日鉄「USスチール買収」は根拠なき熱狂の疑いあり

執筆者:安西巧 2024年10月30日
エリア: アジア
“世界最強企業“と謳われた米GEの躓きは、2015年の仏アルストム買収だった[新体制の人事を発表した日鉄の橋本社長(左)と今井副社長、肩書は当時=2024年1月12日、東京都千代田区](C)時事
橋本英二社長が会長兼CEOに就く人事が発表された今年1月、同氏を次期経団連会長に推す声もあり、日本製鉄にはお祭りムードが広がった。業績は2022年3月期からV字回復、昨年末に発表したUSスチール買収もメディアは好意的に取り上げた。だが、あれから10カ月余りで状況は180度変わっている。いまや2.5兆円に膨らんだ買収費用は、最初に動いた米企業の提示額の2倍強。GEを解体に向かわせたアルストム買収が想起されてもおかしくはない。

「2年ほど、米国での事業をどうするか検討してきた」

 2023年12月18日、日本製鉄社長(当時、現会長)の橋本英二(68)は米鉄鋼大手USスチールの買収計画を発表した際、その狙いをこう語った。総額141億ドル(約2兆1000億円)という投資金額に煽られた内外のメディアは「世紀の買収」と騒ぎ立てたが、橋本自身の認識はこのコメントに凝縮されているように海外事業戦略の延長線に過ぎなかったのかもしれない。

 同時刻にオンライン説明会を開いていたUSスチールの最高経営責任者(CEO)デビッド・ブリットに対し、記者から、120年以上の歴史があるアメリカ有数の鉄鋼メーカーが日本企業の傘下に入ることについて「安全保障上のリスクが生じるのではないか」との質問が飛んだ。だが、ブリットは「日本は米国にとって最大の同盟国の1つだ。リスクは低い」と否定的な見解を示した。「(買収は)経済安全保障に対応するためだ」と会見で語った橋本はじめ日鉄側もそう確信していた。

「財界総理」に浮足立った社内

 ブリットや橋本らの見立てに反し、USスチール買収は即座に「政治問題化」した。

 真っ先に反対の声を上げ「米国の安全保障、産業、労働者の未来を守るために全力を尽くす」とのスタンスを打ち出したのはオハイオ州選出の共和党上院議員J・D・バンス(40)。7カ月後の2024年7月の共和党大会で大統領候補ドナルド・トランプ(78)に指名された副大統領候補である。そのトランプは2024年1月31日、ワシントンで労働組合関係者との面談後に記者会見を開き、日鉄のUSスチール買収を「ひどい話だ。我々は国内に雇用を取り戻したいと考えている」「(買収は)即座に阻止する。絶対にだ」などと言い放った。

 日鉄は年明け早々の1月12日に橋本が代表権を持つ会長兼CEOに就任し、副社長だった今井正(61)が昇格する4月1日付人事を発表。「世紀の買収」をリードした橋本を次の「財界総理(経団連会長)」に推す声も湧き上がり、日鉄の社内外は浮き足立っていたが、トランプの「絶対阻止」発言はそんなお祭りムードに冷水を浴びせかけた。「最大の同盟国の1つ」という言葉を頼りに、現職大統領ジョー・バイデン(81)と首相(当時)の岸田文雄(67)の日米両トップの良好な関係から「米側の反発に対しタカを括っていた感があった」(鉄鋼業界担当のアナリスト)。日鉄の経営陣内には、俄かに緊張感が漂い始める。

 1期目の任期最終年を迎えても、内政外交ともに目立った実績のないバイデン政権への支持率は低迷。その間隙を縫うように2024年大統領選で再選を目指すトランプの人気が高まっていた。時間は前後するが、「Moshi-tora」(もしトラ、“もしもトランプが当選したら”の意)」という日本語が米ワシントン・ポスト紙(4月7日付)に取り上げられる珍事も起きた。

 トランプ発言から1週間後の2月7日、USスチール買収担当の日鉄副社長(現副会長兼副社長)森高弘(67)は米国内に広がる批判について「想定内の反応だ」と余裕の姿勢を装ったが、一方で「(大統領選が実施される)11月が近づくとますます政治が動く懸念が大きい。早めにいろんな手を打って解決していく」と本音を洩らした。

違約金5億6000万ドルの期限は来年6月

 ただ、「早めの解決」は思うように進まない。3月7日になって、森はようやくUSW(全米鉄鋼労働組合)会長のデビッド・マッコール(59)との初会談にこぎ着けるが「何の進展もなく会談は1時間足らずで終わった」(USWのニュースリリース)。その後、森は何度も渡米予定を立て、再会談を要望するが、USW側は「1時間の面談では致命的な問題の解決はできない」と断ったり、時には無視した。森とマッコールの2度目の会談は7月12日。この席でUSW執行部は日鉄側に求める改善項目のリスト作成を約束するが、その後USWから送られてきたのは日鉄への批判を連ねたニュースリリースなどの束だった。

 日鉄は3月15日に、USスチール買収による解雇や工場閉鎖を行わず、現行の労働協約から140%増しの14億ドル(約2100億円)を別途投資すると表明。さらに8月29日にはペンシルベニア州のモンバレー製鉄所の熱延設備新設やインディアナ州ゲイリー製鉄所での高炉改修などの具体例を挙げ、総額13億ドル(約1950億円)の追加投資計画を打ち出した。

 だが、USWの姿勢は一向に軟化せず、時間を浪費するばかり。2023年12月の発表当初、日鉄は買収完了の目標を「2024年4〜9月」としていたが、その5月に入った頃には「2024年内」に変更。買収契約書には「2025年6月まで」に規制当局の承認が得られず、買収が実現しなかった場合、日鉄はUSスチールに5億6500万ドル(約840億円)の違約金を支払うとの記述がある。

 ちなみに「リバース・ブレークアップ・フィー(RBF)」と呼ばれるこの手の違約金は

カテゴリ: 経済・ビジネス
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執筆者プロフィール
安西巧(あんざいたくみ) ジャーナリスト 1959年福岡県北九州市生まれ。1983年早稲田大学政治経済学部政治学科卒、日本経済新聞社入社。主に企業取材の第一線で記者活動。広島支局長、編集委員などを歴任し、2024年フリーに。著書に『経団連 落日の財界総本山』『広島はすごい』『マツダとカープ 松田ファミリーの100年史』(以上、新潮社)、『さらば国策産業 電力改革450日の迷走』『ソニー&松下 失われたDNA』『西武争奪 資産2兆円をめぐる攻防』『歴史に学ぶ プロ野球16球団拡大構想』(以上、日本経済新聞出版)など。
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