安倍元総理の襲撃、検証結果は世界と共有を:「地下鉄サリン」カルテも散逸させた日本の責務

執筆者:相良祥之 2022年7月25日
タグ: 日本 安倍晋三
エリア: アジア
銃撃現場を視察する二之湯智国家公安委員長(中央)=7月17日午前、奈良市  (C)時事
安倍晋三元総理の警備体制について、警察庁は検証結果を8月中に公表する。ただ、社会を揺るがす事件の教訓が警察内部で止まっては不十分だ。「地下鉄サリン事件」の包括的な検証ができなかった日本は、国を代表するリーダーが襲撃で命を落としたこの重大事の分析を国内外と共有する必要がある。

   安倍晋三元総理が憲政史上、最長の政権を築いた要因のひとつは国政選挙に勝ち続けたことであった。選挙戦において、安倍氏は街頭演説を重視していた。YouTubeの「あべ晋三チャンネル」を見てみれば、今回の参院選のため地方で熱のこもった応援演説のあと、多くの人々と気さくにふれあっていた様子が残されている。多くの人々が安倍元総理とグータッチをしたい、一緒に写真を撮りたいと、安倍氏のもとへ近付いていったのだろう。

   しかし、この日は違った。2022年7月8日、一人の男が強い殺意を持って安倍元総理の背後から歩み寄り、数メートルの至近距離から2回、銃撃した。安倍氏は凶弾に倒れ、帰らぬ人となった。

   手製の銃による元政治指導者の暗殺は、日本のみならず世界を震撼させた。その襲撃の瞬間はテレビで繰り返し報道され、SNSでも拡散された。襲撃されたのが日本を代表するリーダーであることに加え、日本は銃犯罪が少なく、また来年5月にはG7(主要7カ国)サミットが広島で開催予定である。日本の治安への信頼が根底から揺るがされている。要人の警護警備体制について徹底的な検証が必要だ。

   7月12日、二之湯智国家公安委員長は「このような重大な事案が二度と起きないよう、しっかりとした検証を行い、警護警備の強化に向けた見直しを図るよう」警察庁に指示し、警察庁は検証チームを発足させた。検証の焦点は、警察官の体制や配置、1回目の銃撃が発生するまで安倍氏後方に対する警戒が十分だったか、1回目の銃撃後の数秒間の対応、さらに警護措置要領や装備などとなっている。政府は8月中に検証結果を取りまとめる予定である。

   しかし本事案が世界にインパクトを与えていることを考えると、警察の内部検証だけでは十分とはいえないだろう。また、検証を責任追及や責任回避の場にすべきでもない。個人の凶悪犯罪、あるいは警護の失敗というようなラベルを貼って簡単に終わらせてよい事件ではない。

   重要なことは、要人への襲撃を日本で二度と繰り返させないとともに、外国でも起こらないよう教訓を世界と共有することだ。その観点から、本件の検証で考慮すべきポイントは4つある。

ポンぺオ元米国務長官の警護が現在も続いている理由

   第1に、総理経験者の安倍氏の警護警備において、どのような脅威が想定されていたのか、またそうしたリスクに対して警備体制が十分だったのか、という点である。安倍氏は長野に向かう予定だったが、応援予定の候補者のスキャンダルが報じられたこともあり、襲撃前日になって急遽、奈良入りが決まったという。警護にあたっての人員配置は警視庁のSPに加え地元警察など15名程度と「現役大臣並み」だった。首相退任後も大きな影響力を持った要人(VIP)の警護として、これは妥当だったのだろうか。警察の現行制度に沿って、安倍氏の警護計画は奈良県警で策定され、警察庁には報告されていなかった。こうした警察庁と都道府県警、SPと地元警察との連携も検証対象となる。

   米国に目を転じれば、要人警護で代表的なのがシークレットサービスである。シークレットサービスの主たる警護対象は大統領や副大統領だ。大統領・副大統領の家族、海外の国家元首、そして大統領や副大統領の経験者、就任予定候補も警護対象である。つまり米国では、国の最高指導者は警護対象として別格なのである。

   それでは閣僚経験者はどうか。米国の国務長官は原則として退任後180日間、国務省の外交保安局から警護を受けることができる。興味深いことに、トランプ政権のマイク・ポンペオ元国務長官およびブライアン・フック元イラン担当特別代表には、バイデン政権になっても60日単位の警護延長が更新され続けている。背景にあるのは2020年1月、トランプ政権によるガーセム・ソレイマニIRGC(イスラム革命防衛隊)コッヅ部隊司令官の殺害である。ポンペオ氏とフック氏はイラン政府またはそのエージェントから襲撃を受けるリスクが高いと評価されている。重要なことは、ポンペオ氏やフック氏が暗殺されることは、個々人の安全のみならず、米国政府の外交・安全保障にも甚大な影響を与えるということである。国としてのリスク評価に基づき要人警護のために特別な予算措置がなされている。

   日本で銃による死亡者は年間数名にとどまる。しかし1994年に細川護煕元総理が至近距離で銃撃され、この時には危うく難を免れたものの、2007年には伊藤一長・長崎市長(当時)が暴力団員に拳銃で撃たれて死亡した事例がある。裏を返せば、日本の要人への蛮行では銃撃が多いとも言える。

