【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(7)陸前高田の「椿油」

執筆者:寺島英弥 2020年3月1日
タグ: 日本
エリア: アジア
津波の被災から間もない、2011年3月19日の陸前高田市内(筆者撮影、以下同)
 

 東日本大震災の津波でわが子を奪われた母親たちの心の軌跡をたどる本連載の【石巻編】を、昨年5月から6月にかけて6回で紹介させてもらった(連載一覧はこちらから)。

 被災地の遺族たちは、どんな思いで再び立ち、あの日からの歳月を生き、世の「復興」なる言葉を聞き、かけがえのない家族の喪失と向き合ってきたのか――。

 震災から丸9年となる岩手県の陸前高田を訪ねた。

「後は頼む」と言い残し

〈国土交通省のヘリコプターの空撮映像によると、陸前高田市は全域が泥流に覆われ、建物が見えない。壊滅状態と言える。わずかに残ったコンクリートの建物の周辺でも人の姿が確認できない〉

 2011年3月11日に起きた東日本大震災。津波襲来直後の陸前高田市の状況を伝えた、翌12日付『河北新報』夕刊記事の一節だ。

 当時、同紙編集委員だった筆者が被災後の現地を訪れたのは、同月20日。震災をきっかけに書き始めたブログ『余震の中で新聞を作る』の6回目「三陸の被災地へ ・2日目/陸前高田」にはこうある(HP『人と人をつなぐラボ』所収)。その折に撮影した市内の画像と合わせてお読みいただけたら、と思う。

 

〈県境を挟んだ宮城・気仙沼から陸前高田、大船渡(旧三陸町も含む)を、こちらでは「気仙地方」といいます。三陸でも特に温暖で、風光明媚な浜の景色、冬も明るい日差し、そして椿の名所で知られ、人柄も穏やかでおおらか、といわれています。それもこれも海の豊かさのゆえん、と思います。その三陸をことごとく、大津波は襲いました。

 この日も、後方基地としている遠野の宿を朝早く出発。北上山地を越えて陸前高田に近づくにつれて、街へと流れる気仙川の上流(注・同市竹駒町)の風景はおびただしい木材、がれきに埋め尽くされました〉

〈避難所を後にした車は、市街地に入ります。いや、3月11日まで市街地があったところ、と言い換えるべき惨状でした。

 釜石や大船渡と地形が少し異なり、陸前高田の中心部は海に向かって拓かれた平地です。浜には防波堤があり、昭和20年代から、防風防潮のための松が延々と植えられました。いつのころからか「高田松原」という名勝にもなりました。大津波はそれらのはるか上を越え、なぎ倒し、平地の中心部の大半をのみ込みました。

 ですから、高台がある他の街のように難を逃れ得る場所は少なかったのです。木造で残った家は見当たらず、コンクリートの3、4階の建物だけが廃墟のように立っています〉

 

 そのころ石川秀一さん(71)と妻春枝さん(70)は、高台の市立第一中学校に設けられた避難所にいたという。

 石川さんは、現在の「奇跡の一本松」に近い、海岸から1キロほどの同市気仙町中堰の農家だった。稲作や野菜栽培、椿油の製油を営んでおり、津波で自宅をはじめすべてを流された。

 あれから10年目を迎える3月11日を前にした取材に、秀一さんが運命の時を振り返った。

「肌寒い日だった。午後3時から稲作関係の会議が予定にあり、車で向かう途中に大地震が来たので、津波を心配して引き返した。春枝と息子の政英=当時(37)=は畑のビニールハウスにおり、家で落ち合った。中はいろんなものが落ちて散乱し、めちゃめちゃだった」

 政英さんは、市の消防団長を務めた父の後を継いで気仙分団の班長もしており、津波に備える役目があった。

 近くの気仙川に架かる姉歯橋を鉄の扉で閉鎖、遮断し、通行車両の避難誘導をしなくてはならず、大地震から20分ほど過ぎたころ、

「俺、消防(団)に行く。後は頼むからな」

 と言い残し、家を飛び出した。春枝さんはその言葉と声を1日も忘れたことがない。

「それが最後でした。その時、とても気になった。『後は頼む』なんて、どうして言ったのか」

病院屋上からの生還

 秀一さんと春枝さんは政英さんのお嫁さんと一緒に、小学校に行っていた3人の孫を心配しながら近くの岩手県立高田病院に急いだ。高い建物がない地元で病院は唯一4階の高い建物で、当時の石木幹人院長が「3階を災害時の避難所に開放します」と決めてくれた。

