饗宴外交の舞台裏 (270)

皇太子訪欧から100年:いま二重写しとなる日中の「膨れた国家意識」

執筆者:西川恵 2021年5月11日
エリア: アジア ヨーロッパ
アーネスト・サトウの『A Diplomat in Japan』がイギリスで刊行されたのは1921年4月28日、皇太子がポーツマスに上陸する11日前のことだった
第一次大戦後に訪欧した裕仁皇太子を英国王ジョージ5世は温かく迎えた。皇太子(後の昭和天皇)は、英王室を「第二の家庭」と呼んだという。だが一方、大国としてのプレゼンスを求める日本の振る舞いは、日英同盟に決定的な亀裂を生じさせてもいた――。当時、アーネスト・サトウの著作『一外交官の見た明治維新』を“禁書”にした日本に、現代中国との符号を見る。

 今年は昭和天皇が皇太子時代に欧州歴訪を行ってまる100年。裕仁皇太子は英国など6カ国を回り、第一次大戦後、列強と並ぶ大国になった日本の存在を見せつけた。実は皇太子の英国到着の直前、英国で一冊の日本に関する本が上梓された。『A Diplomat in Japan』(邦題『一外交官の見た明治維新』坂田精一・訳/岩波文庫鈴木悠・訳/講談社学術文庫)。著者は駐日英公使も務めたアーネスト・サトウ(Ernest Satow)。幕末・明治維新の研究にとって貴重な史料だが、日本では終戦まで禁書扱いになっていた。この措置は、当時の日本の国家意識と無縁ではない。

 この『A Diplomat in Japan』がロンドンのシーレー・サービス社から出版されたのは1921年4月28日。3月に御召艦「香取」で横浜を出た裕仁皇太子が、最初の訪問国である英国のポーツマスに上陸するのが5月9日だから、11日前のことだ。

 著者のサトウ(1843年~1929年)は若き通訳官で幕末に来日したのを皮切りに、計3回通算25年にわたり外交官として日本に勤務した。3回目の1895年から1900年までは駐日公使で、英外務省きっての東アジア通として日英同盟(1902年)の下地を敷いた。

 本書は第1回目の、1862年9月から明治維新(68年)を挟んで、帰国する69年1月までの6年4カ月の日本の体験・見聞記である。来日してすぐに、薩摩藩士が英国人商人などを殺傷した生麦事件に遭遇。この賠償をめぐる薩英戦争(63年)、さらには英仏など4国艦隊による長州藩に対する下関砲撃(64年)などに参加し、砲煙弾雨の中をくぐった。攘夷の白刃に狙われ、斬首刑や切腹など血なまぐさい場面にも行き合う。

 そうしたなか、サトウは流暢な日本語と、日本人に馴染みある名前(サトウはスウェーデン出身の実父の名前で、日本とは関係ない)、さらに好奇心旺盛なその性格もあって、幕府と討幕派の双方に人脈を築く。幕府の高級官吏はもちろん、伊藤博文、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、木戸孝允、岩倉具視など、まだ一介の討幕の志士や公家だった面々とも相通じた。

「公表をはばかる箇所は全部削除」

 幕末、外国列強は日本で真に実権を握るのは将軍なのか、天皇なのか判断に迷った。フランスが最後まで幕府を支援したのに対し、英国は天皇を実権者と見定め、薩摩や長州など討幕派との関係を深めていくが、ここにはサトウがもたらした情報が大きくあずかっていた。

 この本に魅力をもたらしているのは、そうしたさまざまな人物との交流、歴史的出来事の目撃談もさることながら、当時の風俗、風習、さらに市井の人々の人情が、サトウの目を通して生き生きと描かれていることにある。お堅い武士気質、売値の何倍もふっかける商人、小金をちょろまかす小間使い、利発な芸者など、身分制の封建制社会下の日本が、手触り感をもって立ち上がってくる。

 サトウがこの本に本格的に取り組み始めたのは、第一線から退いて隠遁生活に入っていた1919年9月。当時76歳だった。シャム(現在のタイ)の駐英公使(1885年~87年)時代に、折に触れて書きつづった日本の思い出の草稿に、日本滞在中の日記や母に送った手紙、さらには機密扱いを解除された自身起草の公文書などを参照し、約1年半かけて書き上げた。

 裕仁皇太子の英国訪問と重なった出版には、日本への関心の高まりを意識して出版社がこの時期に合わせたことは十分あり得るだろう。しかし日本ではこの本は終戦まで禁書扱いとなった。文部省の維新史料編纂事務局が1938年に「維新日本外交秘録」として訳出しているが、「公表をはばかる箇所は全部削除」とされ、多くの個所が削られた。全章ばっさり落とされたところもある。非売品で、限られた研究者だけが閲覧を許された。

 戦後になった1960年、『一外交官の見た明治維新』の邦題で、岩波文庫から上下2巻で翻訳出版されたが、原書出版から実に40年近くが経っていた。なぜ終戦まで出版が許されなかったのか。翻訳者で解説を書いている故坂田精一氏(元拓殖大学教授)はこう指摘している。

「権威をはばからぬ外国人の自由な観察によって明治維新の機微な消息が国民の目にさらされるのを、『維新の鴻業(こうぎょう)を賛仰』することによって国民精神の基盤としようとした当時の為政者たちが好まなかったからであろう」

 明治維新の大事業賛美の路線と合わなかったというのだ。ただ、そうした理由がないわけではないだろうが、発禁扱いの主たる理由とは別にあると思われる。それは当時の時代状況とも絡む日本の膨れ上がりつつあった国家意識である。

