプーチン氏の核使用の覚悟について評価は割れている。クレムリンのインサイダー情報発信でホワイトハウスなど欧米政権から注目される政治学者ワレリー・ソロヴェイ氏は10月19日配信の動画インタビューで、「露大統領は低威力の核兵器を使う決定を既に下した。彼は、西側の警告で怖気づいたりしない」と断言。「核の威力でデモンストレーション効果を狙うのではなく、直接、戦場の兵器として用いる気だ。攻撃目標にはドニプロ川に架かる橋梁が含まれる」と述べ、核攻撃決行の時期として「春」の可能性も挙げた。

 ところが、これまた露政権の内幕に強い政治評論家、アンドレイ・ピオントコフスキー氏は、10月17日配信の動画インタビューで「露大統領が核兵器を用いる可能性はほとんどゼロだ」と、ソロヴェイ氏とは真逆の判断を示した。理由の1つに、米側からの報復攻撃により「露大統領自身の殺害を狙うと宣告されたからだ」と指摘する。

 一方、露対外情報庁(SVR)筋による内部情報流しのチャンネルとも噂されるソーシャルメディア「SVR将軍」によると、露政権は10月7~20日の約2週間、自国内で実戦使用の前に核弾頭の性能を確認する爆発実験を7回計画していた、という。米欧が、度重なる核実験の試みを検知していたかは不明だが、事実とすれば、プーチン大統領の核兵器使用への執念が本物であることを示すものではある。

 ただし、7回の計画のうち実際に核弾頭が作動したのは2回だけで、それも技術的に成功とはいえず、あとの5回は計画そのものが延期されたという。「SVR将軍」の情報は、プーチン氏による核使用の実現可能性への疑念を浮上させる側面も併せ持つが、それについては後述する。

恫喝はKGBの常套手段

 米露間の核抑止体制は冷戦時代から、「核戦争を起こすと敵味方双方が滅びるので核は使えない」という相互確証破壊(MAD)理論に基づいて機能して来た。そのMAD理論の裏をかくようなプーチン氏の恫喝戦術は、実は旧ソ連時代からのクレムリンの伝統芸とみることができる。

 かつてソ連国家保安委員会(KGB)少佐として対米秘密工作に携わり、現在はプーチン批判の論客であるユーリー・シュベツ氏(KGBのスパイ養成機関でプーチン氏と同期だという。米国在住)が、最近の動画発信で解説するところによると、「(ソ連時代の)クレムリンには狂信的な連中が陣取っていて、要求を西側に拒否されると我が身の破滅を承知で核のボタンを押す」と印象付けるシグナルを米欧に送るのが常套手段だった、とする。

 プーチン氏は2018年にロシア国内で開催された国際会議の壇上、核戦争が起きたら「敵は単にくたばるだけだが、我々ロシアは殉教者として天国に召される」と、常軌を逸したような発言で内外に衝撃を与えた。クレムリンや出身母体KGBの伝統芸を地で行く核恫喝戦術は、この時から始まっていたのかもしれない。

 プーチン氏が核使用に踏み切るとすれば、その目的として考えられるのは、(1)核の強大な破壊力でゼレンスキー政権やウクライナ軍将兵を威圧し、ロシアに有利な条件での停戦交渉の席に着かせる(2)全面核戦争にエスカレートする危険を米欧に印象付け、ウクライナが停戦交渉に応じるよう圧力をかけさせる――の2つ。最も使われる可能性が高い核のタイプとして露政界関係者や専門家たちが挙げるのは戦術核兵器、つまり爆発威力が高性能火薬換算で1キロトン未満~数十キロトンと比較的小さいものだ。だが、死傷者数を少なく抑える工夫をして爆発させたとしても、現場を中心に、国境を越えて広がる放射能汚染など深刻な被害を引き起こす可能性は大きい。

NATO側は通常兵器で対抗

 バイデン米大統領は、核使用をチラつかせるプーチン氏に対し先月、『CBSテレビ』とのインタビューで、「Don’t(やめておけ)、don’t、don’t」と3回繰り返し警告。ジェイク・サリバン米大統領補佐官(国家安全保障担当)は、核使用はロシアにとって「悲惨な結末」を、アントニー・ブリンケン米国務長官も「恐ろしい結末」を招く、と威嚇含みの警告を発した。

 では、米大統領らの警告は具体的にどのような対抗策を指すのか。この問いには、デビッド・ペトレイアス元米中央情報局(CIA)長官、元欧州駐留米陸軍司令官のベン・ホッジズ退役中将の高官OB2人が、それぞれメディアとのインタビューで答えた。

 米政権を代弁するとみられる高官OBたちの説明をまとめると、ロシア軍の戦術核使用に対し、北大西洋条約機構(NATO)側は核ではなく、ロシア軍に比して優勢な航空部隊を含む通常戦力で対抗する。NATOの標的は、2014年にウクライナ領からロシアが一方的に併合したクリミア半島に基地を置く黒海艦隊と現地の露地上部隊で、壊滅的打撃を蒙らせる狙いだ。

