新体制となるイスラエル諜報機関「モサド」
長官は「ネタニヤフの右腕」から「謎のD」へ

執筆者:山田敏弘 2021年4月29日
エリア: 中東
ネタニヤフ首相(左)とコーヘン長官(C)AFP=時事
イラン核燃料施設への「テロ行為」の犯人として名指しされたモサド。悪名高いイスラエルの諜報機関は今年6月に長官が交代する。ネタニヤフ首相の覚えめでたいコーヘン長官は政界入りが噂され、次期長官には現副長官の「D」が就くという。

 

 イラン中部にあるナタンズ核燃料施設でテロ行為が起きた、とイランメディアが大きく報じたのは2021年4月11日のことだ。何らかの「破壊工作」によって施設が停電したという。

 イラン政府関係者は、直ちにこの事件を首謀したのがイスラエルの諜報機関「モサド(イスラエル諜報特務庁)」であると名指しした。そして約1週間後、実行犯であるイラン人が国外に逃亡しているとして指名手配し、顔写真も公開。その上で、報復として、濃縮度を60%に高めたウラン製造を発表したほか、中東のオマーン湾でイスラエルの貨物船を攻撃したとも指摘されている。

 イスラエルはライバル国のイランが核兵器を持つのを何としても阻止するため、さまざまな手段で核開発を妨害しようとしてきた。核開発に深く関わる科学者らを何人も暗殺し、今回被害にあったナタンズの核燃料施設には、2009年にもアメリカ、オランダなどと共同でサイバー攻撃を仕掛け、遠心分離機を破壊している。昨年にもナタンズの施設では爆発と火災が起き、イスラエルからのサイバー攻撃だったと見られている。

  イランへの攻撃に必ずモサドの関与が取り沙汰されるのは、モサドが対外的な情報収集や極秘工作を中心的に行っている組織だからだ。対イラン工作のみならず、世界各地で活動しているモサドは、最近では国内でもかなり影響力を強めており、その暗躍ぶりに懸念の声が上がるくらいだ。 

 映画や小説などでも耳にすることが多いモサドとは、一体どんな諜報機関なのか。

職員7000人の「最恐」組織

 モサドが設立されたのは1949年。その前年にイスラエルというユダヤ人国家が誕生したが、地中海を背にして周辺をアラブ諸国に囲まれた、まさに背水の陣ともいえる状態で、自国にどんな脅威が迫っているのかを把握する必要があった。そこで発足したのがモサドだった。

 モサドは最初から優れた諜報機関だったわけではない。大国であるアメリカに長年、情報を提供するなどして信頼を勝ち得ることで成長してきた歴史がある。

 それを象徴するケースが、1956年に開催されたソ連共産党大会でニキータ・フルシチョフが「スターリン批判」を行った際、その演説を起こした文書を独自で入手し、アメリカに提供したことだった。この内容はアメリカによって世界に公開され、東側陣営を大きく揺さぶる結果になった。

 これ以降、接近した両国の諜報機関の密な関係性は今日も続いている。

 基本的にモサドについての情報は機密でありベールに包まれているが、首相の指揮下におかれ、職員は7000人ほどと言われている。明らかになっている情報によれば、2019年の予算はモサドとシンベト(国内を担当する防諜機関)を合わせて3000億円を超えている。

 その超法規的で躊躇しないやり口によって、モサドは世界の情報コミュニティの中で「最恐」組織のひとつだと認識されている。

遠隔操作のマシンガンで科学者を暗殺

 モサドの名を世界に知らしめたのが、1960年にユダヤ人虐殺(ホロコースト)の責任者の1人だったナチスドイツのアドルフ・アイヒマンを逃亡先のアルゼンチンで拘束したことだ。イスラエルに連行し、イスラエル国民の前で裁判にかけ、処刑した。

 2010年には、対立するパレスチナ・ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織ハマスの軍事部門幹部を出張先のドバイのホテルで暗殺。その一部始終を収めていた防犯カメラの映像が公開されて大騒動になった。

 意外なところでは、北朝鮮に絡んだ工作だ。2004年に北朝鮮の北西部で、走行中の列車が突然爆発する「龍川駅・爆破事件」が発生。中国訪問からの帰路にあった金正日総書記の暗殺を狙ったのではないかと言われたが、実はこの列車事故では北朝鮮の技術協力で核開発を進めていたシリアの科学者数名が死亡している。そのため、隣国シリアの核開発を阻止するためにモサドが実施した暗殺工作だったとの見方もある。

 先述の通り、イランの核開発問題では、2007年からこれまで6人の科学者をイラン国内で暗殺している。2020年11月に核開発の責任者だった人物を暗殺した時は、GPSや顔認証で居場所を突き止め、自動車の荷台に積んでいた遠隔操作のマシンガンを使ったと指摘されている。現場には、犯人の姿はなかったというのだから驚きだ。

 そもそもなぜモサドはここまで容赦がないのか。筆者が話を聞いたモサドのタミル・パルド前長官は、「強くなる以外、私たちには選択肢がなかった。それに尽きる」と語り、国のためには使える能力は「想像力を働かせて」すべて駆使する意志も述べていた。