日英同盟から離れる不安の中で

 日本は第一次世界大戦(1914年~18年)で戦勝国となり、世界の列強に伍する大国としての地位を獲得する。裕仁皇太子の欧州歴訪はそうした日本の国威と威信を、大戦で疲弊した欧州列強に示す格好の機会でもあった。

 実際、皇太子の欧州歴訪が明らかになると、欧州各国から招待が相次いだ。ただ日本と欧州の往復だけで船で4カ月を要した時代であり、全行程6カ月という限られた日程もあって、最終的に英、仏、蘭、ベルギー、伊、バチカンの6カ国に絞られた。

 日本ではこの訪欧は、英王室が裕仁皇太子に与えた影響の観点からもっぱら取り上げられる。皇太子は22日間、英国に滞在し、その間、英国王ジョージ5世は皇太子をファミリーの一員として迎え、立憲君主のあり方などについてさまざまな示唆を与えた

 皇太子は帰国後、和装から洋装に切り替え、朝食もハムエッグにトーストといった英国風の生活を取り入れた。また英王室の質実なありように感銘を受け、天皇になってからも一夫一婦制を堅持した。昭和天皇は後に「英国の王室は私の第二の家庭だ。ジョージ5世陛下の慈父のような温かいもてなしの数々は終生忘れることができない」と述べている。

 ただ政治・外交的には日英同盟が風前の灯だったことも押さえておく必要がある。第一次大戦後の日本の台頭は、日米関係を緊張させていた。日英同盟は第三国との戦争に対して、日英のいずれかの参戦義務を規定していた。日本は同盟維持を強く望んでいたが、英国は同盟に対する熱意を急速に失っていた。日米開戦となった場合、英国は日本とともに米国と戦わねばならないからだ。

 最終的に1923年8月、ワシントン会議とともに合意された、太平洋の平和維持を目的とする四カ国条約(日英米仏)の発効によって、20年余にわたった日英同盟は役割を終えたとして破棄されることになる。

 つまり裕仁皇太子が欧州歴訪を行った時期、日本は世界の大国になったとの膨れ上がった自信とともに、一方で英国の庇護を離れ、自分の足で立っていかねばならないかも知れない一抹の不安が兆していた、そんな心理状態にあった。

 こうした時に出版された『A Diplomat in Japan』。日本政府にとって、世界の大国となった日本の威信とイメージにそぐわない内容と映ったことは想像に難くない。

 50余年前の話とはいえ、攘夷による相次ぐ外国人襲撃、砲艦外交の前に屈服した薩摩と長州、斬首刑や切腹がふつうに行われ、駕籠と馬が主たる移動手段だった封建制度下の貧しい社会。外国人の自由な観察によって描かれた日本は、大国になった日本とは表向き大きく隔たっていた。

 このときどう反応するか、二通りある。一つは、元駐日公使の観察眼を範とし、「あの貧しい日本から我々は50年かけて、やっとここまで到達した。まだまだやるべきことは多い」と謙虚に受け止め、これからの日本の参考にするか、あるいは「日本の国威を不当に傷つけるもの」として排除するか、だ。日本は後者を選び、発禁扱いにした。

 明治維新以降、日本はお雇い外国人を招き、外国の文物を入れ、列強に追いつこうと必死でやってきた。日清、日露の戦争に勝ち、第一次大戦では大きな被害を被って疲弊した欧州列強に対して、日本はほぼ無傷で戦勝国となった。かつての日本のよきアドバイザーであり、東アジア通でもあった元駐日公使の著作の発禁扱いには、もう外国から学ぶものはないとの傲慢な心理が覗く。

“禁書”は国家の心理的転換

 私にはこの日本は、いまの中国と重なるところがある。1978年の改革開放によって中国は閉鎖国家を脱却し、外国の支援を受け入れ、謙虚に外国に学ぶ韜光養晦(とうこうようかい=才能を隠して、内に力を蓄える)路線を歩んできた。しかし21世紀に入って急速な国力の増強とともに、習近平政権は韜光養晦路線を捨て去り、自己主張と威圧的態度を強めている。

 中国当局は今年4月には、「西洋思想を崇拝」し、「外国のものをすべて受け入れる」ような書籍を、学校の推薦図書リストや図書館から排除するよう命じた。中国で「アメリカ資本主義の申し子」とされているビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズなどの伝記も含まれるようだ。また中国共産党の機関紙「人民日報」は、大人向けに「共産党の輝かしい100年を学ぶ」ための推薦図書リストを毎月発表するという。

 軍国主義路線を歩んだ戦前の日本にアナロジーを重ねて、威圧的な中国に注意を促す政治家、研究者は内外でいるが、外国の著作の締め出しという点でも、当時の日本と似てきている。「外国に学ぶものはもうない」という心理的転換でもあるかも知れない。

 その後の日本はどうなったか。裕仁皇太子が欧州歴訪から戻ったのは1921年9月3日。体調のすぐれない大正天皇に代わって、皇太子は休む間もなく軍縮と安全保障の課題に直面する。11月11日からワシントンで軍縮会議が開かれるのを前に、ここに出席する日本代表団約50人の壮行の午餐会も主催している。11月25日には病状が悪化した大正天皇の摂政に就いた。

 ワシントン軍縮会議は翌22年2月6日に終了し、戦艦等の建造に制限を設けることで合意。また先に述べたように、日英同盟は役割を終えたとして破棄され、同盟の延長を望んでいた日本はハシゴをはずされる。これから後、日本が孤立の道を歩んでいくのは歴史が証明しているが、元駐日公使の著作の禁書扱いは日本の行く末を暗示している。

カテゴリ: カルチャー 政治
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執筆者プロフィール
西川恵(にしかわめぐみ) 毎日新聞客員編集委員。日本交通文化協会常任理事。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。
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