「コロナ接触確認アプリ」でスルーされている「プライバシーと公益」議論

執筆者:大西康之 2020年8月7日
タグ: 新型コロナ
エリア: アジア
新型コロナウイルスの感染者と濃厚接触した可能性を通知するスマートフォン向けアプリ「COCOA(ココア)」。感染者と接触があった場合に利用者へ通知し、早期の検査につなげて感染拡大を抑えるのが狙いだが…… (C)時事

 

 新型コロナウイルス接触確認アプリ「COCOA」をご存知だろうか。スマホの近接通信機能(Bluetooth)を利用して、ウイルス感染者と接触した可能性を検知し、登録者に通知するアプリで、政府が6月中旬にリリースした。

 新型コロナの感染拡大が始まってから、中国を皮切りに各国で同種のアプリが導入されているが、運用方法は国によって異なる。

 日本のCOCOAは利用者のプライバシーに最大限配慮し、氏名や電話番号の登録すら求めない。プライバシーをほとんど顧みず、感染拡大防止に重きを置く中国の対極にある。
プライバシーか安全か――。接触確認アプリは各国政府に究極の選択を迫っている。

『健康コード』が通行手形

 「新型コロナウイルス感染症対策テックチーム」担当の平将明内閣府副大臣は7月31日、COCOAに関するグループインタビューを開いた。6月中旬にリリースされた同アプリのダウンロード数は、7月31日午後5時時点で約996万件だった。

 「意外と多くの方にインストールしていただけたと思っています」

 リリースから半月で1000万人近くがダウンロードした結果について、平副大臣はこう評価した。陽性者の登録は76件あり、アプリで接触の可能性があると分かった人の中から実際に感染した人が見つかったケースが1件ある。

 しかし、「感染拡大を防ぐ」という意味では物足りない。日本大学生産工学部が実施したシミュレーションでは、

 「人口の半分がアプリを利用し、感染者との接触を通知された人が外出を半分にすれば(何もしなかった場合に比べ)感染者は半減する」

 という結果が出た。

 翻ってアプリ利用者が人口の10%ほどでは、感染者が減少する期待は持てない。つまりCOCOAに威力を発揮させるためには、現在の約1000万人をどれだけ早く5000万人程度まで持っていけるかどうかが勝負になる。

 接触確認アプリでいち早く大きな成果をあげたのが、中国だ。新型コロナの感染拡大が本格化した2月、中国政府はIT大手「アリババ・グループ」にアプリの開発を依頼した。アリババは傘下の電子決済サービス「アリペイ」のアプリをベースに、わずか1日で接触確認アプリ「アリペイ健康コード」を作り上げたと言われている。

 ダウンロード数などが公表されていないが、北京在住の中国人の知人はこう話す。

 「中国では『健康コード』が事実上の通行手形になっていて、これがないと公共交通機関は利用できないし、スーパーやレストランにも入れない。周りでダウンロードしていない人はいない」

 人口約14億人の中国では9億人近くがスマホ・携帯電話のユーザーとされ、その大半が「アリペイ健康コード」や、同じくIT大手「テンセント」が開発した電子決済サービスの「ウィーチャット・ペイ」をベースに開発した「ウィーチャット健康コード」を利用していると見られる。

 例えば地下鉄のドアの脇やレストランの入り口にはQRコードのステッカーが貼ってあり、利用者はそれをスマホで読み込まないと中に入れない。この段階で「足跡」がつく。
後日、その地下鉄車両やレストランに感染者がいたことが判明すると、瞬時に利用者の健康コードのランプが緑から赤に変わる。健康コードは電子決済アプリや位置情報サービスと連動しているので、政府は感染者と接触した可能性のある人物が、どこで何を買ったかまでリアルタイムで追跡できる。

 アリペイやウィーチャットには電話番号が登録されているので、コードが赤に変わるとすぐに当局から電話がかかってきて、検査を受けるよう指示される。検査を受けて陰性が確認されるまでコードは赤のままなので、外には出歩けない。

「国民の1人として真っ平御免」

 中国政府は5月8日、「新規感染者が出ても24時間以内に集団感染(クラスター)の追跡を完了できるようにする」という方針を公表した。さらに、地方政府ごとに異なっていた健康コードを統一する方針も明らかにした。

 これで健康コードに関する全てのデータは、中央政府のサーバーで一元的に管理される。かくして健康コードは、「完璧な監視ツール」になった。保健所の情報をファックスでかき集めている日本とは、およそ次元が違う。

