【前回まで】制服組の切迫感を肌で感じつつ、要望書を上げるという井端の提案に、磯部は同意できなかった。財務省では、周防たちが臨戦態勢を想定して、補正予算の算定を始める。
Episode4 カナリア
13
目が覚めた時、どこにいるのか、分からなかった。
眼鏡を掛け周囲を見渡して、ようやく草刈は自宅の寝室だと理解した。
いつ、戻ってきたのだろう。
防衛省のプレスルームで、朝まで粘るはずだったのに……。
そこで、ようやく頭が現実に戻った。
時計を見ると、午前10時前だった。
保育園の送りの時刻を、とっくに過ぎている。
慌てて起き上がると、貧血を起こして、座り込んでしまった。
今度は、ゆっくりと立ち上がって部屋を出たところで、母と顔を合わせた。
「あら、もう起きちゃったの?」
「希の保育園!」
「和彦[かずひこ]さんが、行ってくれましたよ。だから、もう少し休んでなさいよ」
「私、何時に帰ってきたの?」
「ちょっと、しっかりしなさいよ。6時半よ。ちょうど私が散歩から帰ってきたら、まるで幽霊みたいな形相でハイヤーから降りてきたんでしょ」
ダメだ、全然覚えていない。
「とにかく、寝なさい」
いや、ダメだ。もう出かけないと!
それだけは分かっているのだが、スケジュールが思い出せない。
草刈は寝室に戻ってスマホで、今日の予定をチェックした。
これだ! 11時、砂防会館、荒巻[あらまき]先生!
20分で準備をして、自宅を出た。
荒巻東十郞[とうじゅうろう]は、保守党防衛族のドンと呼ばれる人物だ。
亀井に挑発されたこともあり、「誰が戦争を止められるか」という記事を書いてみたいと思い、未明の防衛省プレスセンターから、思いついた相手数人に依頼書を送った。
最初に返信が来たのが、荒巻だった。
80歳近いはずだが、朝早くからメールをチェックしていたことに驚いた。
荒巻と会ったのは、草刈が山形支局勤務の頃だから、12年前だ。入社3年目で、衆院選挙に山形選挙区から出馬する際の抱負を取材したのが縁だった。どういうわけか、草刈を気に入ってくれて、山形でも、年に数回、さらに東京本社に戻ってきてからも、年に1度は会っている。
そういう気安さがあって、草刈は自身の問題意識をまっすぐに、荒巻にぶつけてみたのだが、即座に“ぜひ、私もお話ししたい”という返信があったのだ。
ハイヤーの車中で検索してみると、ネットは大沸騰中だった。
多くが政権の弱腰を詰っている。中国の横暴に、「一発お見舞いしてやれ」と怒り、「腑抜けの政権は、世界に笑われる。強いニッポン復活待望!」と勇ましいコメントが続く。
新潟に北朝鮮のミサイルが着弾寸前という事態が発生して以来、日本社会には、「勇ましい発言」ばかりが増えている。平和主義者は、「意気地がない」と徹底的に非難されたせいか、SNSでは、ほとんど発言を見かけなくなった。
そして、昨日の中国軍の“蛮行”で、国民はさらにヒートアップしている。
早く冷静な言葉を、発しなければ!
焦りばかりが募る中、ある女優の発言を見つけた。
“みなさん、少し冷静になりましょう。昨日、起きたのは事故であり、中国が日本を攻撃したわけではありません。
戦争からは、何も生まれません。
それより、私は今こそ、中国と対話する時だと思います“
綾部望美[あやべのぞみ]――。団塊世代のマドンナとして一世を風靡した女優で、衆議院議員を一期務めたこともある。女優としての仕事は引退しているが、ずっと核兵器廃絶のための活動を続けていることで知られている。
どこか偽善者に見えて、今まで余り信用していなかったのだが、取材してみようと思った。
文化部の記者に、綾部の連絡先を教えて欲しいとメールを送る。
官邸前をハイヤーが通過した時、デモ隊が取り囲んでいるのが見えた。
「何ですか、あれ?」
運転手に尋ねると「総理辞めろって、叫んでいるみたいですな」と答えた。
「まったく、物騒な世の中だ。臆病な総理で、いいじゃないですかねえ」
来月で定年退職だという運転手の発想も面白かった。
「世の中、勇ましい総理がお好みみたいだけど、松中さんは、そうじゃないの?」
「変に自己主張が強い人や、人気取りのために勇ましいことを言う奴なんて、信用できませんよ。私は、何もできないんなら、臆病が一番だと思いますけどね」
ハイヤーが砂防会館の車寄せに滑り込んだ。……
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