
日米開戦前夜の東京で8年間活動し、ドイツ軍のソ連侵攻や日本軍の南進情報などのスクープをモスクワに通報した旧ソ連の大物スパイ、リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)が今、ロシアで脚光を浴びている。ウクライナ侵攻で国際的に孤立する中、国民の愛国心を高揚させ、社会の緊張を高めたい政権側の思惑が垣間見える。
ウラジーミル・プーチン大統領も2020年10月、68歳の誕生日に際し、タス通信のインタビューで、「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」と初めて告白した。時ならぬロシアの「ゾルゲ・ブーム」を追った。
「ゾルゲ公園」「ゾルゲ駅」も
モスクワ北西部のホロシェフスキー地区に昨年12月、「リヒャルト・ゾルゲ記念公園」がオープンした。2ヘクタール、総工費約6億円で、ゾルゲの記念碑も近く設置されるという。この地区には、ゾルゲがかつて属した軍参謀本部情報総局(GRU)の本部が2000年ごろまであり、旧ソ連時代からの「ゾルゲ通り」や「ゾルゲ像」のほか、「ゾルゲ9」、「リヒャルト・アパート」といった集合住宅も存在する。2016年に開通した地下鉄中央環状線の付近の駅も「ゾルゲ駅」と命名された。ゾルゲが駅名になったのは初めてで、この地域はゾルゲ一色だ。
ウクライナ侵攻作戦を進めるロシア軍南部軍管区の拠点があるロストフナドヌーでは今年1月、ゾルゲの胸像の除幕式が行われた。地元の退役軍人組織らが設置し、近くの学校も「リヒャルト・ゾルゲ名称記念学校」と改名された。
ゾルゲの銅像は近年、ウラジオストクやブリャンスクなど各地に設置され、ゾルゲの名を冠した通りはロシア全土に50カ所あるという。政権がモスクワ郊外に肝いりで建設した「愛国者公園」の博物館では2019年、「傑出した軍事情報将校、リヒャルト・ゾルゲ展」が開かれた。
2019年には、国営テレビ「チャンネル1」で、歴史ドラマ「ゾルゲ」(セルゲイ・ギンズブルグ監督)が全12回で放映された。これには、盟友で元朝日新聞記者の尾崎秀実役や愛人の石井花子役で日本人俳優も動員され、上海でロケが行われた。
このドラマは、「スパイを愛した女たち リヒャルト・ゾルゲ」のタイトルで、日本でも今年2、3月に上映された。
「最も有名なスパイ」
大掛かりな諜報団を組織し、1941年に摘発されたゾルゲ事件は、戦後の日本で大きな関心を呼び、約200冊の関連本が出版されたが、世代交代とともに現在は関心が低下した。
ロシアは逆で、2000年にプーチン政権が発足した後、ゾルゲ関係の本が続々出版され、50冊は超えたとみられる。プーチン政権が高揚させた愛国主義や第二次世界大戦の戦勝神話がゾルゲの再評価を後押しした。旧ソ連国家保安委員会(KGB)の中堅将校らが中核を占める政権を、出版社も忖度したようだ。
全ロシア世論調査センターが2019年に実施した「最も有名なスパイ」の世論調査で、ゾルゲは15%でトップ。プーチン氏は4%で4位だった。69%はスパイの名を挙げられなかった。
ゾルゲの墓は、銀座のホステスだった石井花子が東京西部の多磨霊園に戦後建立したが、石井と継承者の姪の死後、在日ロシア大使館が2020年に所有権を取得した。19年に訪日したセルゲイ・ショイグ国防相も墓参しており、来日するロシア要人にとって、多磨霊園が巡礼の地となった。
ミハイル・ガルージン前駐日大使は昨年6月、独ソ開戦記念日に際して墓参し、「ゾルゲ氏の努力や日本の友人らの協力で、効果的な情報ネットワークが築かれ、モスクワは日独の政策について重要な情報を得られた。英雄として死んでいったゾルゲ氏に敬意を表す」と称えた。
セルゲイ・ラブロフ外相は2022年1月、ロシア下院で、ゾルゲの遺骨を分骨し、北方領土に埋葬する計画があると述べて話題になった。
ゾルゲ事件でスターリン批判
日本のメディアでゾルゲ事件が取り上げられることは少ないが、ロシアのメディアは頻繁にゾルゲを論じるようになった。

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