【前回まで】早朝の総理会見は、中国軍の行動に何も触れなかった。仮眠から戻った防衛省の磯部は、樋口二佐に別室に誘われる。そこで統幕の井端から、ある提案を持ちかけられる。
Episode4 カナリア
11(承前)
「大臣は、官房長と出て行ったまま、行方知れずです。ところで、お呼びしたのは、別にご相談があるからです。
磯部さん、昨夜の一件で、我が国の危機管理のまずさが露呈しました。
官邸、大臣、統幕、米軍、すべてがバラバラで、現場は大混乱しています。こんな状態が続けば、いずれ『事故』が起きかねません。昨夜は、我々のトップたちは、よく我慢されたと思います。しかし、政治の後ろ盾のない判断には、限界があります」
対馬沖の事故が発生してから、自衛隊に対して、官邸から明確な指示は、ほとんど出なかったらしい。
とにかく穏便に、戦争の火種をつくらないようにということにだけ専心する官邸。それに対して、防衛出動を繰り返し主張する防衛大臣という構図は、まるで笑えないコメディだった。
「そこで、我々佐官クラスの有志で、要望書を出したいと思うのですが、後方支援をお願いできないでしょうか」
「具体的には、どういう内容ですか」
「今後、発生しうる防衛的危機についてのマニュアル作りを考えています」
「それは、無意味では? 昨夜の対応について、統幕、海幕の動きには、何ら問題を感じませんでした。責めを追うべきは、官邸と防衛大臣です。
かたや、やるべきことをせず、こなた、やってはいけないことばかりしていた。たとえマニュアルがあったとしても、彼らは無視するだけですよ」
「でも、マニュアルがあれば、判断の拠り所になるのでは?」
「昨夜の混乱は、判断に迷ったのではありませんよ。官邸は、判断から逃げた。それだけでなく、暴走する防衛大臣の排除もできなかった」
井端は大きなため息をついて天井を見上げた。
「磯部さんは、総理が代わらない限り、同じことが繰り返されるとおっしゃりたいんですか」
「おそらくは、誰がやっても同じかも知れません」
トップが臆病なのは悪いことではない。舩井のようにアメリカの言いなりになって勇ましいことをやりたがる政治家よりは、はるかに、ましだ。
とはいえ、毅然とした判断は必要だ。そうじゃないと、最前線の自衛官たちが混乱する。
二人は、それを心配しているのだろう。
「かといって、このまま手をこまねいているわけにはいきません。何か手を打たなければ」
それで、暁光新聞に情報を流したのだが、中国海軍の奇策の前に、すべてが吹き飛んだ。
「制服組の行動が思うようにならないのと同様、背広組の我々も、大臣や官邸には刃向かえない。全く無意味な戦争に巻き込まれると分かっていても、為す術がありません」
だが、嘆いている場合ではない。
「官邸には危機意識を高めていただき、大臣には辞めていただく――。そのために、知恵を絞りましょう。まずは、私は辻岡に相談します」
「磯部さんには言うまいと思っていたのですが、今の幕長は人格者です。海幕長も現場から慕われています。彼らを更迭なんてしたら、考えたくもない不穏な事態が起きることだってありえる――。そういう可能性も、頭の片隅に入れておいて下さい」
クーデターでも起こすというのか。
井端の険しい目つきには、そういう懸念を思わせる切迫感があった。
樋口の携帯が鳴った。
電話に応じて数秒で、彼女の顔つきが変わった。
「横須賀が、動き始めました」……
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