本年4月23日、米国の独占禁止当局である連邦取引委員会(以下「FTC」という)は、競合他社への転職禁止を定めた既存並びに新規の条項(non-compete clause、競業避止条項)を違法、禁止とする最終規則を公表した。
競業避止条項とは、企業が労働者に対して退職後の一定期間、同業他社への転職を制限する契約条項を言う。この条項は職業選択の自由の制限となる反面、企業の機密情報を守る必要性から、欧米でも日本でも広く用いられてきた。
570頁で理論武装したリナ・カーン委員長
FTCを3年前から率いるのは、当時32歳の史上最年少でコロンビアロースクール准教授から委員長に就任したリナ・カーン氏である。アマゾンやグーグルなど、ネット検索サービスやデジタル広告分野で大きなシェアを占めるメガテックに対して厳しい姿勢で知られる。
リナ・カーンのFTCはここまでもっぱら、IT業界におけるメガテックの寡占状態がもたらす競争制限効果に関心を集中してきたかに見えたが、競業避止条項撤廃についても実に570頁にわたる詳細な分析報告書を公表している。まさにEBPM(Evidence Based Policy Making=証拠に基づく政策立案)の模範を示しており、反論は容易ではない。
具体的にFTCは条項廃止の効果として、毎年8500件の新規創業と1万7000から2万9000の特許を生み出し、労働者の所得は平均524ドル上昇するなど、米国の産業競争力強化を見込めるとしている。
最終規則公表後、米国内では3件の差止仮処分が申立てられ、6月にテキサス州連邦地裁でFTC敗訴、ペンシルベニア州連邦地裁ではFTC勝訴、8月にはフロリダ連邦地裁でFTC敗訴と続いた。8月20日にはテキサス州連邦地裁が略式判決を出し、9月4日に予定されていた最終規則の効力発生は当面延期された。
但し、テキサスでは競業避止条項廃止の政策効果が争われたわけではなく、連邦機関であるFTCが同条項の廃止をテキサス州の企業に強制することが出来るのか、という連邦政府の権限と、最終規則が個別事案を離れ一律に同条項を違法とすべきかという規制手法の妥当性が争われたに過ぎない。「州対連邦」で権限を争うのは、南北戦争で奴隷制の自由を主張して以来、南部諸州の伝統でもあるが、FTCは直ちに控訴する方針を発表して強気の構えを崩しておらず、米経済、世界経済を俯瞰すれば、国家を超える規模と影響力を持つに至ったメガテックと米国政府との相克は、より端的には司法省とFTCが、競争秩序をどのように捉え、規制等の政策に顕在化させるか、自由主義と民主主義をどのように具現化するかの試金石である。
注目される米大統領選への影響はどうか。民主党候補カマラ・ハリス副大統領は労働者の権利を拡張する競業避止条項の廃止(non-compete ban)を支持しており、ホワイトハウスもテキサスの略式判決当日、この政策を全面支持する声明を発表し、判決を事実上公然と批判した。反面、米国商工会議所(USCC)はテキサス判決を歓迎し、FTCの最終規則をマイクロマネジメント(経営判断への過剰介入)と批判する声明を出した。
子細に見れば、ハリス支持者の中心層は中・低所得の労働者層とされており、一方で競業避止条項の廃止の恩恵を受けるのは、他社からスカウトを受ける高所得労働者層(経営幹部は除く)で、共和党支持者も多いとされるから、この政策はハリス陣営にとって支持層の拡大につながるとも言われている。
これに対して共和党候補ドナルド・トランプ氏の方針は未公表だが、USCCの反論も、経営判断の自律性を守ろうとしているだけで、米国の経済競争力を強化するというFTCの570頁分の論証に効果的に反論することは難しい。FTCは今後、最終規則を一律禁止からより絞り込んだ規制に改訂することでUSCCの批判をかわすことも考えられ、会社から独立して起業する者を支援するこの政策は、同氏の看板であるMAGA(Make America Great Again「アメリカを再び偉大に!」)と一致するため、強く反対する理由はないと思われる。
こうしてみると、競業避止条項廃止という施策は最終的には党派的対立を超え、幅広い米国民の支持を受ける可能性もある。
プロスポーツと外資系金融で競業避止条項が使われない理由
競業避止条項が実際にはどのように機能するのか、具体的に考えてみよう。
長年特定の分野で経験とスキルを積み活躍してきた人材が、社長と折り合いが悪く、転職を考え始めた矢先、同業他社からスカウトされたとする。ところが競業避止条項の入った退職時の誓約書に署名させられ、その会社を転職先に選べなければ、退職金に上乗せした金額を手にする代わり、未経験の他社に転職して未熟練労働者となる。結果としてこの人材の経験とスキルは死蔵され、生産性は低下する。1年後に競業避止条項の効力が切れ、本来望んでいた競合他社に転職できたとしても、その間に新製品が出たり、市場環境が変わったりしてノウハウなどは陳腐化するから、少なくとも転職後当面の間は本来の実力を発揮出来ない可能性が高い。
例えば、大谷翔平選手が昨年まで活躍していたエンゼルスが、大谷との契約にこの条項を入れていたらどうなるだろうか。エンゼルスを退団した後、ファンは大谷のプレーを1年間見られず、大谷本人も身体のコンディションを維持することが難しいだろう。メジャーリーグ全体でも観客は減り、広告収入も下がるため、明らかな社会的損失となる。逆に言えば、大谷選手の代理人は移籍交渉の段階でそんな条項を拒絶するだろうから、契約に競業避止を盛り込むような球団は良い選手を集めることは出来ないのである。
ではプロスポーツマンとビジネスマンは別なのだろうか。
現実には、日本でも外資系金融業界では、その黎明期である1980年代から競業避止条項は全く使われず、退職前に3カ月程度の有給休暇(「庭いじりでもして下さい」という意味で通称ガーデニング・リーヴと呼ぶ)を挟むことで蓄積した情報等を陳腐化して他社に転職させている。これは、1年の競業避止条項を求めるような会社には敏腕トレーダーもバンカーも入社しないからで、競争力のある条件を提示する企業と、実力と経験を持つ人材とのマッチングが合理的に行われた結果、外資系金融は日本社会の中では例外的に、まさに米国並みの並外れて高い生産性を維持してきたのである。
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