殺人犯・クラシコフの釈放に固執したプーチン政権の損得勘定

執筆者:名越健郎 2024年8月19日
エリア: ヨーロッパ
チェキスト(情報機関員)は永遠にチェキストであり、海外で逮捕された工作員をロシア国家は絶対に見捨てない――。プーチン大統領はそれを誇示したかったようだ(C)SGr/stock.adobe.com
冷戦後最大規模となる囚人交換で、プーチン政権は殺人犯としてドイツに収監されていたワジム・クラシコフの解放に固執した。政権の指示でチェチェン独立派を殺害したクラシコフの釈放は、工作員の士気を高めるうえで不可欠だからだ。今回、ロシアが欧米の倍の人数を釈放したことが譲歩の印象も与えているが、無実の市民の解放のためにロシアの重罪犯を釈放した西側は多くの問題を残している。ロシアが米国人を逮捕し工作員の交換釈放の条件にする「人質外交」も懸念される。

 米露両国など7カ国が関与した計24人の囚人交換が8月1日、トルコのアンカラ空港で行われ、ロシアは米国人記者や元米海兵隊員、反体制活動家など16人を解放、欧米側はスパイ罪などで収監中の8人(未成年者を含めれば10人)を引き渡した。冷戦後最大規模の囚人交換であり、ロシア・ウクライナ戦争下でも情報機関を介した米露交渉が機能したことを意味する。

 交換釈放は一方で、ロシア側が重犯罪者の奪還に成功するなど課題を残した。ロシア側が最も解放に固執したのは、ドイツで殺人罪を犯して終身刑を言い渡された連邦保安局(FSB)工作員のワジム・クラシコフ受刑囚(58)だった。そこには、情報機関出身のウラジーミル・プーチン大統領率いる特異な諜報国家ぶりが見えてくる。

愛国者を取り戻す

 プーチンは1日夜、モスクワのブヌコボ空港に特別機で到着した10人をレッドカーペットで出迎え、握手をして肩を叩くシーンを、ロシアのメディアが大々的に報じた。プーチンは簡単な挨拶で、職務への忠誠に謝意を表明、「あなた方のことは一時も忘れたことはない」と述べ、今後勲章の授与やロシアでの将来について話し合うと約束した。

 真っ先に降りてきたクラシコフとは抱き合ったが、クラシコフは2019年、ベルリンの公園でジョージア出身のチェチェン共和国独立派の軍事部門指導者、ゼリムハン・ハンゴシビリを銃殺し、終身刑を受けた人物。白昼、多数の子供や母親のいる公園に自転車で乗り付け、ピストルで3発撃って殺害し、逃走した。銃やかつらを川に投げ捨てるところを児童らに目撃され、すぐ警官に逮捕された。

 ドイツ検察当局によれば、クラシコフはFSBの極秘部隊「ビンペル」の要員。ロシア当局の命令に従って行動し、犯行の1カ月前にFSBから偽のパスポートや資金を渡され、6日前にベルリン入りして機会を狙っていたという。クラシコフは犯行を否定したが、21年に終身刑が言い渡された。

 ドイツに亡命していたハンゴシビリはプーチン政権初期の第二次チェチェン戦争でロシア軍と戦う独立派部隊を指揮した。プーチンは今年2月、米ジャーナリスト、タッカー・カールソンとの会見で、「あの盗賊が何をしたか知っているか。捕虜になったロシア軍兵士を道路に寝かせ、その頭上に車を走らせたのだ」と述べ、クラシコフを「愛国的な動機からこの男を清算した人物」と形容し、必ず祖国に連れ戻すと話した。

 ロシアは2006年、過激派やテロリストを海外で超法規的に殺害することを認める法律を制定し、チェチェン独立派幹部らをしばしば殺害してきた。

釈放後はロシアで厚遇

 釈放後、ロシアのドミトリー・ペスコフ大統領報道官は記者団に、クラシコフがFSBの要員であることを初めて認め、FSBと米中央情報局(CIA)が交換釈放を交渉したと指摘。「多くの人々の努力の結果、彼らは祖国に戻る機会を得た」と語った。

