
人口約50万人のミコライウは、ウクライナ南部だと百万都市オデーサに次ぐ規模の街である。黒海から南ブーフ川を数十キロさかのぼった河岸の高台に位置し、古くから造船の街として知られた。ソ連時代は閉鎖都市として外国人の訪問が禁じられ、空母「キエフ」「ミンスク」はいずれもこの街の「黒海造船工場」で建造された。現在も、欧州有数の造船所や国立造船大学を抱えている。
筆者がこの街を訪れるのは2度目である。前回の2022年9月はまだ、隣接するヘルソン州のドニプロ川右岸が解放されておらず、そこに陣取るロシア軍から発射されるミサイルやロケット弾に、街は苦しんでいた。通常だと発射から着弾まで何分かの合間があるため、人々は警報を聞いて避難できる。ところが、ミコライウはロシア軍陣地から近すぎるため、発射後すぐに着弾してしまう。着弾した後に警報が鳴り出す始末だったという。開戦から前回訪問時までの197日間で、ミコライウが攻撃を受けなかったのは29日間に過ぎなかった。多くの市民は脱出し、普段の3分の1程度の人口になった街で見かけるのは、軍人とお年寄りばかりだった。
市内に5校ある大規模大学に被害が集中し、この時に会見した州知事のヴィタリ・キムは「大学への攻撃はわけがわからない」と話していた。

飲料水のない街
もう一つこの街の当時の難点は、飲料水が確保できないことだった。ドニプロ川の水源地施設をロシア軍が占領して破壊したため、水道水が濁って飲めなくなったのである。この時は、ボランティア団体が郊外の井戸から水をくみ上げ、市内で配給する活動に、同行取材した。井戸だけでは足らず、隣のオデーサ州からも車に乗せて水を運んできていた。毎日こうして配られる水は、街に残った人々の生命線となっていた。

今回訪れたミコライウは、避難していた人々が戻って、ごく普通の地方都市の活況を示していた。商店は概ね開き、バスも市電も走り、人々は朝普通に職場に出勤していた。日中の風景は、キーウとさほど変わらない。
状況が劇的に改善されたのは、2022年11月にヘルソン州西部が解放され、ロシア軍の陣地が遠のいたからである。今でもミサイルやドローンはたまに飛んでくるが、発射地点から距離があるため、逃げる間も無かった以前ほどの切迫感はない。

一方で、水道水はやはり濁ったままだという。地元オンラインメディア『ニクヴェスチ』の記者アリサ・メリカダミヤンは「飲み水もシャワーもまだだめですね。水道をつくり直さないと問題は解決しません」と話した。飲料水は相変わらず配給で、ボランティア活動も続いているという。ただ、流通が回復したので、ミネラルウォーターのペットボトルなどは手に入るようになった。
4月26日にヘルソン市を訪ね、拷問被害者から聞き取りをした筆者らは、約1時間車に揺られて夕方、ミコライウに引き揚げてきた。宿泊先は、南ブーフ川に面したオプティマ・ホテルである。河口に近い川は入り江のように広く、夕日が反射してまぶしい。まだ夕暮れには早く、周囲を30分ほど散歩する。
近くには市電の終点があり、高台の中心部からゴトゴトと電車が降りてくる。水辺の小さな埠頭で、男たちが釣り糸を垂れる。隣のカフェのテラスは、恋人たちと家族連れが占領する。その光景に、戦争の影はほとんどうかがえない。筆者が泊まるホテルにも欄干付きのテラスがあり、川の眺めがよさそうだったが、改修中なのか小さな足場が組まれていた。

翌日、今回のヘルソン訪問の案内役を務めてくれた元ヘルソン州知事アンドリー・プティロウ(52)の体験を、ミコライウ市内の事務所で聞いた。彼自身が、ロシア軍占領時の拷問被害者である。

水は1杯だけ
ヘルソン州が占領されて1カ月ほど経った2022年4月5日、アンドリーはヘルソン市の自宅から、妻と2人の子どもを避難させた。自らも避難しようと考え、夜に自宅で荷物をまとめ、食料も用意した。出発する予定の翌朝4月9日、午前7時か8時ごろまで寝ていると、ロシア軍がやって来て拘束された。

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