
ハマスの奇襲直後からガザ地区への激しい空爆を続けてきたイスラエル軍は、3週間後の10月27日から28日にかけて本格的な地上作戦に着手。北東部、北西部、東部中央の3方向から侵入した部隊はガザ北部の市街地を取り囲むように展開。11月6日現在、北西部から海岸線を南下した部隊が急速に進軍し、一部で市街戦が始まっている。ガザ北部にはまだ約40万人の住民が残っており、巻き添え被害の拡大が懸念される。
この状況は、そもそも10月7日にハマスともう一つのガザの民兵組織「パレスチナ・イスラム聖戦」(PIJ)がイスラエルを奇襲したことが原因だが、奇妙なことがある。
ハマス軍事部門「カッサム旅団」は、もともとそれほど戦闘力の高い集団ではなかった。かつては完全な地下組織で、せいぜい少数メンバーがイスラエルに潜入して自爆テロを行うくらいだったし、ハマスがガザを支配するようになって部隊化した後も、イスラエル軍の追撃を回避するため常設の軍隊とはならず、身元を秘匿した数人の「細胞」を最小単位に編成する秘密組織スタイルがとられた。
組織的な戦闘訓練はさほど行われず、大人数の部隊単位で緻密な作戦を遂行するような体制も作られなかった。侵入してきたイスラエル軍と戦う際も、せいぜい地下トンネルを駆使したゲリラ戦を個別の小部隊が行う程度で、緻密な作戦に則った統制のとれた戦いはできなかった。
しかし、今回は違った。約2年をかけて入念な作戦を立て、秘密裡に準備を行ったのだ。たとえばイスラエル側の盗聴を逆手にとって、故意に相手を油断させるような会話を聞かせるなど、徹底した偽装工作で自分たちの作戦の準備を隠した。イスラエル側の警備の弱点を研究し、奇襲と同時にイスラエル側の電話通信施設をドローンで破壊し、隔離壁を監視する無人カメラや遠隔操作機関銃を封じた。壁の爆破から襲撃、制圧、人質拉致などの手順も事前に充分に訓練されていた。2年前までのカッサム旅団とは違い、戦術レベルが大きく向上していたのだ。
ハマス軍事部門に接近したイラン
では、カッサム旅団はどのようにしてこれほど強化されたのか。じつはカッサム旅団には“師匠”がいる。イランのイスラム革命防衛隊の対外工作機関「コッズ部隊」だ。
もともとカッサム旅団の初期の戦闘員には、90年代にコッズ部隊が運営していたイラン国内の訓練所、あるいはコッズ部隊と連携するヒズボラが運営するレバノン・ベッカー高原の訓練所、あるいはコッズ部隊が当時イランの友好国だったスーダンで運営していた訓練所などで軍事訓練を受けたパレスチナ人が多くいた。そうした人脈から、カッサム旅団とコッズ部隊の関係は最初から緊密だった。
ただ、当時のハマスの資金源はイランよりも湾岸産油国のイスラム系財団や海外在住パレスチナ人からの寄付金が主流で、政治的にもサウジ情報機関との関係が強かった。しかし、2000年代に入って組織の政治部門である政治局をシリアに置いた頃から、同国と友好関係にあったイランとの関係が深くなり、湾岸産油国や国際社会からの資金の多くがパレスチナ主流派組織「ファタハ」に流れるようになると、イランがハマスの最大の支援国になった。現在ではハマスの唯一の後ろ盾がイランと言っていいほどで、とくにカッサム旅団への軍事支援はほぼすべてがコッズ部隊とヒズボラによるものになっている。
2年にわたる奇襲作戦の準備期間中も、コッズ部隊はカッサム旅団を支えたはずである。コッズ部隊はこれまで長年にわたって多くの外国の武装勢力を支援してきたが、単に武器や資金を渡すだけというやり方はしない。テロや戦闘の訓練をし、組織拡大の手法などまで指導するのだ。
今回のハマスの奇襲にコッズ部隊がどういった関与をしたのかは不明だが、カッサム旅団の側が一切、指導や協力を求めなかったとは考えにくい。情報戦や謀略工作にかけては歴戦のプロ集団であるコッズ部隊の影が、今回の周到な作戦にはやはりちらつくのだ。
最高指導者直属の謀略のプロ集団
ここで、コッズ部隊について解説しておきたい。
この部隊はもともと1980年代のイラン=イラク戦争時の革命防衛隊の特殊部隊を母体に、同戦争終結時の1988年に設立された。任務は海外での秘密工作で、具体的には海外でのテロ工作と、外国にイスラム革命を広げる「革命の輸出」である。後者の具体的な活動が、外国のイスラム主義者の人脈をリクルートし、組織化し、武器を与えて訓練し、武力闘争を指導することだった。

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