 これまで交換釈放で帰還したロシアの工作員らはその後、国家によって優遇されている。

 米バスケットボールの著名選手と交換で米国から帰国した武器商人のビクトル・バウトは地方議会議員になり、ビジネスコンサルタントをしている。“裏切者”の元FSB工作員アレクサンドル・リトビネンコを放射性物質のポロニウムで殺害したアンドレイ・ルゴボイは下院議員になり、米国で非合法工作員をしていたエレナ・バビロワはノリリスク・ニッケルの顧問で、著作を出版した。同じく非合法工作員のアンナ・チャップマンは帰国後テレビタレントになり、西側批判の陰謀論を展開している。

 クラシコフら8人も「祖国への貢献」が評価され、厚遇されそうだ。

 交換釈放されたロシアの野党活動家、イリヤ・ヤシンは移送先のドイツのボンで記者会見し、「今度はクラシコフが海外にいるわれわれを殺しにやって来るだろう」と際どいジョークを飛ばした。

プーチンの元ボディーガードか

 オランダに本部を置く調査報道機関、「ベリングキャット」によれば、クラシコフはプーチンと射撃場で知り合い、プーチンが射撃練習するのを見ていたという。2014年のウクライナのマイダン革命では、抗議デモの現場にいたとされる。モスクワでは、BMWとポルシェの高級車を所有。2度結婚し、3児の父で、定期的に海外出張していたという。一部の西側情報機関は、クラシコフは以前、プーチンのボディーガードだったと見ている。

 プーチンは16年間旧ソ連国家保安委員会(KGB)に勤務したが、「チェキスト」(情報機関員)には退職がなく、永遠にチェキストといわれる。交換釈放実現により、海外で危険な任務に就き、逮捕されても、国家は絶対に見捨てないことを誇示し、工作員の士気を高める効果がある。

 プーチンはクラシコフ解放に全力を挙げるよう指示していたようだ。米紙「ニューヨーク・タイムズ」(電子版8月3日)は、「プーチンのKGBでの過去は、ロシア指導者としての彼のアイデンティティーの核心だ。それは囚人交換でも明らかだった」と指摘した。

 米紙「ワシントン・ポスト」(電子版8月1日)は、交渉に当たった米当局者の話として、「プーチンはクラシコフのことしか頭になかった」「クレムリンはクラシコフ解放のため、より多くの囚人を渡す用意があった」と伝えた。

 今回、欧米側は8人、ロシア側はその倍の16人を解放しており、ロシア側が譲歩した印象を与える。しかし、西側は、取材中に突然逮捕され、裁判で16年の刑が確定した米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」のエバン・ゲルシュコビッチ記者や、知人の結婚式でロシアに行った際逮捕された元米海兵隊員のポール・ウィランら無実の市民を解放させるためにロシアの重罪犯を釈放しており、多くの問題を残した。今後、ロシアが工作員釈放のため、無実の米国人を逮捕して交換釈放の条件にする「人質外交」に着手する可能性があるからだ。

バイデン政権との合意模索

「ワシントン・ポスト」や「ウォール・ストリート・ジャーナル」は交換釈放をめぐる米露交渉の内幕を伝えた。

 それによれば、プーチンは2021年6月にジュネーブでジョー・バイデン大統領と会談した際、両国の情報機関が囚人交換について話し合うチャンネルを作ることを提案。緊張緩和を望んだバイデン氏も同意し、2022年4月に最初の囚人交換が行われた。

 交渉はロシア・ウクライナ戦争下でも続けられ、投獄中の反体制運動指導者、アレクセイ・ナワリヌイとクラシコフの交換釈放の動きがあった。これは、ヒラリー・クリントン元米国務長官が働き掛け、バイデン政権も乗り気だったという。しかし、ナワリヌイは今年2月、極北の刑務所で謎の死を遂げた。