 秀一さんは1960年のチリ地震を体験し、津波の潮位が姉歯橋の堤防すれすれに上がったのを覚えていた。しかし3階に上ると、窓の外には見たこともない光景があった。

「真っ黒いビルが立ち上がったようで、そのまま土煙を巻き上げるように津波が来た。海岸の松が流されてきて病院に突き刺さるようにぶつかり、その度、窓ガラスをこなごなにした。数えきれない車も流れていた。津波は病院の4階も超えたので、屋上に上がった。

 入院患者も自力で歩いたり、背負われたりして逃げ、浮いたベッドから助け上げられた人もいた。動けない患者の夫から『俺はいいから逃げろ』と背中を押され、助かりながら『お父さんを置いてきた』と泣く奥さんもいた」

 陸前高田を襲った津波の高さは15メートル前後に達し、約130人が避難した屋上にあとわずかまで迫った。

 秀一さんの回想は続いた。

「まわりは海になり、屋上の小さな建屋のはしごに子どもたちがしがみついていた。津波は夜中まで『ゴーゴー』と音を立て、地獄のようだった。寒くて、院長から『燃やせるものは何でも燃やして暖をとって』と声を掛けられ、流れてきた机などで焚火を作った。

 自衛隊だったろうか、ヘリコプターが1度、乾パンとお茶のペットボトルを下ろしてくれ、『長期になるだろうから少しずつ食べよう』と1口ずつ腹に入れた。男たちは屋上で、女の人と子どもは屋上と4階の間で身を寄せ合って夜を過ごし、明くる日の夕方、自衛隊のヘリで助けられた。患者たちを優先し、私たちは一番最後だった」(高田病院での津波の犠牲者は患者12人、職員6人。職員住宅にいた院長の奥さんらも亡くなった)

 孫たちは小学校が避難させており、別の避難所に逃れた娘さん夫婦も秀一さんが探し出し、一中の避難所で無事に再会できたが、政英さんの安否だけは不明だった。

 それから10日余りが経ち、辛い知らせの電話があったという。

 秀一さん、春枝さんは市内の中学校に設けられた遺体安置所に行き、冷たくなった政英さんに対面した。「気仙分団」の半纏で、すぐに分かった。

「少しほっそりしたけれど、きれいな顔で、いまにも話しかけてきそうだった」

 と春枝さん。その時、隣で秀一さんは、

「笑った顔の息子だよ」

 と言ったそうだ。

春枝さんはこの政英さんの写真を肌身離さず持ち歩いている

 政英さんは、仲間3人と一緒に乗ったポンプ車ごと、橋桁だけの姿になった姉歯橋から1キロ以上も上流の竹駒町まで流されていた。消防団の務めを果たし、堤防の道を急いで避難する途中で遭難したのか。

「高田は平地で逃げ場がなかった。家並みの中だと、どこまで津波が来たのか見通しが利かず、分からずに話をしながら流された人もたくさんいた」

 秀一さんは深いため息をついた。

椿油と家族の歴史

 政英さんは高校を卒業後、市内の誘致企業の工場に勤めたが、1年ほどして東京に出向を命じられた。「東京に行くのは嫌だ」と辞めて農協のガソリンスタンドでバイトを始め、やがて本採用になった。

 だが秀一さんは、

「農協の仕事に本気になられては困る」

 と、後継者になってくれるよう説いたという。

 秀一さんは耕作受託も含め10ヘクタールのコメ作りをしてホテル、弁当屋にも販売し、40アールの畑とハウスではトマト、キュウリ、レタス、スイカなど多彩な野菜を栽培し、産直や道の駅、個人の客にも出荷していた。

 政英さんが農業を選んだのは震災の3年ほど前。家族経営協定を結んで働いた分の給料を出す方法で、春枝さんは経理を担当。2世代の夫婦と娘さんの忙しくも和やかで、にぎやかな家族農業だった。