プーチン「地下壕」も標的に

 先述したが、露大統領自身を報復攻撃の標的にするという米側の脅しも、プーチン氏を慎重にさせている気配だ。ドナルド・トランプ前米大統領の補佐官だったジョン・ボルトン氏は米テレビとのインタビューで、「プーチン大統領は適正な軍事標的としてリストに載っている」と明言。核使用を命じれば「彼は自殺の遺言に署名したも同然だ」とも語った。ロシア本土とクリミア半島を結ぶ戦略的重要施設である「クリミア大橋」が、ウクライナの破壊工作とみられる爆発で壊された以降もプーチン大統領が核報復に踏み切らない訳を、前出のシュベツ元KGB少佐はボルトン発言を踏まえ、「プーチン氏はビビったのだ」と読む。

 ちなみにプーチン氏は、米軍の攻撃を懸念して深く掘られた地下壕を転々として暮らしているとの噂があり、反体制派から「ブンケルヌィ・デェド(地下壕爺さん)」とあだ名されている。

 そのプーチン氏を米軍が狙う際に使う可能性を指摘されるのが、地下構造物の破壊目的で開発された核兵器B61-12だ。戦闘機F35などから目標へ投下されて地中に突入し、核爆発が起こす地震波で地下壕を潰す。弾頭の威力は0.3~400キロトンの範囲で調節可能である。ウクライナの軍事専門家オレグ・ジダーノフ予備役大佐は、米側がプーチン氏個人への攻撃に「自信を持つ根拠はB61にある」と推測する。

 プーチン氏の核恫喝が米露核戦争も覚悟した本音というより、クレムリンの伝統芸の演技だとすれば、露大統領を標的にする米側の脅しが効いている、という観察も頷ける面がある。

 戦術核に対し、通常戦力で露軍に壊滅的損害を与えるNATOの構えも、ロシア側に難問を突きつけている。ペトレイアス氏らの説明通りだとすると、それはNATOが対露核戦争に踏み込むことなく、露海軍の虎の子である4大艦隊の1つ黒海艦隊の喪失などロシアに手ひどい打撃を与える恐れを示すもので、露政権としては上策ではない。また、NATOの非核対応策は、戦術核を使ってもNATOは核戦争を恐れて反撃しない、との露側の手前勝手な期待の裏をかくものだ。

攻撃態勢に移れない可能性も

 核兵器使用の可能性をめぐるプーチン政権の出方を予測するうえで最も大きな要素は、ロシアが一方的に併合した東部のルハンシク、ドネツク、南部のザポリージャ、ヘルソンの計4州とクリミア半島の奪還を目指すウクライナ軍の反転攻勢の今後の展望だ。奪還間近とも報じられる南部ヘルソンを手始めに、露軍占領地が縮小するにつれ、追い詰められたプーチン大統領が核攻撃命令を発する危険も高まる、というのが国際社会の共通認識だ。

 だがここへ来て、プーチン大統領の願望や意思は別として、そもそも世界最大とされる露核戦力は、大統領命令によって攻撃態勢に移れる状態にあるのか、という根本的な疑問も提起され始めた。

 米ソは冷戦時代、頻繁に核実験を行ったが、その目的は核兵器の改良や新規開発だけでなく、保有する核弾頭群の安全性と性能が維持されているか、を実際に爆発させて検証する点にあった。だが、ロシアが最後に核実験を行ったのは旧ソ連末期の1990年10月で、既に30年以上にわたり、核実験による保有核弾頭の安全性、性能維持の検証は行われていない。

 前出「SVR将軍」の情報では、10月に計画された7回の核爆発実験は5回が延期され、核弾頭が作動した2回も不首尾だったという。事実なら、露核戦力のかなりの部分が正常運用出来ない状態にあるのを示唆するものだ。

 また、核兵器管理担当の将校たちが大統領の核使用の意向に抵抗して、サボタージュに動いた疑いも浮上する。政権内に情報網を張るとされる国際調査報道チーム「べリングキャット」の指導者フリスト・グロゼフ氏は、プーチン氏の威信低下を背景に、同氏が核攻撃を命じても配下の将校団は将来の法的追及への危惧などから、「そのような命令には従わないだろう」と予測する。

 時あたかも、火薬の爆発で放射性物質を飛散させ標的地域を核汚染させる、いわゆる「汚い爆弾」を、ロシア軍が、ウクライナの仕業に見せかけて使うのではないか、との疑念が生起している。この問題をめぐり関係筋の間には2通りの推論が浮上。「“汚い爆弾”使用の罪をウクライナにかぶせ、核攻撃の口実にする」との見方もある。一方で、「核弾頭の性能不安、あるいはサボタージュなどで攻撃態勢が整わず、中継ぎ策として初歩的技術で造れる“汚い爆弾”で脅している」との見解もないわけではない。答えはまもなく出るのかもしれない。

 

カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
古本朗 こもと あきら ジャーナリスト。『読売新聞』ニューヨーク特派員、モスクワ支局長、国際部長、取締役等を歴任。
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