ウクライナ「停戦」と「和平」は何が違うか キッシンジャーの「均衡」概念が指し示すトランプの課題(下)

本稿の前半で論じたように、領土問題の解決は、戦争状態の消滅としての「和平合意」のレベルの問題である。キッシンジャーは、その達成については、著しく悲観的である。両当事者が合意する領土問題の解決は容易には果たせないと考えているがゆえに、むしろキッシンジャーは領土の割譲をウクライナに迫ることもしないのである。
安易な領土割譲の押し付けは、かえって事態の複雑化を招くだけに終わるだろう。より具体的に言えば、領土の放棄という著しく困難な事柄を決断するようにウクライナに迫ったところで、ウクライナ国内の政治闘争を複雑にするだけで、必ずしも永続的な平和はもたらされない。「正統性」の問題を看過することもまた、安易に行うべきことではないのである。
しかし領土問題の解決を絶対目標としたら、戦争はさらに長期化し、悲惨なものとなる。そこで次善の策としての「停戦合意」が模索されることになる。その際、「正統性」とは異なる次元で重要になるのが、「均衡」だ。なぜなら「停戦合意」は、力の原理に根差した基準を要請するものだからだ。
「和平合意」を至上の課題とするのであれば、領土問題を解決しなければならず、「正統性」の基準が、不可欠の重要性を持つことになる。ただし、戦闘行為という実力行使の停止だけを目指すのであれば、より重要になるのは、力の原理に根差した基準だ。それが「均衡」である。
均衡なき停戦は崩壊する
紛争当事者同士の力が「均衡」状態に入ると、「膠着状態(stalemate)」が生まれる。これは紛争調停論の大家であるウィリアム・ザートマンが言う「成熟(ripeness)」の状態でもある。「膠着」あるいは「成熟」としての「均衡」が成立するとき、双方の紛争当事者がさらなる利益を期待できず、犠牲だけを受け入れる状態が到来する。それが客観的条件から見た時の「停戦」の条件である。
この時、「均衡」の計算対象になるのは、狭義の意味での戦場における軍事力だけではない。継続的な経済損益や、兵器の生産・運営能力など、軍事力を下支えする諸条件も含めて、「均衡」が計算される。
朝鮮戦争では、米軍の介入と中国軍の介入の後、「膠着」状態としての「均衡」がもたらされ、38度線を兵力分離線とする「休戦」が成立した。第二次世界大戦の際、ソ連の赤軍は、日本のポツダム宣言を受諾する意思表明によっても、進軍をやめなかった。壊滅的な敗北を喫していた日本とソ連との間に、力の「均衡」が存在しなかったからである。米軍が日本に駐留し始めてからようやく、ソ連は進軍を停止した。アメリカの日本への軍事展開によって、ソ連との間に「均衡」が成立したのである。
「停戦合意」とは、最終的な政治的解決を意味するわけではないだけに、むしろ力の均衡という客観的条件を要請するものである。

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