 またベンヤミン・ネタニヤフ首相とともにイスラエルのサイバー政策の礎を作った元イスラエル軍少将でテルアビブ大学の教授でもあるアイザック・ベンイスラエルも、サイバー攻撃を駆使する諜報活動や工作について、イスラエルは小さな国だからこそ、サイバーや諜報部門で他国を凌駕する「“ 質”で勝とうとしてきた」と筆者に話している。

現長官はネタニヤフの覚えめでたい野心家

 最近のモサドは、諜報組織の枠を超えた動きを見せている。現在のヨシ・コーヘン長官は野心家として知られ、ネタニヤフ首相の覚えが非常によく、彼の右腕のような存在になっている。

 コーヘンはモサドの幹部だった2013年、ネタニヤフと親しい人物に首相の国家安全保障アドバイザーとして推薦して欲しいと懇願し、そのポストを得ると、ネタニヤフに忠誠を誓ったという。以来、ネタニヤフに気に入られ、3年後にはモサド長官に登りつめた。

 コーヘンがモサドの長官になってから、国外での危険な工作が増え、人的資源や予算も拡大しているという。さらに、ネタニヤフの許可を得て、スパイ組織の長官でありながら表舞台に出て、発言することも少なくない。これは今までの長官にはなかったことだ。

 コーヘンには、「やりすぎだ」との批判もある。例えば、イスラエルは2020年にアラブ首長国連邦(UAE)およびバーレーンと国交正常化しているが、コーヘンはその交渉の過程で極秘に両国に何度も入り、中心的な役割を果たした。さらに、以前から国交のあるエジプトやヨルダンだけでなく、やはりイスラエルが関係改善を図っているサウジアラビアも訪れて調整を行なっている。

 そのような外交交渉をスパイ組織が行うことに、 違和感を持つ国民も少なくない。2019年には、オマーンに外務省の支部をつくるという、当の外務省ですら誰も知らされていなかった話を講演でぶち上げ、「なぜ外交政策をモサド長官が発表するのか」「スパイ組織のモサドが外交政策を決めているのか」と懸念の声が上がった。

 イスラエルではもともと複雑な外交交渉や国交のないアラブ諸国などとのコンタクトには、モサドが関与してきた。ただ、コーヘンが長官になってからはより一層、モサドの存在感が高まり、外交に絡んだ外務省との主導権争いが激化しているという。それもすべて、ネタニヤフがコーヘンを全面的に信頼しているからに他ならない。

 コーヘンはネタニヤフの指示のもと、新型コロナウィルス感染症の対策にもモサドを惜しみなく動員している。

 入手困難になっていたマスクから人工呼吸器まで、医療関連品を国外で確保し、国内の病院に届けただけでなく、世界各地で開発されていたワクチンを入手して調査するようなことも行っていたという。

次期長官「D」の正体

 コーヘンは間もなく長官の職を辞する。本来は今年1月までの任期だったが、新型コロナ対策や米新政権の発足などが続くこともあって、ネタニヤフが6月まで延長した。

 次の長官はすでに決まっているが、まだ正体は明らかにされていない。公表されているのは、現在は副長官の職にあり、イニシャルが「D」であるということだけだ。

「D」は、もともと軍人で、モサドに入ってからはスパイとして情報収集、極秘任務、防諜を担当していた人物だという。「非常に有能で経験豊富」だとされる「D」は、すでに政府による身辺調査を終了して次期長官に就く承認も得ている。

 モサドを去るコーヘンの次のステップは、政界入りではないかと噂されている。ネタニヤフは以前、コーヘンを入閣させたいと語ったことがあるくらいで、彼を自分の後継者のように見ているという。少なくとも、与党「リクード」の党首を引き継ぐ候補の1人に入っている、とイスラエルのメディアでも報じられている。

 新たな体制になっても、モサドの使命は変わらない。モサドが悪名の高い「最恐」のスパイ組織というイメージは間違いではないが、イスラエルという国家と国民の安全を守ろうと命懸けで作戦を遂行しているに過ぎない。敵にすれば厄介だが、味方にすれば心強いと言えるだろう。

 コーヘンのような野心的なリーダーを引き継ぐ次の長官はどんな人物だろうか。まもなく、その正体が明らかにされる。

 

カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
山田敏弘 国際ジャーナリスト、ノンフィクション作家。講談社、ロイター通信社、ニューズウィークなどを経て、米マサチューセッツ工科大学(MIT)のフルブライト研究員として国際情勢やサイバー安全保障の研究・取材活動に従事。帰国後の2016年からフリーとして、国際情勢全般、サイバー安全保障、テロリズム、米政治・外交・カルチャーなどについて取材し、連載など多数。テレビやラジオでも解説を行う。訳書に『黒いワールドカップ』(講談社)など、著書に『モンスター 暗躍する次のアルカイダ』(中央公論新社)、『ハリウッド検視ファイル トーマス野口の遺言』(新潮社)、『ゼロデイ 米中露サイバー戦争が世界を破壊する』(文芸春秋)、『CIAスパイ養成官 キヨ・ヤマダの対日工作』(新潮社)。近著に、『サイバー戦争の今』(KKベストセラーズ)、『世界のスパイから喰いモノにされる日本』(講談社)。
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