NATOにみる同盟の本質――日米同盟と何が共通で、何が異なるのか

執筆者:鶴岡路人 2024年12月29日
タグ: NATO
エリア: ヨーロッパ
盟主としての米国の存在を踏まえつつ、その他の「普通の諸国」をいかにまとめられるかが問われる[アントニー・ブリンケン米国務長官(左)とマルク・ルッテNATO事務総長=2024年12月3日、ベルギー・ブリュッセル](C)EPA=時事
「No Action Talk Only」の略だと揶揄され、存亡の危機が繰り返し語られてきたNATOの75年は、まさに「危機の歴史」の観がある。しかし、それはNATOが「弱い」ことを意味しない。それでも存続してきたから「強い」のだ。この「史上最も成功した同盟」は、同盟の普遍の本質を示すとともに、日米同盟の特殊性を理解するうえでも最重要の参照事例になるだろう。

 NATO(北大西洋条約機構)はかなり特殊な同盟である。創設から75年続き、現在では北米と欧州の32カ国が加盟し、加盟国はいまでも増え続けている。こんな同盟は、歴史をさかのぼっても例がない。「史上最も成功した同盟」と呼ばれるゆえんである。

 しかし、どれだけ特殊であっても、存在感が大きくなったために、NATOは現代世界における同盟の代名詞になった。アジアで多国間同盟の可能性が議論される際に、NATOは文字通りまったく関係ないにもかかわらず、「アジア版NATO」という言葉がすぐに聞かれる。

 以下では、筆者が2024年7月に刊行した『模索するNATO――米欧同盟の実像』(千倉書房)をもとに、NATOにみる同盟の本質を抽出していきたい。ここで取り上げるのは、他国に助けてもらうと同時に他国を助けること、利害の不一致は当然であること、つねに「受け身」の姿勢であること、そして強烈なピア・プレッシャーの存在という4つの点である。

 なお、NATOと日米同盟は、「米国の同盟」という点では重要な共通性がある。しかし、同盟の本質論の観点では違いが際立つために、以下では、日米同盟との比較を交えながら、NATOにみる同盟の本質を考えていくことにしたい。

『模索するNATO――米欧同盟の実像』(鶴岡路人著/千倉書房)

他国に「助けてもらう」と同時に他国を「助ける」

 同盟として当たり前のことをまずは確認しておこう。同盟は「助け合い」、つまり「相互」支援が基礎になる。他国に助けてもらうと同時に、他国を助ける。これが集団防衛、つまり同盟の本質である。他国に助けてもらうことと、他国を助けることは切り離せない。同じコインの表と裏である。

 NATOの基本条約である北大西洋条約の第5条は、「一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃と見なすことに同意」し、「兵力の使用を含む必要と認める措置をただちにとることにより、攻撃された締約国を援助することに同意」している。これが、NATOをNATOたらしめる基礎である。

 もちろんこの条文には曖昧な点がある。たとえば、各締約国が「必要と認める」措置をとるとしている以上、実質的な措置がとられない余地をぬぐいきれない。武力攻撃が発生しても、軍事的な援助は「必要と認めなかった」と強弁する国が出てきかねないからである。自動的な支援が保証されているとはいえない。条約はあくまでも「紙切れ」であり、それに命を吹き込むことが必要なのである。

 そのうえで、助けてもらうだけであれば楽だが、他国を助けるためには、そのための計画や能力も必要になる。2023年にフィンランドがNATOに加盟した際、国防関係者の間では、「自国を自分で守る」という従来の国防マインドセットを転換し、「他国を守る」ための課題が強く認識されていた。史上最短の1日のみの交渉で加入議定書の合意にこぎ着けたため、新たに必要なものはないかのような印象だったが、現実は異なっていた。他国を助けることの責任は重いのである。

 この点、日米同盟で日本が置かれた状況は特殊である。NATOの第5条に準じる日米安全保障条約第5条が適用されるのは、「日本国の施政の下にある領域」に対する攻撃である。米国への攻撃に対して、日本が米国を助ける義務は、少なくとも条約上は存在しない。日米同盟が片務的だと指摘されてきたゆえんである。

