「肥満内閣」の誕生
10月20日、2月の大統領選で勝利したプラボウォ・スビアントがインドネシア共和国第8代大統領に就任した。プラボウォ新大統領は、国民協議会(MPR)議員を前にした就任演説で原稿も見ずに熱弁を振るった。予定の20分を大きく上回り50分以上にわたった演説からは、悲願だった大統領職を手に入れたプラボウォの興奮が伝わってきた。
就任式を終えたプラボウォは、スマンギ交差点からジャカルタ中心部のスディルマン通り、ホテル・インドネシア前のロータリー、タムリン通り、独立記念塔広場を通って大統領官邸に入った。思い返せば、これらの場所は、1998年の民主化運動において最終局面の現場となった地域である。スマンギから5キロほど北上すれば、デモの学生たちが軍に射殺されるという事件が発生したトリサクティ大学がある。その事件がきっかけとなって発生したジャカルタ・コタ(中華街)での暴動の後、スディルマン通りやタムリン通りは車通りも絶え、この日と同じように歩行者天国と化していた。そして、プラボウォが大統領に就任した議事堂は、約3万人の学生や市民が屋根の上まで占拠し、スハルト退陣を求めて籠城した場所である。
プラボウォは当時、スハルト大統領の娘婿として最有力後継者のひとりであったし、陸軍戦略予備軍司令官としてトリサクティ事件やジャカルタ暴動の背後にいると指摘された人物である。その同じ現場を、プラボウォは国営兵器製造会社製造の真っ白なジープ型車両に乗り、ルーフトップから上半身を乗り出し、市民の祝福に手を振って応えながら通り過ぎていった。この光景は、民主化の時代が遠くなったことを強く印象づけた。
翌日には、大臣48人、大臣級の政府高官5人、副大臣56人からなる内閣が発足した。プラボウォはこの内閣をインドネシアの国旗を表す「紅白」内閣と命名した。さらに、大統領特別顧問や大統領直属の政府機関の正副長官など27人も任命された。
大統領選でプラボウォを擁立した9政党の国会における議席占有率は50%を切っていたが、政権移行期間に野党から2政党を切り崩したことで連立与党の議席占有率は70%にまで高まった。その一方で、選挙での勝利に貢献した政党や組織、人物への論功行賞に必要なポストの数も増加した。その結果が、136人にも達した政治任用の数である。現地メディアはこれを「肥満内閣」と揶揄している。
前政権の政策を継承するか
プラボウォ大統領は、選挙戦中からジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)政権の政策を全面的に継承すると訴えることで有権者の大きな支持を獲得し、当選を果たした。そのため、主要な経済政策は引き継がれる見込みである。例えば、ジョコウィの代名詞ともなったインフラ開発、ニッケルや銅、ボーキサイトなどの鉱物資源の輸出を禁止し、川下部門への投資誘致によって産業の高付加価値化を目指すという「川下化政策」、2060年のカーボンニュートラルを目指す気候変動対策、デジタル化の推進、条件付き現金給付プログラムなどの貧困対策などは、プラボウォ大統領も継続する姿勢を打ち出している。
ただし、ジャカルタからカリマンタン(ボルネオ)島への首都移転事業については、進捗のスピードは緩めざるをえないだろう。ジョコウィ前大統領は、新首都をインドネシア群島を意味する古語から「ヌサンタラ」と名付け、自らのレガシーとして任期中の移転開始を目指していた。しかし、任期最後の独立記念式典(2024年8月17日)を新首都予定地で開催することはできたものの、建設の遅れから任期中の首都移転を実現することはできなかった。プラボウォは、「ジョコウィ・プロジェクト」ともいえる首都移転事業を継続すると明言しているものの、1月から始まる2025年度の移転関連予算は前年度比65%減の査定となっている。プラボウォは大統領就任演説でも首都移転には一言も触れておらず、政策の優先順位が高いとは言えないだろう。
「ヒトへの投資」と広義の安全保障政策に独自色
これに対して、プラボウォが選挙戦の時から目玉政策として打ち出してきたのが「無料栄養食プログラム」である。
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