   日本では元総理大臣には警視庁のSPがつくことになっている。しかしなかには要人本人がSPを辞退するケースもあるという。米国では過去にリチャード・ニクソン元大統領が退任後10年ほどたって、これ以上、連邦政府予算に頼るわけにはいかないとシークレットサービスの警護を辞退したことがある。ただしニクソン元大統領はみずからボディガードを契約しており、必要な警護は続けられた。

   日本は、こうした外国の体制も踏まえ、元総理大臣をはじめ要人に対する脅威やリスクの評価をおこない、どのような体制にすべきか見直す必要がある。

日本から包括的検証報告が出ていない「地下鉄サリン事件」

   第2に、日本政府は検証結果をG7各国の治安機関と共有するとともに、検証報告書の概要を対外公表すべきである。英語版を作成し、正確な情報を海外に伝えることが必要だ。

   1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件は、組織的な化学テロ事案として世界でも稀有な事例である。しかし日本政府による本事件の公式報告は限られており、平成8年の警察白書ぐらいしかない。ここではオウム真理教が関係した事件や捜査の概要とともに、反省教訓として、高度な科学技術についての警察の知識不足、都道府県警察の管轄区域外の権限についての制限などがあげられた。その後、警察の科学捜査体制は強化された。

   しかし、包括的な検証報告書という意味では、地下鉄サリン事件についてこれにあたるようなものは日本にない。被害者のカルテは散逸しており、誰がどう被害に遭い、どんな治療を受け、その後、どのような不安や後遺症を抱えながら生活されているのか、政府によるデータ収集もなされなかった。その作業を地道に続けてきたのは、当時、治療にあたった聖路加国際病院の医師を中心としたNPOである。

   政府による地下鉄サリン事件の包括的な検証やその後のフォローアップ不在は、日本の生物化学テロに対する備えにも支障をきたしている。東京五輪を控え、厚生労働省は研究班を立ち上げ、化学テロ事件が起きた際の被害シミュレーションを作成しようとした。しかしサリンの解毒剤をどれほど準備し、どのように運用すべきか検討しようにも、実際の被害や有効な治療についての基礎的なデータがなかったのである。研究班は結局、医学誌などの研究をもとに推定せざるを得なかった。日本政府は生物・化学テロを経験した国でしか収集できないデータ、そして治療の好事例や教訓を、国内外で十分に共有することができていない。

   地下鉄サリン事件について、もっとも包括的な検証報告書を公表しているのは米国のシンクタンクCNAS(新アメリカ安全保障センター)である。2012年公表(英語版公表は2011年7月)の「オウム真理教:洞察―テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか」という報告書は、英語の原文に加え、日本語訳も充実している。死刑判決を受けた当時の教団幹部から提出された資料も含め65ページの詳細な検証報告書である。本来は日本政府が作成・公開すべきものであっただろう。

国外に正確な情報発信を

   第3に、今回の暗殺が政治的な動機に基づくものでなく、また特定のイデオロギーや思想、宗教に基づくローンウルフ・テロでもない、私的な怨恨による個人の凶行であるならば、そのことを明確に対外発信すべきである。もちろん、外国勢力や特定の組織の支援が本当になかったかどうか、犯行の動機や背景、手段について徹底した捜査が必要である。

   ハイチでは2021年、ジョブネル・モイーズ大統領が暗殺された。それから1年、ハイチの司法当局による捜査が進展していないことに対し、米国の国務省は7月7日、懸念を表明した。要人暗殺について正確な対外発信がなければ、何か隠しているのではないか、政治的な背景があったのではないかと、まったく無用な疑念を持たれてしまう。正確な情報発信が必要だ。

   来年、広島で予定されているG7サミットには、G7首脳のみならず、同志国の首脳や国連など国際機関幹部も招聘される。安倍氏殺害の背景や教訓、そして警護体制の強化について、日本政府は関係各国へ速やかに説明すべきであろう。広島開催にあたりセキュリティに疑念を抱かれるような事態は避けなければならない。時間は限られている。

   第4に、ハイリスクな要人と有権者との距離が近いという、日本の選挙運動のあり方そのものにも見直しが必要ではないか。かつて、ある総理は選挙遊説において、不審な動きをした人物を制しようとするSPに対し、握手しないと選挙にならない、と叱ったという。はたして政府が、総理経験者など要人の街頭演説や有権者とのふれあいなど、国会議員の政治活動に踏み込んだ提言を出せるだろうか。党や国会でも検証を実施することは一案であろう。

   数多の危機に対峙してきた安倍元総理ご本人はもちろん、その危機管理を近くで支えてこられた方々も、無念に違いない。日本のみならず世界の人々が衝撃を受けており、近しい方々の心痛は想像を絶する。この大きな喪失を徹底的に検証し、元政治指導者の暗殺を日本で、そして世界で繰り返させないために、教訓を世界と共有することができるか。その意味で、日本の民主主義のレジリエンスが試されている。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
相良祥之(さがらよしゆき) 公益財団法人 国際文化会館 アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)主任研究員。1983年生まれ。研究分野は外交・安全保障政策、経済安全保障、制裁、国際紛争、健康安全保障。民間企業、JICAを経て国際移住機関(IOM)スーダン(2013-2015)、国連事務局政務局 政策・調停部(2015-2018)、外務省アジア大洋州局北東アジア第二課(2018-2020)で勤務したのち現職。著作に『新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)調査・検証報告書』(共著、2020年)など。国連ではニューヨークとスーダンで勤務しアフガニスタンやコソヴォでも短期勤務。東京大学公共政策大学院修了。ツイッター:https://twitter.com/Yoshi_Sagara
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