日本史の原点、古代史をふり返ってみると、ピンチのたびに、女王、女帝が求められていたことに気付かされる。たとえば卑弥呼は、2世紀末、倭国の起死回生の切り札として押し立てられている。
もともと倭国に君臨していたのは男王だったが、戦乱が続いた。そこで、卑弥呼が担ぎ上げられたのである。
卑弥呼、台与、推古天皇
卑弥呼は鬼道(きどう)を駆使し、民衆を惑わしたという。長い戦乱によって道しるべを失った民は、神の言葉を求め、女王のカリスマ性にすがったのだろう。 巫女は神の言葉を仲介すると信じられていた。政治を「マツリゴト」というのは、古代の神事と政治が、不可分だったからで、為政者や民が困り果てたとき、巫女の一言が、政治を動かす力をもったのだ。 興味深いのは、邪馬台国の卑弥呼と台与(とよ)、ふたりの女王の時代に前方後円墳という埋葬文化が各地で共有されていくこと、そして前方後円墳体制が終わる6世紀から7世紀、再び女帝の時代がやってくることだ。初の女帝・推古天皇(在位592‐628)が登場し、8世紀まで女帝林立の時代が続く。 前方後円墳体制は女王の時代にはじまり、300年後、女帝の時代に幕を下ろしたのだ。これは偶然なのだろうか。そうではあるまい。前方後円墳の誕生と終焉は、社会体制の激変を意味する。すなわち、女王や女帝は、時代の節目節目に登場していたことになるのである。 ここで指摘しておきたいのは、前方後円墳体制とは、王家や首長(豪族)たちにとって便利な徴税システムでもあった、ということである。 民を支配する王や首長は、前方後円墳の墳丘上で祖神の霊を継承するが、目立つ場所で大仰に神事を執り行なうのは、偉大な神、偉大な王の姿を民に見せつけ、権威づけをするためだ。 民は収穫した穀物の一部を、首長霊(神)に捧げた。奉納された穀物に神の力が宿り(種籾)、豊作を約束された種籾の一部は、民に再分配された。これが税の原始的な姿であり、だからこそ政治と宗教は、密接につながっていたのだ。 ところが前方後円墳体制は、次第に欠点が目立つようになった。広大な土地と民を支配する豪族ばかりが栄え、王家の力は、相対的に弱まる一方だった。また、朝鮮半島情勢が混迷を深める中、「国家の迅速な意志」が求められたのである。 6世紀に蘇我氏が台頭し、推古天皇が即位すると、前方後円墳体制は終焉し、中央集権国家造りのために、朝廷が動き出した。この努力が、のちに律令制度となって実を結ぶことになる。 つまり、ヤマト建国前後の女王の時代、前方後円墳体制が築かれ、弥生時代の混乱は鎮まり、300年後の女帝の時代、前方後円墳体制は解体され、中央集権国家造りが始まったのだ。

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