 交換釈放には、ベルリンでの殺害事件で国家主権を侵害されたドイツが抵抗したが、オラフ・ショルツ政権は①米欧の連携重視②ドイツ人囚人もベラルーシから釈放される③ロシアの著名反体制活動家が含まれる――ことから、超法規的措置に同意した。

 ロシアはドナルド・トランプ前大統領が大統領に復帰すれば、交換釈放が難しくなるため、バイデン政権との合意を望んだ模様だ。トランプは選挙演説で、「大統領に当選すれば、ゲルシュコビッチ記者は無条件でロシアに釈放させる」と述べており、クラシコフとの交換取引が難しいと判断したようだ。CIAとFSBはトルコで交渉し、7月に24人の交換釈放で合意に達した。

各国の内政的要因

 米ソ間では1985年、今回より多い計29人の交換釈放が行われた。それがミハイル・ゴルバチョフ、ロナルド・レーガン両首脳の信頼関係を築き、同年11月の米ソ首脳会談につながり、冷戦終結プロセスが始まった。しかし、今回はプーチン、バイデン両政権の内政上の打算が大きく、米露関係の転機になるとは思えない。

 ロシアの政治評論家、タチアナ・スタノバヤは米カーネギー国際平和財団のサイトに寄稿し、「今回の交換釈放は、離婚した夫婦が資産を分割するようなもので、ウクライナ戦争などへの影響はない。クラシコフを取り返したいというプーチンの強い希望を受けて実現したが、ロシアは野党指導者を何人か釈放し、譲歩しすぎと国内で批判を受けるリスクがある」と分析した。

 確かに、交換釈放は米露両国の内政的な要請が大きかった。プーチンは愛国主義や忠誠心をアピールする効果があったし、大統領選出馬を断念したバイデンも米市民救出の成果を掲げ、レームダック化を回避しようとしている。

 ロシアのジャーナリスト、アレクサンドル・バウノフは独立系メディア「メドゥーザ」(8月6日)で、「バイデン政権がプーチン政権から自国民を救出できたことは、カマラ・ハリス大統領候補にとって大きなポイントとなった。『民主党政権はプーチンと交渉する方法を知らない』というトランプ候補の批判をかわすことができた」と指摘した。

 ロシアの政治専門家、ミハイル・トロイツキー・ハーバード大学客員研究員は「メドゥーザ」で、「ロシアは今回、無実または微罪で逮捕した西側市民と、重罪で有罪判決を受けたスパイを交換する戦術が依然有効であることを示した。中国やイラン、北朝鮮がこのような囚人交換をしないことからすれば、ロシアの人道主義が中国などより優れているともいえる」と皮肉った。

情報機関が唯一のパイプ

 とはいえ、米露関係が最悪の中で情報機関同士の交渉が機能したことは一定の意味がある。

「ニューヨーク・タイムズ」によれば、交渉は1年以上にわたり、曲折や難航を経て、7月初めにウィリアム・バーンズCIA長官とアレクサンドル・ボルトニコフFSB長官が電話協議してまとまり、その後、CIAとFSBの高官がトルコで最終的に細部を詰めたという。この間、国務省と外務省の外交ルートは機能しなかった。

 クレムリンの内部事情に詳しいとされるロシアの独立系メディア、「SVR将軍」は8月2日、秘密交渉は長期化し、再三修正され、決裂の可能性もあったとしながら、今後も交換釈放が継続されると伝えた。

 米露間で唯一有効となった情報機関の交渉が、ウクライナの停戦交渉に生かされる可能性もないとはいえない。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
名越健郎(なごしけんろう) 拓殖大学海外事情研究所客員教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長、編集局次長、仙台支社長を歴任。2011年、同社退社。拓殖大学海外事情研究所客員教授。国際教養大学特任教授、拓殖大学特任教授を経て、2024年から現職。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミアシリーズ)、『独裁者プーチン』(文春新書)など。
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