
政府の決定
2020年1月28日、安倍晋三総理大臣(当時)は衆議院予算委員会で中国・武漢の在留邦人の帰国のために、現地に向けてチャーター機を派遣すると発言し、同日夜に第1便が羽田空港を出発した。総理は、「帰国後は一人一人の健康状態を改めてしっかりと確認する。その後も2週間、外出を控えていただき、健康状態の確認を行うなど、ケアに万全を期していきたい」と述べた。
総理の発言に先立って、武漢における新型コロナウイルス感染症の感染拡大を憂慮した日本政府は、すでに滞在中の邦人を緊急避難的に帰国させるための調整を中国政府と開始していた。その目処が立ったため、帰国希望者にチャーター便が手配された。
1月29日の第1便で206人、30日の第2便で210人、31日の第3便で149人が帰国した。帰国後の検査で、第1便から3人の感染が30日までに確認された。帰国者の中に感染者が含まれている可能性が考えられるため、帰国後の対応については、一定期間、定められた場所に滞在してもらい、検査で陰性が確認されてから自宅などに戻ってもらうことになった。
これらは政府の決定から短時間で実施されたため、輸送手段や滞在施設の確保を含めて全て手探りの状況であった。感染対策面では、厚生労働省から複数の大学の感染症専門家や感染症関連の学会関係者などに急遽呼びかけがあり、2月4日に政務官室にて会合がもたれた。私もここに参加した。
話し合いの内容は、すでに帰国者を収容する施設として、ホテル三日月、税務大学校和光校舎、国立保健医療科学院寄宿舎、税関研修所が決定し収容も始まっているが、感染症の専門家として施設での指導をお願いしたいという趣旨であった。その際、内科などの医師でも良いのでは、という意見も出たが、感染症について専門のアドバイスが欲しいとのことで要望を受け入れることになった。私の所属する国際医療福祉大学は税務大学校和光校舎を担当し、第4便への受け入れ対応も行うこととなった。
マスコミの姿はなかった税務大学校での受け入れ対応
2020年2月7日、私は埼玉県和光市の税務大学校に向った。最寄りのバス停に降り立つと、施設の沿道は昼間にもかかわらず人通りもまばらで、静かな郊外という雰囲気であった。すでに帰国者を乗せたバスが入り口から施設内に入っていく映像をニュースなどで流していたため、多くの報道関係者が取り囲んでいるのかと思いきや、逆に誰もいない静かな雰囲気に違和感を覚えた。
税務大学校の入り口は大きな鉄の柵で閉じられており、外部の者は寄せ付けない雰囲気であった。守衛室と思われる建物までは距離があり、声は届きそうにない。仕方なく私は携帯を取り出して、中にいるはずの同僚に電話をかけ、「今、入り口の所まで来ましたので、お願いします」と連絡した。
しばらく待っていると、「お疲れ様です」と声をかけながら電話を受けてくれた同僚が近づいてきた。一緒にいた施設の関係者が、それを見て私が今回の受け入れ対応の関係者であることを理解したのか、すんなりと柵を移動させて私を中に入れてくれた。スタッフの方に「もっとマスコミの取材の方がいるのかと思ったら誰もいませんね」と話しかけると、「受け入れの最初の頃はマスコミの取材班も入り口付近に並んでいましたが、それも最初のうちだけで、今回は第4便なので、あまり話題性もないんでしょう」という答えであった。
いったん中に入ると、だだっ広い場所に大学校と呼ぶにふさわしい飾り気のないベージュ色の建物がいくつか建っているのが見える。その日は寒さも和らいで、晴れた空に広い芝生は日光を受けて輝いていた。もし一般に解放されていれば子供たちが賑やかに遊んでいるのかもしれないとさえ思った。
しかしふと、隣の受け入れ施設となっている国立保健医療科学院で2月1日に内閣官房の職員が死亡しており、自殺を図った可能性が高いと報じられたことを思い出し、この穏やかな環境の中で、実は大変なことが起こっているかもしれないという気持ちがよぎった。実際すでにこの施設内にも相当数の帰国者を受け入れているはずであったが、人の気配を感じさせないことが逆に不気味でさえあった。
各省庁に加えDMAT、DPAT、自衛隊からの派遣チームも
「今日も受け入れがあるんですよね」と確認のつもりで問いかけると、「ええ、夕方の予定です。もうすぐ、ミーティングも始まります」と言われ、ある建物の中に案内された。その建物は普段は学生の寮として使用されていたが、もちろん寮生は誰もおらず、玄関では新たな帰国者の受け入れに向けて慌ただしく準備が始まっていた。
部屋にいる人たちの多くは共通の青いベストを着用していて、それぞれの所属が背中に大きく張られ、内閣府、厚生労働省、外務省、農林水産省などの各省庁とともに、災害派遣医療チーム(DMAT)、災害派遣精神医療チーム(DPAT)などが読み取れた。ただ、自衛隊から派遣された人たちは迷彩服に身を包み、明らかに他とは異なる雰囲気を漂わせていた。……

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