 そして、石川家にはもう1つ、自慢の家業があった。

「石川製油工場」

 鮮やかな黄色の看板に目を引かれた。

 同市竹駒町のBRT(震災後、JR大船渡線のルートを運行するバス)駅の前に、石川さん夫婦が昨年2月に建てた椿油の製油所だ。

 焦げ茶色の壁面にも「石川製油 1955」の文字と、紅色の椿の絵。中に入ると、独特の甘い香りが濃く漂う。秀一さんは、集荷のかごいっぱいの椿の実を手にすくってみせた。親指の先ほどで、黒、褐色、深緑と渋みのある色だ。

集められた椿の実。圧搾して油を採る

 実は硬いが、大きなラッパ口のついた機械に投じて磨り潰し圧搾すると、淡い琥珀色の油が流れ出てくる。それを溜めて雑物を濾過すると、純度100%の椿油になる。瓶詰めの設備もあり、原液はいくつもの蛇口から細長いガラス容器に詰められ、おしゃれな「気仙椿」のラベルを艶やかな黄色で輝かせる。

「椿油にはオレイン酸(動脈硬化の予防など多様な効果がある)がたっぷり。健康になるよ。私たちは毎日食べてるよ」

「残った搾りかすも、いい肥料になる。自然の恵みで商売をさせてもらってるの」

搾油機の前で、かごいっぱいの椿の実を見る石川さん夫婦(「石川製油所」にて)

 2人は顔を見合わせ笑顔をこぼしたが、そこに至るには、これまで語られた2011年3月11日の出来事を挟んで、長い家族の物語があった。

 陸前高田など気仙地方は温暖で椿の名所だと、冒頭で紹介したブログに書いた。昔からヤブツバキの実から自家搾油した伝統があり、日本の北限の椿油といわれる。

 昔は実を蒸して潰し、布に入れて手作業で搾った。地元の人たちが椿の実を持ち込み、家庭の油にしていたという。この地方で1955(昭和30)年、初めて本格的な製油所を開いたのが秀一さんの父、正雄さん(故人)だった。

「農家の長男だった父は、青年団仲間と農業機械の展示会を見にゆき、新しい技術を生かした家業を興そうと考えたそうだ。1つが米粉の製造、もう1つが椿の製油だった。油を搾る機械を大阪の会社から買い、気仙町に小さな工場(こうば)を作った」 

「私が小学1年のころだ。椿の実が採れるのは晩秋からで、農閑期の収入源にしようとしたんだ。まだ教習所もない時代、東京まで運転免許を取りに行って中古トラックを買った。親戚の農家のおばさんらに実を集めてもらい、いっぱい積んで回ったんだ。7キロの実から1升(1.8リットル)の油を搾り、買いに来る人が必要なだけ量り売りをした」

津波から6年後の再起

 石川製油所の椿油は、

「てんぷらの味が良く、何度使っても悪くならず、最高の油」

 と評判になった。料理のほか髪油や肌の保湿油、「気仙大工」の名で知られる伝統職人の道具、機械や金物類のさび止めにも重宝された。

 ただ、正雄さんが年齢を重ねると継続に難しさも見えた。家業の農業とともに、秀一さんが石川製油所を受け継いだのは1992(平成4)年。

「そのころは父が高齢で集荷がままならなくなり、実の収量も年ごとに多寡があり不安定で、実を採る人も少なくなった。食用油にも安くて多様な商品が出てスーパーに並んだ。小さな製油所を続けるかどうするか、先行きに悩み深い時だった」

 ちょうどそんな折、隣の大船渡市の農業改良普及所から、

「気仙地方の特産品として、柿酢、気仙茶(江戸時代から伝わる在来の茶)と椿油を3点セットで売り出したい」

 と後押しする企画をもらったという。

 秀一さんは、瓶詰めの椿油を初めて作って売り出した。その商品名が「気仙椿」。人手不足だった実の採取は、近隣の老人クラブに声を掛けると、収入にもなり、喜んでやってもらえた。