 その後、2015年に成立した平和安全法制によって、極めて限定的ながら集団的自衛権の行使が可能になり、双務性への重要な一歩になった。しかし、同法案の審議過程では、集団的自衛権について、「米国を守るためではなく、日本を守るためのものだ」という点が強調された。同盟国を守ることが、なぜそんなにいけないのか。国会を通すための国内的な論理だったとはいえ、同盟の本質論からすれば、かなり異質な議論だったといわざるをえない。

利害の不一致は当然で、それを乗り越える力が同盟の真価

 同盟国の間で利害や政策の不一致があるのは当たり前である。国によって、地理的条件や国内政治状況、歴史、文化などが異なるからである。そのため、同盟の強さは、本来、利害があらかじめ一致しているか否かではなく、違いをいかにして乗り越えられるかよってはからなければならない。

 NATOの75年は、まさに「危機の歴史」である。同盟存亡の危機が繰り返し語られてきた。だから「弱い」のではなく、それでも存続してきたから「強い」のである。2022年2月からのロシアによるウクライナ全面侵攻への対応では、NATOの結束が際立つが、これはむしろ例外に近い。2003年のイラク戦争への対応では、ドイツとフランスが米国に激しく抵抗したし、第1期のトランプ政権時代には、国防支出の水準をめぐって険悪なときが続いた。

 そのようなNATOの意思決定は、「コンセンサス方式」と呼ばれる。実際には、多くの場合、「サイレンス手続き」がとられる。何かが提案され、一定期間内に反対の国が声を上げない限り、コンセンサスが成立したと判断され、提案が可決される仕組みである。全加盟国が賛成の意思表示をする必要はないため、全会一致とは区別され、可決のハードルはより低いといえる。

 とはいえ、これが時間のかかる面倒な仕組みであることは否定できない。意思決定が遅いことは、NATOの大問題である。それでも維持せざるを得ないのは、同盟としての行動には武力の行使が含まれることがあり、犠牲者が出る可能性も考える必要があるからである。そのような際に、「うちは反対したのに」という声があがることを避けたいのである。時間はかかっても、同盟として何かを決定する以上、すべての加盟国がその背後に存在していることが重要なのである。それがNATOの力になる。

 しかし、当然そのためには妥協を強いられることもある。米国の考えがすべてとおるわけではない。しかし、米国が「32分の1」でないこともまた明らかだろう。盟主としての米国の存在を踏まえつつ、その他の「普通の諸国」をいかにまとめられるかが問われる。NATOは、まさに妥協点を探るための装置であり、それこそが同盟政治なのである。

 日米の間でも、利害が一致することもあれば、異なることもある。当然であり、常に一致しているふりをすべきではない。相違があれば徹底的に協議し、合意を形成すればよいのである。少なくとも、出発時点での相違を恐れてはならない。

 ただし、注意しなければならないのは、中国やロシアといった諸国に「弱み」ばかりをみせてしまうと、抑止が損なわれるリスクがあることだ。同盟内で足並みが乱れ、「どうせ行動できない」などと思われてはならない。こちらの意思や能力を過小評価されると、抑止が崩れる危険がある。国内でも足並みの乱れが目立ちがちな民主主義国家は、この点で不利な構造があるといえる。

つねに「受け身」な同盟

 NATOでも日米同盟でも、首脳会合・会談の際に、新たなビジョンを問うてしてしまうのは、メディアや専門家の悪弊である。防衛同盟は、「やりたいことをする」ための組織ではなく、より根源的には、「しなければならないことをする」ための存在である。「しなければならない」ことの筆頭は、当然のことながら、加盟国の防衛である。これに失敗したら、その時点で同盟は終わりである。

 2000年代のNATOは、アフガニスタンでの国際治安支援部隊(ISAF)の指揮をとり、同国の安定化に注力していた。加盟国の安全保障にとってアフガニスタンの安定化が不可欠だという認識にもとづく重要な作戦だったが、究極的には、失敗に耐えられる任務だったかもしれない。失敗すれば、撤退すればよいだけだといえるからである。対して、領土防衛に失敗したら逃げ場はない。

