なぜプーチンはグローバリズムに抗うのか――西洋対ロシア「文明の衝突」を読み解く|佐伯啓思の「現代文明論講義」Vo.3

「皇帝の権力と対抗する市民社会」という論理がないロシアは、「西洋の一員になろうとしたが、なりきれなかった国家」だと佐伯氏は指摘している。マルクス主義という最先端の社会理論を取り入れ、西洋に対するコンプレックスを払拭したはずのロシアが、アメリカの拡散する価値観によって画一化されて行く冷戦後世界で覚えた危機感と反発。ロシアによるウクライナ侵略が「自由主義」対「権威主義」の戦いという構図では回収しきれない理由がここにある。(聞き手・杉谷和哉 岩手県立大学総合政策学部講師)

*佐伯啓思氏の講義をもとに編集・再構成を加えてあります。

 

「自由主義」対「権威主義」

杉谷和哉(以下、杉谷) ウクライナ戦争が始まって1年(編集部注:この講義の公開は2023年3月10日)。ロシア軍は一時キーウに迫ったものの、ウクライナ軍の抵抗により、一進一退の攻防が続いています。

 その間、日本では様々な論調が見られました。これは「自由主義」対「権威主義」の戦いである、日本は西側の一員として自由民主主義を守らなければならない、という見方がある一方、これはアメリカが仕組んだ戦争である、という見方もあり、混乱した状況にあると思います。

 佐伯先生は極端な議論から距離をとりながらも、ウクライナ戦争に関する論考を発表し続けておられます。今の状況をどうご覧になっていますか。

佐伯啓思(以下、佐伯) 西側の自由民主主義を守る戦い、あるいは専制国家、強権国家との戦いであるという見方が圧倒的に強いと思います。またそれに異を唱えるつもりもありません。ウラジーミル・プーチンがいきなりウクライナを侵略したことは間違いなく国際法違反。病院等を爆撃しているのも人道的に相当問題がある。

 ただ、西側の「自由民主主義」対「権威主義」の戦いという理解で終わらせると、大事なことが抜けてしまうと思います。

 まず第一に、NATO(北大西洋条約機構)は直接戦争に参加していません。だから、西側の自由民主主義対権威主義の戦いである、という見方はちょっと行き過ぎていると思います。ウクライナの独立を守る戦いを西側が支援しているに過ぎず、「ならず者国家が西側陣営を攻撃している」という図式に回収できない。

「自由民主主義」「法の支配」「人権」「公正な市場競争」といった西側の考え方が普遍的な価値とされたのは、冷戦以降のことです。ただ、これらを「普遍的な価値」と呼ぶことに抵抗を感じます。

「普遍(universe)」という単語の元になったラテン語「universum」は、「unus」と「versus」という言葉があわさったもの。「unus」は「一つ」、「versus」は「ある方向に向きを回転させる」という意味。つまり、「普遍(universe)」という単語は、「(多様な)いろいろなものをある一定の方向に方向づける」ことを表します。また、「unus」は英語の「unity」の語源でもあります。「unity」とは統一化、画一化すること。つまり、「普遍(universe)」という単語には「多様な物事を画一化する」というニュアンスも含まれている。

 冷戦崩壊以降の「グローバル化」とは、まさにこの「画一化」の動きでした。「自由民主主義」等のアメリカの価値観が唯一の普遍的な価値として世界を画一化する中で、「多様なものを多様なまま一つの方向に方向づける、まとめていく」意味は失われていったのです。

世界は「文明の衝突」に戻ったのか

杉谷 冷戦崩壊時に、グローバリズムの時代を占う2つの指針が登場しました。それがフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」です。

 フクヤマの「歴史の終わり」とは、自由民主主義が勝利し、対抗するイデオロギーがなくなる以上、発展も戦いもなくなる。これで歴史が終わり、これ以降の歴史はない、という考え方。対するハンチントンの「文明の衝突」とは、世界にはまだ複数の文明圏が存在しており、仮にイデオロギー闘争が終わったとしても、文明圏同士の衝突は今後も続く、というものです。

 一見して正反対にも見える2つの概念ですが、改めて見ると、今の世界は「文明の衝突」に戻ったという気もします。

佐伯 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり?」という論文を書き、世界的な論争を巻き起こしたのが1989年。その3年後にフクヤマが書いた本が『The End of History and the Last Man(歴史の終わりと最後の人類)』(邦題:『歴史の終わり』)。