石川さん夫婦が作る「気仙椿」

「小学校のPTAに協力をお願いし、子どもたちに『宝物が落ちてるんだよ』と言うと、郷土学習も兼ねて目を輝かせて参加してくれた」

 ネットでの観光物産PRも加わり、遠方からも注文が届くようになった。

 経営の苦心を重ねた秀一さんの励みは、農業後継者に育った政英さんの意欲だった。製油所の3代目にもなるべく伝統の技術を学び、秀一さんは未来を信じ搾油機を更新した。

「息子は、機械のトラブルも直せるくらいになっていた」

 といい、頼もしさも増したころに、あの大津波が来た。

 自宅と田畑、手塩にかけた製油所も跡形なく奪われ、次代を託した政英さんを亡くした。夫婦が生きる希望そのものだった。

「石川製油工場」の黄色い看板だけが、気仙川を遡った津波に運ばれたのだろうか――。

 偶然、政英さんが乗っていたポンプ車の発見現場の近くで見つかったという。いわば形見の看板となったが、その連絡をくれた知人に、秀一さんは「処分してくれ」と伝えた。春枝さんも「見たくない」と言った。もう製油所はやらない、と2人は決めていた。

 その後、廃業の話を聞いた市内の就労支援事業所から、

「障害のある人たちに搾油技術を引き継がせてほしい」

 と依頼が寄せられた。役に立てるならと、秀一さんと春枝さんは震災の翌年から、椿の実の搾油と商品作りの指導に通うようになった。「被災地で伝統技術を守る活動」と表彰状も贈られた。

 だが、施設を訪れたり、商品を買ってくれる人の多くは昔なじみの客で、口々に「いつまでここにいるの?」「人の施設でやるなら、また始めたらいい」「応援するから」と2人に声を掛けた。

「励まされたことのうれしさ、『何をやっていたのか』という悔しさが込み上げた」

 と秀一さん。ついに再起の時が来る。

あの「黄色い看板」を再び掲げた石川秀一さんと春枝さん

 商工会の応援をもらって、被災地を支援する国の中小企業グループ化補助金(費用の4分の3を補助)を申請したうえに自己資金も工面。「1300万円もする」という新しい搾油機を買った。

 竹駒町に土地を求めて、プレハブの仮工場で椿油作りを再開したのが2017年12月。

 当初は夫婦で椿の実を集めて歩いた。現在の石川製油所が落成したのはその1年3カ月後だ。

 黄色い看板も入り口に掲げられた。「処分」を秀一さんから頼まれた知人が、そうするに忍びなく、復活の日のために内緒でしまっていたのだ。

「再開した冬は150〜160人くらいの常連のお客が戻ってきた。『よかったね、待ってたよ』と言ってくれた」

いつも一緒に生きてゆく

 石川さん夫婦が長女の家族と暮らす現在の家は、新しい製油所から車で5分ほどの山あいにある。「もう海を見るのが嫌になった」という春枝さんの気持ちもあり、竹駒町の海抜40メートルほどの土地に縁を得て、建てて4年目になる。

「本当は工場も山の方にしたかったが、商売は交通の便の良いところでないとね」

 と秀一さん。

 庭にハウスを1棟建て、秀一さんは野菜を作る。中をのぞくとトマトの緑の芽が伸びていた。

「震災前はトマト1000本を栽培し、毎朝収穫に追われてた。いまは遊びみたいなもの」

 昨年、たった40アールだが、新たに区画整理された水田で9年ぶりにコメを作った。秀一さんの農家の血も健在だ。が、いま眺める陸前高田は「復興」から遠い。

 わずかな震災遺構を除いて、昔の街のよすがはなく、記憶を埋めるように高さ10メートルを超えるかさ上げ(土盛り)がされた人工の土地が広がる。その一角に開業して3年近くの大型商業施設「アバッセたかた」や、今春開館の新奇な姿の市民文化会館が立ち、飲食店や商店も少しずつ増えてきた。

 だが、住宅はまばらだ。

 かさ上げ工事にあまりに長い歳月を要した復興土地区画整理事業を、被災者の多くは待ちきれず市外に移住し、新たに生まれた土地の6割以上が利用見込みのない「空き地」になる状況だという。