 これは同時に、任務を選ぶ自由がないということでもある。NATOは、加盟国の間で「アフガニスタン疲れ」が高まっていた2011年に、リビアへの介入作戦を開始した。アフガニスタンの苦い経験から、地上部隊の派遣を避け、空爆主体の作戦になったものの、これも、当初の想定とは異なり、「対応せざるをえなくなった」作戦だった。

 重要なのは、好むと好まざるとにかかわらず、何かの行動を迫られたときに、それを遂行する意思と能力があるかである。新たな作戦の実施には、リスクやコストが伴う。「やりたくない」のが本音だとしても驚くに値しない。しかし、たとえ「やりたくない」、負担の大きな任務だったとしても、加盟国の安全保障に必要だと判断されれば、それを遂行する意思と能力を有している同盟であるからこそ、加盟国は自らの安全保障を委ねることができる。ここにNATOのジレンマが存在する。

 これは人間社会でも同じだろう。仕事のできる人のところに仕事は集中するのである。それは負担なのだが、仕事の「できる自分」と「できない自分」とでは、自分にとっても前者の方がよい。そして、自分の負担を避けるために「できない人」に任せて、結果として仕事が停滞すると、自分も被害を被る。そして、より悪い条件で問題解決に関与せざるをえなくなるかもしれない。そうであれば、負担を覚悟して最初から自らが関与する方がよいという計算が成り立つ。しかし、結果として仕事を抱えてしまう。NATOと同様のジレンマである。

 もっとも、会社での仕事であれば、優秀な部下を育てられるかどうかも能力のうちだろう。しかし、NATOの場合は、他のアクターが豊富に存在するわけではないという構造的制約がある。

 いずれにしても、仕事を選り好みできないのがNATOの現実であり、その意味で常に状況に対処するという「受け身」の存在になる。これは、日米同盟も本質的には同じである。「ルールに基づく国際秩序」や自由などのビジョンも重要だが、日米が現状維持勢力である以上、最終的に日米が同盟として何をおこなうかは、中国や北朝鮮、ロシアなどの行動次第である。中国や北朝鮮が武力攻撃などをおこなわない段階で、それら諸国に先制攻撃したり、体制転換のための行動を起こすようなことはまったく想定されない。NATOも同様である。ロシアが動かないのであれば、NATOも動かない。

 その結果、表面的には「何もおこなわない」状態になりがちである。それゆえ、冷戦時代のNATOは、「No Action Talk Only」の略だと揶揄されてきた。しかし、そのNATOは、1日24時間、1年365日、休むことなくソ連を抑止していたのである。

 そもそも、抑止という考え方自体、「相手に特定の行動をとらせないため」のものであり、現状維持志向の「受け身」なものなのである。何かを「させる」のではなく、「させない」ことが目的になる。防衛同盟にとって、ビジョン実現に突き進むのが本来の姿でない点は、何度でも強調しなければならない。

強烈なピア・プレッシャーの存在

 最後に、NATOをNATOたらしめている加盟国間の力学が存在するとすれば、それは、ピア・プレッシャー、つまり「他国の眼」である。

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カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
鶴岡路人(つるおかみちと) 慶應義塾大学総合政策学部准教授、戦略構想センター・副センター長 1975年東京生まれ。専門は現代欧州政治、国際安全保障など。慶應義塾大学法学部卒業後、同大学院法学研究科、米ジョージタウン大学を経て、英ロンドン大学キングス・カレッジで博士号取得(PhD in War Studies)。在ベルギー日本大使館専門調査員(NATO担当)、米ジャーマン・マーシャル基金(GMF)研究員、防衛省防衛研究所主任研究官、防衛省防衛政策局国際政策課部員、英王立防衛・安全保障研究所(RUSI)訪問研究員などを歴任。著書に『EU離脱――イギリスとヨーロッパの地殻変動』(ちくま新書、2020年)、『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』(新潮選書、2023年)、『模索するNATO 米欧同盟の実像 』(千倉書房、2024年)、『はじめての戦争と平和』(ちくまプリマ―新書、2024年)など。
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