 ただ、その後すぐ、西側陣営はイスラムとの戦いに直面します。だからその時点ですでにフクヤマの説は現実と異なってしまっている。その後も西側陣営は北朝鮮、中国、プーチンなどの脅威にさらされ続けています。

 ではフクヤマは間違っていたのかと言うと、そうとも言い切れない。今回の戦争がウクライナの勝利に終わり、ウクライナのNATO加盟が実現すれば、リベラリズムの大勝利ということで、やはりフクヤマが正しかったということになる。

 大事なのは、フクヤマの言う「歴史」とは、本当に普遍的なものなのか、という点です。

 フクヤマの『歴史の終わり』は、ヘーゲルと、ヘーゲルを解釈したコジェーブの思想をもとにしている。特にコジェーブの影響が非常に強い。

 ではヘーゲルとコジェーブは何を言ったのか。簡単に要約すると、人間とは「自由」を求めるもので、「自由」こそ決定的な価値だ、ということを言っていたわけです。

「自由」とは「何者かに隷従しないこと」を指します。それは同時に「人に命令されなくても自分で判断できる」ことでもある。自分で自分を律し、道徳的な問題についても自分で判断して自分で決めることができる。それがヘーゲルの考える「自由」です。

 ヘーゲルに先立つカントの哲学においても、「道徳的義務」を自律的に果たすことこそ「自由」であり、「人間の尊厳」とされていました。

 ヘーゲルの『精神現象学』には「主人と奴隷の弁証法」という議論があります。何者かが自分に襲い掛かり、隷従させようとした場合、人間は必ず自由を求めて戦う。戦えば死ぬかもしれない。だが人間はその恐怖に打ち勝ち、戦って尊厳を守る。「人間の尊厳」、および「自由」は生命より大事なのだ、というものです。

 コジェーブは独自の解釈をしています。

 強いものが登場し、弱い者を支配するのが歴史だ。強者と弱者、支配者と被支配者、主人と奴隷は、尊厳のために命をなげうって戦う。その戦いを繰り返すのが人間の歴史である。これを繰り返すうちに、人間の理性が高まり、相手を打ちのめし自らの優越性を示すための闘争はやめて、互いに認め合う体制をつくろうとする。それこそが近代の自由民主主義体制であり、フランス革命はそれを実現したものだ、というのです。

 フクヤマはこのコジェーブの思想を踏まえています。ただここで「自由」の内容が大きく変わっていることに注意が必要です。

 ヘーゲルやカントの考える「自由」とは、「何者かに隷従しないこと」であり、「自律的に道徳的義務を果たす」ことと同義でした。

 しかし、フランス革命以降の「自由」とは、権力から私自身の小さな領域を守ることを指しています。私の領域を誰かに干渉されない、権力や宗教的権威の命令を受けない。私の一番大事なものは生命であり、自分の財産。ゆえに、生命・財産を守ることこそ「自由」です。

 一方、物質的な面では公正な市場競争こそ「自由」です。経済活動の自由を保証し、人々が財産を増やすことに価値を置くのが、フランス革命以降の近代社会です。

フクヤマの歴史観は西洋の歴史観に過ぎない

佐伯 また、本当に「歴史の終わり」が来るのか、という問題もある。

「自由民主主義は素晴らしい」と万人が同意すれば、尊厳をめぐる闘争はなくなるかもしれない。ただ、そんな世界に人間は納得できるでしょうか。むしろ、波風の立たない人生には満足できず、人と争って自分の生きがいを見つけようとする人もいる。そういう人がいる限り、「歴史の終わり」ではない。

 もう一つ、「歴史の終わり」の時代には人間は家畜同然になってしまうともフクヤマは言っている。闘争を通じて自分を高めていくことがなければ、人は快楽を追求するだけの動物になってしまうというわけです。

 このフクヤマの歴史観が妥当かどうかは措くにしても、果たしてこれが「普遍的な歴史観」と言えるでしょうか。西洋独自の歴史観でしかないように思います。

杉谷 ロシアをどう見ればいいでしょうか。日本はこれまでロシアをヨーロッパの一部のように見てきましたが、お話を伺っていると、かなり違うようにも思います。

カテゴリ: カルチャー 社会
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