 石川さん夫婦はその街で再び生きていこうとしている。

「ここでまた商売をできるのも、商工会員グループをはじめ、いろんな人の縁があったからこそだ」

 春枝さんは、台所で鍋に煮込んでいたけんちん汁を木の碗いっぱいに振る舞ってくれた。

石川家の味、けんちん汁。椿油をたっぷり入れる

 たっぷりの豆腐、大根、ニンジン、ゴボウ、ジャガイモ、コンニャク、鶏肉に、味噌や醤油の味がよく染み込んでいる。

 その味をさらにまろやかにし、甘みを深いものにしているのが椿油だ。とろりとした舌触りは初めて知るものだった。これが石川家の味、政英さんを育てた味だと思った。

「いい子だった。うちの息子はいい子だった」

 と、春枝さんが箸を置いて言った。

「親から年の順に逝くのは仕方ないけれど、自分が産んだ子を先に亡くすほど辛いことはない。何もしないでいると、おかしくなってしまう。夜も眠れなかった。だから、こうしていろんな人が来てくれて、助かってるの。力をもらって前向きになれるの」

「私はこの家に嫁に来て54年、ご先祖様にご飯とお茶っこを上げてるんだけれど、毎日報告するの。きょうはこういう人が来てくれたよ、と政英に。きょうも、あんたも一緒だからねって。あんたは背が高いけれど、いまは私があんたを背負ってるんだからねって。いまは悲しいけれど、あの世さ行くまでこの気持ちは変わらないのだろうけれど、『そのうち私が逝ったら、その時はあんたと一緒になれるよ』と言ってるの」

 秀一さんも残された親として、やりきれない痛みを味わった歳月を語った。

「震災の後、うちにも取材の人たちが来たんだ。取材拒否をしたよ。毎回毎回同じことを聞かれて、とてもとても、こちらはその度、3月11日に戻されてしまう。それが嫌で、門前払いをしたことがある。これ以上、私たちを困らせないでくれ、とお断りしたこともある。悪いけれど、私たちはあんたたちの見世物ではないんだ、と。

 でもね、いまはこうして仕事を再開できて、いろんな人から助けられて、また前向きに生きようという気持ちでいる。2度とこのようなことが起きないように、問われたら伝えようと思っている」

 秀一さん夫婦にとってうれしいのは、合わせて6人いる孫たちの成長だ。政英さんの娘は立派な大学生になった。一緒に暮らす中学生の孫は、野球の岩手県選抜チームで全国準優勝を経験し、高校も決まっていた。

「とても良い子でね。まこちゃん(政英さんの愛称)に似てるね、息子と孫を一緒に育ててるようだね、と人に言われるの」

 と、春枝さんは目を潤ませた。

「政英もいい子だった。大人になっても口答えをしたことがなかったな」

 と秀一さんもしみじみ語る。

 毎年3月11日が近づくと、「後を頼むからな」と言い残した政英さんとの別れ際が、何度も何度もよみがえるという。

「なんで、あんなことを言ったんだろう」

 という、永遠に答えのない思いとともに。

「たまに夢に出てきてくれて、『ああ、お兄ちゃん、逢えてよかった……』という時がある」

 と、春枝さんは泣き笑いの顔をした。

「震災前の普通の姿でね。こんなに元気でいたんだなと思い、目が覚めると、ああ、夢だったんだな、と。政英は何も語らないけれど、『何かに気をつけろよ』と伝えてくれてるのかな、と1人感じて、『何も心配ないから大丈夫だよ』と仏さんに向かって言うの」

 春枝さんがいつも携えるバッグには、ハンカチでくるまれた、政英さんの凛々しい表情の写真がある。朽ちることのない椿油の香りのように、「いつも一緒に生きていく」。

津波から9年。いまも大規模な復興工事が途上の陸前高田市内=2020年2月12日
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執筆者プロフィール
寺島英弥(てらしまひでや) ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)、『二・二六事件 引き裂かれた刻を越えて――青年将校・対馬勝雄と妹たま 単行本 – 2021/10/12』(ヘウレーカ)、『東日本大震災 遺族たちの終わらぬ旅 亡きわが子よ 悲傷もまた愛』(荒蝦夷)、3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/
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