 コロナ禍を契機に、監視社会へと突き進む中国。だが私が知る限り、国民の対応は拍子抜けするほど前向きだ。

 中国ではアリペイやウィーチャット・ペイを経由して、電話番号や位置情報が政府の手に渡っているのは周知の事実。健康コードをダウンロードする時も、「個人情報はどうせ握られているのだから、今更、隠す必要はない」というのが一般的な反応だ。

 さらに言えば、生まれた時からインターネットに囲まれて育った若い世代を中心に、土地と同じようにデータも国の管理に委ねる「データ共産主義」を是とする価値観も育っている。

 位置情報などの個人データは、個々人が持っていても意味をなさないが、国家がビッグデータとして一元的に管理すれば、テロ対策や交通渋滞の解消など有益な形で社会に還元できるという考え方だ。

 一方、日本はどんな考え方でCOCOAを開発したか。平副大臣はこう語った。

 「新型コロナの脅威にあっても、どうやって自由主義や民主主義、プライバシーの配慮を維持するのか。そういう大きな命題を背負いながら、アプリの開発を進めた」

 「コロナがあったからといって、中国のような社会になるのは、国民の1人としても真っ平御免だ」

  その結果、COCOAは世界でも有数の「プライバシーに配慮した接触確認アプリ」になった。最大の特徴は2つの「オプト・イン(そのアプリや機能を使うかどうか利用者が決めること)」にある。

本人の意思を尊重

 まずCOCOAをダウンロードするかどうかが、オプト・イン。政府はテレビCMなどを通じ、

 「感染拡大を防ぐため、みんなでCOCOAを使いましょう」

 と呼びかけるが、決して強制ではなく、ダウンロードしなくても罰則はない。

 もう1つは陽性者の登録。これも本人の意思に委ねられ、登録の義務はない。名前や電話番号を入力する必要はないので、個人が特定される心配はないのだが、あくまで本人の意思が尊重される。

 接触確認アプリにおけるプライバシー保護の強度は、国によっていくつかのグループに分けられるが、プライバシー保護の度合いが最も強いのが、位置情報機能を使わず、データを国のサーバーで管理せず、名前も電話番号も登録しない日本である。ドイツやスイスが同じグループに入る。

 2番手が英国とフランス。位置情報機能を使わず、名前や電話番号は登録しないが、データは国のサーバーで管理する。

 3番手のシンガポールとオーストラリアは、電話番号を登録させ、国のサーバーでデータを管理する。

 4番手のイスラエル、インドはスマホの位置情報機能を使って、利用者の居場所を特定する。

 最もプライバシー保護の度合いが弱い中国では位置情報、決済情報、名前、電話番号、職業、渡航歴などを政府が中央のサーバーで一元的に管理する。

 プライバシー保護の観点では、日本のCOCOAが最もよくできている。だがデータサイエンス的に見れば、プライバシーを大幅に制限した中国の健康コードがデータ量で他を圧倒しており、政府はビッグデータを解析することで様々な対策を打ち出せる。 

 日本政府もそのことは認識しているようで、平副大臣はこう語った。

 「中国にはいろんな知見が貯まるでしょう。それは、国際社会へ、しっかりフィードバックをしてくださることをお願いしたい」

 ギクシャクした日中関係の中でそんな虫のいい話が通用しないことは、承知の上での発言だろう。

 国には国民の生命・財産を守る上で必要な場合、私権を制限する権限がある。一方で私権を制限した場合、それによって国民が被った被害を保障する義務が発生する。

 私権の制限から最も遠いポジションを取ったCOCOAは、プライバシー保護の面では満点かもしれないが、未知のウイルスから国民の生命を守るという面での効力はあまり期待できない。

 コロナ禍は、各国でインターネット時代における私権と公益のバランスを真剣に考え、議論する契機になっている。だが、死者数が少ないなど大惨事に至っていない日本では、今回もまたこの議論はスルーされそうである。
 

カテゴリ: IT・メディア 政治
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執筆者プロフィール
大西康之 経済ジャーナリスト、1965年生まれ。1988年日本経済新聞に入社し、産業部で企業取材を担当。98年、欧州総局(ロンドン)。日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員を経て2016年に独立。著書に「起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男」(東洋経済新報社)、「東芝解体 電機メーカーが消える日」 (講談社現代新書)、「稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生」(日本経済新聞社)、「ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正」(新潮文庫) などがある。
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